異常心理小説大全
野崎六助 著/早川書房
海外ミステリの中で、特に「サイコミステリ」に的を絞った評論・ブックガイド。扱われているテーマがユニークなこと、チョイスされた本がユニークなこと、それらを論ずる切り口がユニークなことで、海外ミステリのブックガイドとしては出色の出来ばえである。著者は『北米探偵小説論』で日本推理作家協会賞評論部門を受賞している。
全体は大きく3部に分かれている。第1部は「多重人格ミステリー・ツアー」として、ダニエル・キイスの作品から始まり、この手の作品として有名なものが古典から現代作品まで選ばれている。
第2部は「シリアル・キラーたちの肖像」と題し、エンターテイメントとして一世を風靡した「いわゆるサイコスリラー」に焦点を当てている。著者は、これらの作品に登場するサイコキラーたちをカタログ的に分類し、彼らの「個性」についてコメントしているが、ここで導かれるシリアル・キラーの条件は、「白人・男性・異性愛」ということになるらしい。ハンニバル・レクターとはここで会える。
第3部は「異常心理小説ア・ラ・カルト」としてサイコミステリの「真髄」と呼べる傑作について論じている。作者が言うにはこの部分が最も「濃密」であるということだ。ジム・トンプスン、ルース・レンデル、パトリシア・ハイスミス、マーガレット・ミラーらが論じられる。
筆者が「濃密」と言うように、やはり第3部での評論が一番興味深い。第2部で扱われた小説群は、時機を過ぎればいずれ忘れ去られてまうだろうが(もう既にその感があり)、第3部で論じられた作品は傑作として長らく読みつづけられるだろうと思う。僕の好みの小説もほとんど第3部に該当する。
これら「サイコミステリ」を論じるにあたり強調しておきたいのは著者のスタンスである。「サイコ」というある意味「人格障害」を扱うものである以上、慎重さとある程度の配慮は忘れてはならないと思う。著者は序文とあとがきで実際の事件を言及しながら(連続少女誘拐殺人事件、酒鬼薔薇事件など)、この本における著者のスタンスをきちんと述べている。
「ストーカー社会」とはいうまでもなく「ストーカー狩り」の社会なのだ。この点をみないストーカー騒ぎはどうしても無責任なワイドショー感覚に突っ走ってしまう。何もかも自分本意で他人の「人格障害」ばかりやたら気になるのだ。不気味な他人を細かいチェック項目で選り分けて排除していこうとする用心は、過度にやれば魔女狩りのヒステリーをまきおこす。
p.14
この本は
もともと「サイコドラマ・サイコパシー」として『ミステリマガジン』に連載されていたものを纏めたものである。しかし単行本化にあたってかなりの加筆、編集等が行われ、体裁もずいぶんと変わった。例えば連載にはあったヘレン・マクロイが削除され(ちょっと残念)、代わってパトリシア・ハイスミスが増強されるなど。
連載当時、僕はリアルタイムで読み、毎月楽しみにしていたものだった。何より連載数回目で登場したマーガレット・ミラー論に感激し(例外的に3回続いた)、その勢いで、まだ未読だった『鉄の門』をゲットすべく東京中の古本屋を探しまわった。実際野崎氏もマーガレット・ミラーに心酔しているようで、この本の最後を飾るのはミラー論である。
ここで著者はミラーの作品を次の四点に特徴づけている。
- 愛の不在・・・・・・・・・『ミランダ殺し』『明日訪ねてくるがいい』等
- 家族と収容所・・・・・・『狙った獣』『心憑かれて』『鉄の門』
- 常軌を逸した人物・・『マーメイド』『心憑かれて』『ミランダ殺し』
- 替え玉幻想・・・・・・・『鉄の門』『狙った獣』『耳をすます壁』
さらに
あとがきで野崎氏は、ミラーの作品世界の多様さ、素晴らしさを絶賛している。
ミラーはやはりわたしにとって「まるで天使のような」書き手だ。サイコミステリに通常の法則はなかった。勧善懲悪の紋切り型はあとからつくられたものだ。それとつながって、人間の持つサイコパシーがサイコドラマにとってゲームのルールであるとする認識は、ひどく俗流のものとして蔓延している。こんなふうに割り切ってシリアル・キラー小説を量産する才人たちがそのいいサンプルだろう。しかし異常心理を手玉にとる遊戯性のきわどさを知りぬいたうえで、なおそのゲームのキャパシティーに賭けようというミラーの方法は、誰にも挑戦されなかったハードルだ。サイコがサイコに重なる<サイコ2(二乗)>な世界、そこにゲームのルールをあてはめて成功したのはミラーただ一人である。
p.244
そしてミラーの作品(論)が、どうしてもマーガレットとケネス(ロス・マクドナルド)の人生(観)とシンクロしてしまう感慨も、その文章から滲み出ている。
鏡と皮膚
芸術のミュトロギア
谷川渥 著/ポーラ文化研究所(ちくま学芸文庫からも出ている)
美しい装丁の本を開き、目次を見る。真中に「間奏 可視性の謎」というベラスケス「侍女たち(ラス・メニーナス)」をめぐる文章。右側に鏡をめぐる3つの文章、左側に皮膚をめぐる3つ文章。さらに「序」と「結び」がそれらを取り囲む。そう、この本の構成自体が鏡面のようなシンメトリーを形成している──ターニング・ポイント(転回点)であるベラスケスの絵を挟んで。
マーガレット・ミラーの小説に魅了されて以来、「鏡」に関するテクスト、「鏡」を論じるテクストに俄然関心が高まった。この本もそういった理由で手に取ったのだが、ミラー作品同様、なかなかに仕掛けの施された手強いテクストであった(難解というわけではない。巧緻に長けた素晴らしいテクストということだ)。
この本は「鏡」と「皮膚」という二つの<表層>について徹底的に論じられている。メタファーとしての「鏡」そして「皮膚」、芸術における「鏡」と「皮膚」の意味──意味するもの。
副題にあるように、神話(ミュトロギア)を絡ませ、鏡と皮膚に関する古今の膨大なテクストを参照し、ギリシアの遺跡からシュルレアリスム絵画、イブ・クラインやジャスパー・ジョーンズ等の現代絵画、さらには映画の映像までを含めた「イメージ」が集大成されている──「オルペウスの鏡」から始まり「ナルキッソスの変幻」「メドゥーサの首」という「鏡」モデル、「マルシュアスの皮剥ぎ」「ヴェロニカの布」「真理のヴェール」という「皮膚」モデルに二分されて。まさに博覧強記の知識が縦横無尽に駆使されている。徹底して語り尽くされている。この本によって、絵画の見方が刷新されたといっても過言ではない。
また、間奏のベラスケス「侍女たち(ラス・メニーナス)」をめぐる議論も、ミシェル・フーコーが行った分析との対比(「フーコーの分析」の分析、そして反証)によって、この空前絶後の傑作絵画の「仕組み」(トリック)がより鮮やかに浮かび上がってくる。
著者はここで、フーコーが示した前提──国王夫妻が映っている鏡がこの絵における中心であるという前提を、「危うい」ものとしている。そして臆断を排し、ピカソが描いた「侍女たち」を引き合いに出し(哲学者の「視線」ではなく、画家の「視点」で持って)、その他の様々な「証拠」を提示しながら、この絵の重点が後方の「戸口」と「戸口に立つ男」にあることを示していく。
……エラリー・クイーンばりの推理。そう、この部分=間奏は、まるで推理小説を読んでいるようなスリリングな時間/瞬間だ。のみならず、この「間奏」が──ここで論議される「視点」の問題が──前半の「鏡」と後半の「皮膚」を結びつける重要なアリバイとして機能している。
鏡と皮膚の共犯関係は暴かれた。
ロシア・アヴァンギャルド
亀山郁夫 著/岩波新書
アルテ・ノヴァからボックス・セットで出たロシア未来派のCDが決定的だった。このCDは、アレクサンドル・モロゾフやニコライ・ロースラヴェツと言ったわりと名前が知られている作曲家から、 Michail F. Gnesin、 Lef Knipper など、どう発音するのかさえも分からない作曲家までの作品が──すべて世界初録音と言うことだ──まとまって収録されている。
聴いてみて、まったく魅了された。これほどまでに才気溢れる音楽が、この時代のロシアにあったなんて! もともとスクリャービンは大好きな作曲家であったが、これにより「ロシア・アヴァンギャルド」と呼ばれるものに俄然が興味がわいた。
この本は、詩や絵画、演劇、建築、音楽、映画などあらゆるジャンルに起こった革命的な運動、すなわちロシア・アヴァンギャルドについて網羅的に──著者によるとコラージュ風に──概説したもので、格好の入門書になっている。巻末のロシア・アヴァンギャルド小辞典や参考文献など役立つ情報が満載で、すべてのジャンルに渡って、この「未曾有の芸術革命」を俯瞰できる。
もちろんただ単に情報を得ただけではなく、この本を読みながら、若い芸術家たちの革新的なアイデア、大胆不敵な振る舞い、溢れんばかりのエネルギーの発露に感激したことは言うまでもない。
「過去は狭苦しい。アカデミーやプーシキンは象形文字よりも分かりにくい。プーシキン、ドストエフスキー、トルストイ等を現代の汽船からほうり出せ。」
ギレヤ派詩人たちによる文集『社会の趣味への平手打ち』のマニフェスト
そしてロシア人としてのプライド。このアヴァンギャルド運動はロシアだけでなく、ヨーロッパ中で起こっていたが、特にマリネッティを中心としたイタリア未来派との「対決」のエピソードは非常に興味深く、またいろいろと考えさせられた。
マリネッティは「世界の唯一の衛生法である戦争」を賛美し、これがムッソリーニ率いるイタリア・ファシスト運動に繋がっていくのだが、ロシア未来派は反戦的であった。またイタリア未来派がインターナショナルに傾いていたのに対し、ロシア未来派はスラブ的な異教や民衆文化に「未来」を見ていた。こういった「反目」のために、マリネッティの訪ロに対し、フレーブニコフは講演会の妨害工作を企てたほどだ。フレーブニコフはマリネッティに宛にこんな文章さえ書いている(実際は未投函)
われわれはなにも外部から接ぎ木するいわれなどまったくなかったのです。なぜならわれわれが未来に飛び込んだのは一九〇五年だったからです
この1905年。これが実はロシア・アヴァンギャルドにとって重要な年号で、1905年を起点にこの芸術革命が起こったと言えるのだ。1905年……そう、日露戦争。つまりロシア・アヴァンギャルド運動は日露戦争によるロシアの敗北が一つの要因としてあるということだ。
しかも日本の影響(因縁)はそれだけでない。フレーブニコフは『二人の日本人への手紙』というユートピア的提言を綴り、ブリュニュークは日本を訪れる。1928年には歌舞伎がソ連で公演され、エイゼンシテインやメイエルホリドに影響を与える。
そして、ロシア・アヴァンギャルドの終焉とも言えるメイエルホリドの銃殺は、彼が「日本のスパイ」という疑いをかけられたからだった……。
マレーヴィチのスプレマティズム絵画、マヤコフスキーのプロパガンダ的詩、エイゼンシテインのモンタージュ、メイエルホリドの演出……。どれも若々しい感性漲るまさに革命的な芸術であった。事実ロシア革命と連動した輝かしい理想を掲げた運動であったが、しかし、実際のロシア革命が進み、スターリンが権力の座につくと、これら芸術の革命運動は瞬く間に雲散霧消してしまう──それは何故なのか。この本ではそのことについても考察されているが、著者は単なるスターリン=悪で終わらせてはいない。
圧殺、枯渇、完遂。いくつかのアプローチで、アヴァンギャルドの運命について考えさせてくれる。
マクルーハン
W・テレンス・ゴードン 著、宮澤淳一 訳
ちくま学芸文庫
帯に書かれた「君は読んだことがあるかい?」という言葉に、ビクッと電流が走った。たしかどこかで「マクルーハン」という名前は聞いたことがあるけど、誰だっけ?
……というわけでページを開いたら、これが、なんともポップでキュートな本だった。とにかくイラストだらけ。タイポグラフィー弄りまくり。学芸文庫にこういう本があること、そのことがなんだかすごく楽しい、嬉しい。
この本は思想家マーシャル・マクルーハンの入門書。マクルーハンは1911年に生まれ1980年に亡くなったカナダの学者。かつてその理論は一世を風靡したのだけれども、没後その名声はガクンと下がる。しかし現在、デジタル時代(インターネット時代)になって再評価、復活した。
マクルーハンは「ポップカルチャーの大司祭」、「メディアの形而上学者」と称されただけあって、なんだかすごく親しみやすい「学者さん」みたいだ。その理論は決して晦渋なものではない。だからそんなマクルーハンはデジタル時代を代表するクールな雑誌『ワイアード誌』の守護神にもなっている。
この本もまるでワイアード誌の記事のような体裁で、日本人からみると可愛げのない、ちょっとキッチュなイラスト──それが、アメコミっぽくて面白いけれど──付きでマクルーハンのエッセンスを紹介している。著者のテレンス・ゴードン氏はソシュール関係の著書や遺族公認のマクルーハンの伝記なども出しているようだ。
そして何より素晴らしいのが巻末の訳者、宮澤淳一氏によるマクルーハンの文献集。その労作、その資料的価値の大きさは特筆すべきであろう(宮澤氏はグレン・グールド──そういえば彼もカナダ人だ──関係の書籍も手がけていて、近刊の『グレン・グールド伝』もすごく期待している)。
「メディアはメッセージである」とか「グローバル・ヴィレッジ(地球村)」と言ったキャッチーなセリフを残し、広告やマンガまでも分析したマクルーハン。その理論はぜんぜん古びていないし、もしかすると『動物化するポストモダン』よりも、先を行っている(いた)んじゃないんだろうかと思ったりもする。
ジル・ドゥルーズと「恩寵」
あたかも、ギリシャ人のように
蓮實重彦 著
批評空間1996-10号所収、太田出版
……ドゥルーズにとって、ギリシャとは、思考することが初めて「概念」の生産となりえた時代としてのプラトンのギリシャにほかならず、それ以前でも、それ以後のことでもない。『哲学とは何か』のドゥルーズは、哲学を「概念を創造することに立脚した領域」と定義しながら、それにことのほか精通していたのがプラトンだと説いている。だから、「概念」というより「体系」を作りだしたアリストテレスは、ギリシャ人と見なされていないかのようなのだ。
p.44
謎めいた言葉──としか言いようのない──が組み込まれたドゥルーズのステートメントは、どうも苦手なんだけど、「プラトン」という文字列にフラグが立った。この蓮實重彦のテクストを読むと、ドゥルーズはプラトンとかなり密接に繋がっているようだ。
というわけで、蓮實重彦にそってドゥルーズを、ドゥルーズにそってプラトンを……すると不穏な三角形ができてしまうので、プラトンはあくまでも「定数」で他の char (ドゥルーズ、蓮實)を「変数」として読んでしまおう。まあ、最初からそのつもりだったので。
で、この文章によると、ドゥルーズの「振る舞い」は、「プラトンを凌駕することなど不可能だし、プラトンが永久にやりとげてしまったことを蒸し返しても、何の得にもならない」ので、「哲学史をするか、プラトン的ではないさまざまな問題にプラトンを接ぎ木するか」という二者択一で後者を選んだ、ということだ。
ふうん、ドゥルーズって意外と潔いよいんだ。ということは、ドゥルーズはプラトンの「プロトタイプ」であるということか……俄然ドゥルーズに関心がわいてきた。
さらに彼は、『パイドロス』、『饗宴』、『パイドン』を偉大なる三部作と呼び、それぞれ「錯乱、愛、死」であると評している。こういうエレガントな「技」を持ち出すのは、さすがだなあと思う。『国家』を別格とすれば、僕もこの三作が大好きなので、同じ「ファン」がいて嬉しくなる。
あと、いろいろとドゥルーズの「ローカル変数」からプラトンの「グローバル変数」への「マイグレーション」が論じられ、この論説は非常に興味深いのだが、とくに次の文章に注目したい。
ギリシャ的なものにあって、とりわけ二人の哲学者(ベルクソン、ニーチェ)を惹きつけてやまないのは、混同されてはならないものを混同せずにおくという、優れてプラトン主義的な「分割」の方法なのだ。
p.48
この「混同されてはならないものを混同せずにおく」ということがプラトン主義的ならば、僕はやっぱりプラトン主義者だと実感する。
僕が何を言いたいか──何と混同されたくないか──は言うまでもないだろう。
知天使のぶどう酒
中沢新一 著
河出文庫
ウェーベルンの「交響曲」を聞いて涙を流す人間が、はたしてこの世に何人いるだろうか。ところが、フィリップ・ソレルスとは、まさしくそういう男なのである。
と始まる「フィリップ、つぎの手は?」がとても良かった……というより上手い、と感嘆せしめる。ソレルスを導きの糸に、「アヴァンギャルドとは何であったのか」が、驚くほど的確に、明快に、この人特有の柔和な文体で語られていく。
トロツキーやジョナス・メカス、ダニール・ハルムス、パラジャーノフといった本質的にアヴァンギャルドな精神を持った人物たちの紹介も同様だ。実に読ませる。なにより対象を的確に捉え、チャーミングに料理するその手付きのあざやかさ、アレンジメントの妙、そして膨大な──しかし決して煩わしくない──知識を縦横に駆使して繰り広げられる思考の実験が、読んでいてとても心地よいのだ。昔読んだ向井敏の『傑作の条件』の一節を思い出す。
他には「「西欧」の発生と解体」がプラトンについて述べられていて個人的にとても興味深かった。例えばこんなところ。
「異国の神」であるディオニソスの衝撃に耐えて、ギリシャ世界は彼らの文明原理である、インド・ヨーロッパ語的な構造を、ほとんど無傷のまま、守りとおすことに成功した。そればかりか、自分とは異質な要素を、内部に飲み込んでしまうことによって、その文明はいまだかつてなかったようなフレキシビリティをもった拡大を獲得したのだ。西欧文明の、いまにいたるまで地球上に大きな影響力をふるう驚異的な拡大力は、じつはこのときギリシャ人が発揮してみせた巧智に、ひとつの源泉をもっている。
プラトンの神秘哲学が、それを実現した。
p.82-83
もちろんソーカルの指摘以後、生物学なんかの科学を援用した部分にはどうしてもある種の「構え」を意識しておくべきなんだろうし、オウムの宗教テロ以後、著者の専門である宗教やオルカティズムへの好意的とも取れる言及に対しても同様だろう──と、こういったことを書くのも、実はバカバカしいまでに儀礼的なアリバイであることも無論承知している(親本である単行本は1992年刊行)。
その上で、ウェーベルンの「交響曲」を聴いて涙するソレルスのキャラクターっていうのはやはり「傑作」だと思う。そこから展開するストーリーも実にポリフォニックで豊かに響いてくる。
だからひさしぶりにウェーベルンを聴いてみたのだが、残念ながら、とても涙を流すような心境にはなれなかった(そういえば新ウィーン楽派の解説書には、当時の新聞がこの曲の初演の状況を意地悪く書いていた。ホールは爆笑に包まれ、そのため作曲者ウェーベルンはすすり泣いていた、と)。僕は、無調/12音技法の音楽では、せいぜいベルクのヴァイオリン協奏曲に多少涙腺が刺激される程度の感性しか、持ち合わせていないようだ、残念ながら。
ソフィスト列伝
ジルベール・ロメイエ=デルベ 著/神崎繁、小野木芳伸 訳
白水社 文庫クセジュ
プラトンがその対話篇の中で徹底的に「やり込めた」連中……ソフィスト。しかしその作品に登場するソフィストたちは、なかなか個性的でキャラが立っており、主役ソクラテスのバイ・プレイヤーとして案外欠かせない存在なのではないだろうか。ほとんどベッカムばりのアイドルとして描写されるプロタゴラス(もちろんプラトン一流の皮肉だろう)をはじめゴルギアス、ヒッピアスなど、プラトンの冴えた──あるいは意地悪な──筆致によって、彼らは生き生きと活写されている。
この本はそんなプラトン(そしてアリストレテス)によって悪者にされたソフィストたちの「復権」を目指し、彼らの個性的な人物像&思想を紹介している。つまりプラトン=アリストテレス連合というあまりにも強大な西洋哲学史の主流を向こうにまわし、反主流の思想にスポットを当てているというわけで、そういった意味で野心的であり、ポストコロニアルの時代に読むに相応しい著作とも言える。
もちろんそんな大仰に構えなくても、プラトン作品に登場する「キャラクター」との比較、あるいはそこから、プラトンがいかにそれらソフィストを「キャラクタライズ/戯画化」したのを知ることができる好著だと思う。とくに日本ではこれまでソフィストに関するまとまった本は田中美知太郎の『ソフィスト』以外ほとんどなかったので、この本が刊行されて嬉しい限りだ。
プラトンの著作に登場する「弱論強弁」のキャラクターも、ここでは真っ当な思想家として扱われており、彼らの唱える「知識」もそれぞれ独特でとても面白かった。
中でも興味を惹いたのがアンティフォンという人物。彼はプラトンの作品には現われないが、その発言は傾聴に値する。彼は徹底した現世主義者であり、よって「生」にも「死」にも極めて真摯な態度を取っている。
したがって、自分の生を、彼岸の生に備えるために送ることがあってはならない。彼岸の生などというものは実際には存在せず、われわれから現在の人生の時間を盗みとるものなのである
p.127
また法律を「自然に反するもの」として糾弾しているのも、(悪)法に殉じたソクラテスと見事な対象を成し興味深い。もしプラトンがアンティフォンを作品に登場させたら、ソクラテスの好敵手として、かなり白熱した議論が展開されたのではないだろうか。
もっともいかにも「ソフィスト的」ともいえるプロディコスような人物がいて、彼は同性愛を非難している。こういったバカなソフィストがいるからプラトンに「やり込められる」んだ、と改めて思った。