ゴッドフリート・ヘルンバイン写真集
GOTTFRIED HELNWEIN



構成・解説 伊藤俊治
リブロポート




オーストリア=ウィーンはヤバい芸術家を数多く輩出/排出している。シェーンベルク、ベルク、ウェーベルンら新ウィーン楽派の音楽、シーレ、ココシュカらの表現主義的な絵画、フックスらのウィーン幻想派。
そして、我らがヒーロー、ゴットフリート・ヘルンバイン
……なんて言っても誰も知らないかもしれないし、全然有名じゃないのかもしれない。

とりあえず、以下に彼のウェブサイトを載せておきます。ホラー映画やホラー小説ファンで、病弱でない方、妊娠中でない方はどうぞ。

Gottfried Helnwein - The Official Website

で、気に入りました? クローネンバーグやクライヴ・バーカーなんかの映画に登場してきそうな人ばかりでしょう。被写体はダイアン・アーバスのようなフリークじゃないんだけど、みんな顔に包帯を巻いたり、金属を突き刺したり、火傷にあったような皮膚?をくっつけたり、なかなか「変態」してるよね。多分、ひんやりした実験室で痛々しい「死体」を熱心に演じているのだろう。
まあ、子供にまで(と言ってもヘルンバインの子供なんだけど)こういうことさせてるからちょっとイタいけど、それでも、どこか楽しそう。

でも子供を痛い目に会わせるのは理由があるみたいだ。

ゴットフリート・ヘルンバインは1948年、ウィーンに生まれた。ご存知のように第二次世界大戦は1945年終了。そしてウィーンは1955年までソ連を含む連合国に占領されていた。
この本の解説によると、この占領期間中、強姦のために生まれた赤ん坊の数は驚くほど多かったが、普通に生まれた赤ん坊の数は極端に少なかったそうだ。つまりこの時期に生まれた子供は望まれて生まれたわけではないということだ。そのため、ヘルンバインの一連の作品の中で、残酷な仕打ちを受けている(ように見える)子供たちは重要な位置を占めている。

そして「黒い鏡(ブラック・ミラー)」というシリーズでは、ナチス及びその強制収容所をイメージさせるものになっている。ただしこのシリーズは、作者の切実な経験や調査から生み出されたものではなく、なんとスティーブン・キングの短編小説『ゴールデン・ボーイ』からインスピレーションを得たのだという。こういう感覚は生真面目なドイツとは違うのかもしれない。あるいはこのアーティストは、アメリカ経由のエンターテイメント化された恐怖と贖罪(つまりポストモダン化された)を描きたかったのかもしれない。

しかし、それだからこそ、マージナルな良識に囚われない、パーソナルなヤバさが全開している。グロテスクだけど、どこかコミカル。こういう作品を鑑賞すると「死」はそんなに暗く、そして重くないのかも。



きれいな猟奇
映画のアウトサイド
THIS SWEET SICKNESS

滝本誠 著/平凡社



冒頭の評論「死の岸辺へ」の見開き2ページから名詞/固有名詞を拾ってみる。ドミニック・フェルナンデス、天使の手のなかで、ピエル・パオロ・パゾリーニ、ゲイbyゲイ、カミングアウト、キャンプ・テーゼ、ダイアン・アーバス、ラフェエル前派、ジョン・エヴェレット・ミレイ、ベルトルト・ブレヒト、クルト・ワイル、デヴィット・ボウイ……。

たった2ページにこれほど気になる「名詞」が出てくるとは。もしかしてこれって、お、俺が書いたのか?
いや、そんなことはない。単なる妄想だ……しかし、本棚の奥にはフェルナンデスの本があるし、ソンタグのキャンプ論/写真論はしょっちゅう見返している、そしてミレイの画集を開き、ブレヒト&ワイルのCDを再生……。

という具合に、あまりに自分好みの話題の連続に、まるで熱病にでも罹ったかのように気分が異様に昂揚してしまった。読書をしながら──しかも評論という知性に訴えるような文章を読みながら──、これほどまで熱くなったのはひさしぶりだ。2001年度の文句なしのベストであり、今後何年にも渡って、事あるごとに全文検索──何度も何度もページを開き、読み返し、ここから関連書や映画、音楽等を猟取する──をしていくだろう。

この本は滝本誠の第三評論集にあたる。滝本氏の一冊のまとまった本としては初めて手にしたものだが、彼の文章は、クローネンバーグの『裸のランチ』の劇場パンフレットを始め、「ブルータス」や「ミステリマガジン」といった雑誌、ジム・トンプスンやパトリシア・ハイスミスらの解説などでわりと良く読んでいた。
(というより、この本によって、「滝本誠」の名前を改めて「発見した」というほうが正確かもしれない。例えば最近気がついたのだが、雑誌「ブルータス」の特集「20世紀読書計画」(1994年9/1号)で、ロートレアモン『マルドローヌの歌』、バリントン・J・ベイリー『カエアンの聖衣』、クライヴ・バーカー『ミッドナイト・ミートトレイン』という只者ではないチョイスをしていたのが滝本氏であった。探せば彼の書いた文章、まだあるかも)

装丁も美しい。カヴァーはトッド・ハイドゥのスタイリッシュアな写真が使われている。また、英語タイトルは、著者と同じ誕生日のパトリシア・ハイスミスの作品から取られたものだ。

そして帯に「リンチからトンプスンへ、暗闇のサイコ・ドラマ」とあるように、この本のテーマは「ノワール」。つまり、映画、小説、美術等の持つ、ほの暗い部分(ダーク・サイド)にスポットライトを当て、様々なジャンル間を自在に行き来しながら、その暗黒のテーマに一本の輝かしいメスを、深く、切り込む。

並々ならぬ手腕の持ち主──その論旨は切れ味鋭く、展開はスリリング、どの文を取っても興味深い示唆に満ちている。膨大な情報、丁寧な注、巻末の詳細なインデックスにはただただ圧倒されるばかりだ。確かな手応えを確実に与えてくれる。
特に、デイヴィット・リンチやパトリシア・ハイスミス、ジム・トンプスンといったダークでグルーミーな映画や小説好きには、最良の解説書、最高の贈り物(ドン)となるだろう。

また、ゲイに関する記述もやたらと多い。このゲイに関する言及は、もしかすると「ノワール」を論じるのに避けては通れないのではないかとさえ感じさせる。
ハードボイルドがかろうじて女嫌い(ミソジニー)とホモソーシャルに止まっていたのに対し、「ノワール」では、ホモセクシュアリティという安定したホモソーシャルを打ち砕く性的要素が顕在している、ように思える。つまりノワールのスタイルとは、ある種の価値観のゆらぎ、そのゆらぎの危うさを孕んでいるものなのだ。セクシュアリティの振幅は、その格好の「ゆらぎ」である。それが良いにしろ悪いにしろ、「ノワール」の持つ不安な要素、暗い甘美な魅力を放っていると思う。

滝本氏は、この本で、映画や小説におけるノワールな感覚を読み解いていく。その筆致は明快だが、それは、様々な文学作品や芸術作品へ造形の深さがなせる技であると言ってもよい。そのリーディングはまさに「アウトサイド」をadvocateするに相応しく、そこにその genre、そのinsitnctを十分感じることができる。実に説得力がある。
しかも「ゲイ」を論じるにあたって、滝本氏は、ゲイを「ゲイ」と表記するという本来、評論においてあたりまえのことであるノン・テクスチュアル・ハラスメントを徹底して実行している。

このあたりまえのことが出来ない例は、前述した「ミソジニー」に関しての優れた評論、ジョーン・スミスの『男はみんな女が嫌い』(築摩書房)である。
この本の翻訳者はなぜか同性愛者(ホモセクシュアル)を「ホモ」という侮蔑語で訳している。英語に精通しているはずの翻訳者なら、「ジャパニーズ」と「ジャップ」の差、ニュアンスの違いはわかるはずだ。なぜゲイに対しては、「ジャップ」と同じ意である「ホモ」という言葉を翻訳として選ぶのか。

もちろんそういった例は他にもたくさんあるのだが、この本ではそのゲイ・フォビアがやけにめだってしまう。それはなんといってもジョーン・スミスが男性の心の奥底に潜む様々な形で持って顕れる「女嫌い」を細心の注意を払って告発しているのに、肝心のその訳者が、原作者の意図を一番理解しているはずの翻訳者がその「女嫌い」と背中合わせの「ゲイ嫌い」をあからさまに露呈してしまっている、という逆説に苦笑してしまうのだ。

滝本氏のこの本はそういった有形無形のゲイ・フォビア(ホモ・フォビア)はまったく感じられない。それどころか、通常使われる、「ホモ・セクシュアル」という確かにニュートラルだがどこかクスリ臭いまるで病名のような「言葉」に代わって、滝本氏は、「ゲイ・セクシュアル」という「言葉」を使用している。

多分こういった「言葉」に関することは、「やおい」にうつつを抜かして勉強不足なフェニミストには到底理解できない、セクシュアリティにおけるデリケートな部分、しかし実に本質的な問題なのかもしれない。この本の中にも「フェミニズムのエッジ」という章があるが、下手なフェミニズム批評よりも、はるかに優れている。尊敬に値する。

滝本誠氏の次回作は『アメリカン・ノワール』。刊行を楽しみに待っている。


<滝本誠 関連ウェブサイト>

タキヤンの部屋(滝本誠 公認ページ )
滝本誠さんに聞いてみないとね




マニエリスム芸術論

若桑みどり 著/ちくま学芸文庫



若桑みどりの文章を初めて読んだのは、『夜想』13号(ペヨトル工房)のシュルレアリスム特集であった。それは強烈な文章であった。ガツンとくる文章であった。生半可な知識と興味本位からくる(意味上の)「誤用/誤法」、つまり「知ったかぶり」を見事粉砕してくれた。彼女はこんな風に書くのだ。

「そうではなく、こうである」

これ以上ない明晰な文、これ以上ない簡潔さ。その潔い文章に、僕は、まるで身体に電流が走ったかのようにめろめろになり、その潔い文章がために、彼女にシビレてしまった。すごいぞ、若桑みどり!

この『マニエリスム芸術論』でも同様のショックを受けた。
マニエリスム芸術。澁澤龍彦の著書でおなじみの、奇矯で病的で異端的で退廃的なマンネリズム作品群──そんな思い込みに囚われていた。いや、そんな思い込みがあったからこそ、暗い内面を表層した幻想芸術を愛でるように、それらマニエリスム作品群に惹かれたのかもしれない(実際の美術史でもマニエリスム芸術は不当に扱われていたようだ)。
しかしここでも、ひ弱で、なよなよと肥大する自意識に喝を入れる。

「そうではなく、こうである」

それは、こうである。マニエリスム芸術は、19世紀にはびこる「僕ちゃん、可哀そう」的なロマン主義やフロイト以後、20世紀にブームになる「エロエロ遊ぼうぜ」的なシュルレアリスムとは、根本的に違う、というあたりまえのことを、まず、確認する。たしかにマニエリスムはロマン主義やシュルレアリスムの先駆的な扱いとしての復権があったにしろ、それは「こじつけ」の範囲を出ない。それどころか、
マニエリストは、史上最初のアカデミーを設立した人々である。彼らは、先人の気ままな傑作を、知的に解釈し、教条化し、公式化して、教えたり修得したりできるようにし、それによってだれしもがそういう傑作を描けるようにしたいと考えた。「あちこちから美しいものを集め、これを統一し、まずこの上なく優美な手法(マニエラ)をつくる。ひとたびこの手法ができあがったのちは、これを用いて、いつでも、どこでも、傑作をつくることができるようになる」と最初のアカデミー院長になったジョルジュ・ヴァザーリは書いている。
つまり独創性や個性よりも、何より技法、手法が、16世紀の芸術家にとって最優先課題だったのだ。しかも、独り善がりな個人の夢想に浸るなんてことは問題外で、マニエリスム期の芸術家こそ「公共性」を重んじた人たちであった。
「彼らは「規則(レーゴラ)のなかで」うごめいている。」
「彼らは、神のつくったものを模倣するのではなく、神の創造を模倣しているのである。」
そういった宣言、高らかなマニフェストを発布して、著者は、いよいよ本題に入る。本題。それは、思いっきり乱暴に言えば、一種の「謎解き」である。
この時代(16世紀)の、寓意(アレゴリー)という錯綜したプロットとトリックを持つ、到底「本質直感」だけでは「推理」できない芸術作品を、もし自分が16世紀の人間だったら・・・・・・と膨大な資料を元にプロファイリングしていく。その作業は実にスリリングである。あの、(僕の大好きな)ミケランジェロの「勝利」(右図)から、禍々しくも魅力的な新プラトン主義を導き(逆でもある)、複雑極まりないブロンズィーノの「愛の寓意」から、様々な仕掛けを暴いていき、大どんでん返しに突入する。(芸術家がこのときほど大衆から「自由」であったことはない)

その間、「探偵」は複数登場する。作家として、あるいは当時の派閥の「党首」としても有名なヴァザーリを始め、「イコンノロジー」という新しい「捜査法」を提唱した大御所パノフスキー、『マニエリスム』という著書を書いた若桑の師でもあるハウザーら多士多彩な面々。
そういった、それぞれ鋭い眼光と鑑識力を持つ「美の探偵たち」の証言に耳を傾け、集まった証拠に目を通しながら、若桑は──この本のヒロインは、
「こうである」
と冷静に結論づける。実に、かっこいい!

しかし、もっとかっこいいのは、本題を離れた「文庫版のあとがき」だ。この『マニエリスム芸術論』はこの「文庫版のあとがき」をもって終わる。ここまでが若桑みどりの『マニエリスム芸術論』を読む醍醐味に含まれるのだ。
一九六三年に、最初の成熟した解説書をペーパーバックで書いたシャーマン教授に、一九九二年のヴァチカンの国際会議で会ったとき、わたしは面識がないのにもかかわらず、思わず旧知の人に会ったかのように、あるいはファンがアイドルに会ったかのように、彼にむかって、あなたのマニエリスムを読みました!といった。すると彼は当惑して、「あれは若い時に書いた本です!」と恥じたようにイタリア語で言った。いまならば、もっと別なふうに書いたであろうということかも知れない。シャーマン教授の本とは比肩もできないのだが、わたしもまた本書については同じ感情をもっている。だが若さはまたかけがえのないものであって、老年が手を加えることがとうていできない。

L'ho scritto da giovane!
まるでP・D・ジェイムズのヒロイン、コーデリア・グレイの活躍を思わせるではないか! 素晴らしいエンディングだ。



デリダ

林好雄・廣瀬浩司 著/講談社選書メチエ



そうだったのか、デリダって!
と、眼からウロコのジャック・デリダ入門書。なにより、そのプレゼンテーションが素晴らしく上手い。

『デリダは難解か?』というプロローグ(プレ・戯れ、つまり……)に始まり、まずは『デリダの生涯と思想』でサクっとこの高名なフランス人哲学者について概説、じわじわと興味が湧いてきたところで(気分が昂揚してきたところで)いよいよ本番。デリダ思想の中核を懇切丁寧に、易しく/優しく、攻める(『デリダ思想のキーワード』『知のみなもとへ──作品紹介』)。そして、「形而上学批判」ならぬ正常な/単調な身振りを破砕=正常位批判、とでも言いたい『三次元で読むデリダ』における前後左右別な角度(視点)からのダメ押しと突っ込み、さらに『知の道具箱』で甘美な余韻に浸りながらレファレンス的な情報&その後の指南=アフターケアを提示する。

これ以上はムリなくらい平易でわかりやすい解説。だから手ぶらで──例えば「シニフィアン」にも説明があったりと──読むことができた。エクリチュールって快感だな。

この本を読んで、食わず嫌いは良くないな、と本当に思った。デリダって確かに難解で、あるいはその難解さゆえに、その語彙が権威的に「使用」されたりして、これまであまり良いイメージがなかったんだけど、実際はとても面白いし、ずいぶんといいこと書いてるじゃない。
とりわけ、『デリダの生涯と思想』で紹介されているいくつかのエピソード──デリダの特異なアイデンティティ(植民地アルジェリア出身のユダヤ人)とその思想の関係はいろいろと考えさせられたし、麻薬密売容疑で逮捕拘留されたことには仰天したし、フーコーやアルチュセール、ソレルス(掲載されている写真がとてもハンサム!)らとの交友なんかは、とても興味深く読めた。やっぱり当該人物に関心を持つこと──好きになること──が大事かな。

個人的には「代補」という考え方に惹かれた。さっそく僕の「戦略」に取り入れたいと思う。
それと「亡霊学」のところで
亡霊が現われるとき、私は何かに見られていると感じる。その視線は眉庇の下に隠されており、私の視線と亡霊の視線は決してまじわらない。亡霊は、私が見る前に、私を見る。私は、亡霊の視線の前では盲目なのである。だれもいないはずの街でだれかに見られているような感じがしたり、鏡の中の自己像がちょっと目をそらしたときに自分を見ているような感じがしたりする体験を思い浮かべてもよいだろう。それは肉体を持たない虚像の視線、現われないものの現われである。

p.117
という説明が印象的だった。もしかするとマーガレット・ミラーの『鉄の門』や『狙った獣』をデリダ的に読解することができるかもしれない。

……で、ピエール・ブーレーズの『プリ・スロン・プリ』を聴きながら、東浩紀の『存在論的、郵便的』を再読してみたいと思う。