この時代に想う テロへの眼差し
In Our Time, In This Moment
スーザン・ソンタグ 著/Susan Sontag
木幡和枝 訳/NTT出版
サイード、チョムスキーらの著書とともに、9.11、つまり2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件について、アメリカの「非」を告発した「話題」の本。サイードのレビューが載ったインターネット・マガジンによると、サイード、チョムスキー、ソンタグら三人は現在、アメリカでは「非国民」扱いだということだ。
もちろんこの本を良く読むと、彼女は単純な「否」を述べているわけではない。なんでもかんでも「否」と唱えるずうずうしくもナイーブな感性を持ち合わせているわけではないことは、これまでのソンタグの著作や言動に触れている人たちにとってはわかりきっていることであろう。
僕はスーザン・ソンタグの「ファン」として、この本で展開された彼女のアジテートな言説に多大な感銘を受けた、と、まず表明したい。
ただし、このテロの議論において、もしかするとソンタグは多少の役不足を感じているのではないか、そんな気がしないでもない。それはブッシュ大統領を始め「アメリカ」が言語的に混迷しているのは、日本の「ニュース・ショウ」のキャスターに揶揄されるまでもなく、またそのことが、机上の議論において好戦的な「反戦家」たちの格好のレトリックの素材程度にしかならないことを、なんとなく感じているからだ。
だからもっと激烈なアメリカ批判を期待していた──かつてのヴェトナム戦争批判のように。そういった「期待」からすると、ある意味肩透かしを食らうかもしれない。彼女は本質的に正しく、ごくまっとうな意見を述べているだけなのだから。考慮すべきは、ソンタグはアメリカ人でアメリカに住んでいるということだろう。
9.11に関してこの本は、実は全体の4分の1程度しかページを割いていない。他は1993年のサラエヴォ滞在、大江健三郎との往復書簡、アムネスティの講演、エルサレム賞のスピーチが収録されている。僕はどちらかといえばこちらのテクストのほうが、興味深く読めた。特に『エルサレム賞スピーチ』は、スピーチされた時と場所を考えれば、かなり「老獪な」テクストではないだろうか。
そう、老獪。そんなこれまでのソンタグのイメージらしからぬ言葉が思い浮かぶ。
例えば『サラエヴォでゴドーを待ちながら』における、戦闘中のサラエヴォでベケット劇の公演を企てるという一歩間違えば「知識人」の泡沫にすぎなくなること。しかしソンタグは十全の説得力で持って、その不条理な企てを貫徹した。こういった「一見」向こう見ずとも取れるヒロイックな行動は、十分なアピール性を持っていることを知っての確信的な行いだろうか。彼女はとても「老獪」になっている。
(……
このサラエヴォでの『ゴドーを待ちながら』上演という彼女の「企て」は実際、かなりのセンセーショナルを巻き起こし、ある種のモニュメントとしてヨーロッパ人の記憶に残ったようだ。
浅田彰の『ゴダール/モーツァルト』(キネマ旬報2002年5月上旬号)によると、フィリップ・ソレルスが『マリヴォー戯曲全集』の書評として「アメリカの女性作家はサラエヴォで『ゴドーを待ちならが』を上演するのがいいと考えたが、サラエヴォで上演するべきは(マリヴォーの)『愛の勝利』なのだ」(浅田彰『ゴダール/モーツァルト』「戦争/演劇」より)と『ル・モンド』に書いたそうだ。しかも、その「書評」がそのままゴダールの映画『フォー・エヴァー・モーツァルト』に登場する。
ソンタグには卓越したゴダール論(『ラディカルな意思のスタイル』晶文社)があり、映画-ゴダールと演劇-ソンタグとの「関係」を読む(観る)のも面白いと思う。
……)
そのため、彼女に振りまわされ、オロオロするのは従来の「知識人」のイメージにぴったりのナイープな知識人、大江健三郎かもしれない。『未来に向けて──往復書簡』では、ソンタグがNATOによるコソヴォ空爆を「支持」したことに対し、大江は「それはわたしたちの<誤読>なのか」とナイーブな質問を投げかける。ソンタグの答えは一言「<誤読>ではない」ということであった。
このことは、例えば現在話題になっている笠井潔と東浩紀の『哲学往復書簡2002』No6において笠井が述べている、ユーゴ内戦において左翼的と見なされていた「知識人」の分裂、「左翼=反戦派という旧来の等式は、この時点ですでに崩壊していた」そのものであろう。
http://shinsho.shueisha.co.jp/shokan/6/index.html
大江健三郎も理想的で良いことを言っているんだけど、ちょっと甘いかな、と感じてしまう。ただこの往復書簡で、ソンタグと大江がある共通の「単語」を使用し、彼らそれぞれが内在している違和感について展開される考察は、非常に示唆に富んでおり、興味深く読めた。その単語とは「キッチュさ」。大江は、まあ予想通り「日の丸」に「キッチュさ」を感じ論を進めていく。僕は大江の議論自体にはそれほどピンとこないのだが、この「キッチュさ」を用いた議論にはいろいろと感じるものがあった。
それは「やおい」がまさにその嫌らしい「キッチュさ」を孕んでいるからだ。大江はいわゆる「識者」がアジアの近代についてリアルな「認識」を持っていないことを非常に嘆いている。しかもそういった「識者」が教育家めいたご託宣をたれていることも。
このことは、フェミニストを自認する人物が法外な同性愛差別を「認識」せずに「やおい」について平然と言及することと同じではないか、と感じる。しかもそういった「フェミニスト」が教育家めいたご託宣=テクスチュアル・ハラスメントをたれていることも。
かつて「バカチョン」という言葉があった。これは「バカでもチョンでも写せるカメラ」という侮蔑的な言いまわしから来たものだろう。よくこんな「造語」を考えたもんだと思う。多分「バカチョン」という言葉を考えた人は、自分では上手いと得意になっていたのだろう。
「やおい」はまさに「バカチョン」という「造語」と「同等」であろう。「やおい」は「やまなし、おちなし、意味なし」「やめて、お尻が痛い」というネガティブで侮蔑的な意を「凝縮」した言葉である。差別的思考を持った人物(たち)が得意になって使用し広めた。
しかも「やおい」関係者は多くの場合「ホモ」という蔑称を好んで使う。それは「やおい」と「ホモ」という言葉が、その侮蔑的な比重に置いて「同等」だからだろう。蔑称を「わざと」使うことによって、それほど、他者に対し「優越」したいのだろうか。それとも、「やおい」や「ホモ」という蔑称をまるで合言葉のように使って、なにかしらグループとしての一体感のようなものを得ようとでも思っているのだろうか。
間違っていると知っていても、間違っていることをやってのける、人間のその能力にも私は驚いています。
『未来に向けて──往復書簡』p.120
僕はこの往復書簡のキモは、このソンタグの述べている人間に対するシビアな「認識」だと思う。この認識によってソンタグの言動に変化が現われたのかもしれない──老獪で現実的な。NATOの爆撃を支持したり、『戦争と写真』ではかつて発表した『写真論』の書き換えがある。そこには「間違っていることをやってのける人間の能力」を認めた知識人の憂慮が感じられてならない。