ナチズムの美学
キッチュと死についての考察
サユル・フリードレンダー 著/田中正人訳
社会思想社
諸君、百年もしないうちに天然色映画がもう一本制作されて、われわれが切り抜けようとしているすさまじい時代を描くことになるだろう。諸君は、百年以内に諸君を再現してくれるその映画の中で、なんらかの役割を演じたいとは思わないか。今日では、百年後になりたいと願う配役を選択しうるチャンスを誰しもが持っている。諸君に請け合うことができるのだが、その映画は頑張り続けるに値する、人の心を高揚させる見事な大作となるだろう。頑張ってくれたまえ。
一九四四年、映画『コルベルク』にかんして、ゲッベルス
斬新な視点だ。著者の興味の対象は題名(邦題)の通り『ナチズムの美学』。しかしこの本は、ナチス時代の情報「そのもの」について「直接」研究したものではない。ナチズムの崩壊からある程度時間を経た60年代以降に「書かれた」ナチズムに関する「ディスクール」(言説)を分析し、そこから──逆算して──、当時のドイツの人々が感じていたであろうナチズムの「魅惑力=美学」を探ろうと試みている。ナチズムが文学や映画、さまざまなテクストでいかに語られたか──その「語られ方」を重視しているのだ。
フリードレンダーが投げかけている問題は「誰かが語ろうと望んだことによってよりもむしろ、その人たちの与リ知らぬところで、彼らの意に反して語られることによって」暴露されるもの、つまり「言葉/テクスト」によって暴かれる「潜在的な意識」に集約される。
そのため、ナチズムを扱った映画や文学──ヴィスコンティの『地獄に堕ちた勇者ども』、ルイ・マル『ルシアンの青春』、ジーバーベルク『ヒトラー』、ミシェル・トゥルニエ『魔王』──の内容に関する解題のみならず、さらにそこで「語られるテクスト」の詳細な「文体研究」まで、行われる。
そしてこの「言語」によるナチズムという犯罪の隠微──著者は「悪魔祓い」と呼ぶ──にこそ、フリードレンダーがたんなる「歪曲」を超え、別の問題に置き換わってしまう「陥穽」だと述べている。例えば著者は以下のような文章を取り上げる。
「……[A] 数便のユダヤ人は(……)地方ゲットーやキャンプを指定されなかった。(……)[B]これらのユダヤ人は到着とともに銃殺された(……)。」
「[A] 労働不可能な人びとすべて(とりわけ女・子ども)がゲットーから一掃されねばならず、[B]ヒエウムノに送られて毒ガスで殺された」
著者はこの文章の前半部分[A]と後半部分[B]が内容的にまったく「不釣合い」であるにもかかわらず、「文体」は変化することなしに平然としていることを指摘。
つまり、前半は普通の行政措置を、しかもまったく普通の語り口で予想させており、他方後半は、突如として殺人を叙述しているというのに、その行政措置の当然の帰結を報告しているのである。
p.112
フリードレンダーは、こういった「ディスクール」により、議論全体が無毒化されてしまう、と警告している。そしてナチズム=物語の「無毒化」(悪魔祓い)はどのようになされたのかと論を進めていく。それがこの本の中心課題である。
ナチズムの魅惑力を考察したテクストには、他にスーザン・ソンタグの『ファシズムの魅力』という優れたエッセイがあり、こちらも素晴らしく刺激的であり驚くべき示唆に富んでいた。ソンタグもフリードレンダーもともにユダヤ人であり、ナチズムに対する思いは切実で特別なものであることは想像に難くない。ソンタグのエッセイでもやはりナチスのプロパガンダを担っていたはずのレニー・リーフェンシュタールの役割が、時とともに隠微され(無毒化され)、歪曲化され(美的化され)ていく「修辞学」(ディスクール)に強く抵抗していた。
このフリードレンダーとソンタグという二人のユダヤ人が表明するナチズムに関し流通している数々の「ディスクール」の違和感と問題点。このことは僕にとってまったく他人事ではなく、それどころか、改めてこういった悪魔祓い的な「ディスクール」が身近に氾濫しているのを意識せざるを得ない。
それは「やおい」に関する「ディスクール」である。
朝日新聞社発行の『ジェンダー・コレクション』という本のなかにひとつの「やおい」論があった。そこにはこう書いてあった。
やおいは「男と男の愛」であるという、その「異常性」の一点だけに依って立っている。
”「やおい」にむらがる少女たち”より
この文章を書いた女性は同性愛を「異常」であると平然と書いている。というより、その「認識」が、この「やおい」論の出発点なのだ。
そしてそういった「男同士の愛」を扱った「やおい」読者も「異常」であるかにように「予想」させながら論を進めていくが、しかし、彼女たちは、実際の同性愛者を拒絶するという「理由」で持って、
その意味では、「男同士の愛」という「異常」なものに傾倒しているつもりの彼女たちだが、実に「正常」なのである。
”「やおい」にむらがる少女たち”より
と結論づける。
ではいったい彼女が最初に書いた文章(フリードレンダーに倣い[A]とする)における「やおい」の「異常性」はどこへ消え去ったのか。
……それはすべて同性愛者に「一方的」に押し付けられるのだ(後の文章[B])。文章[B]は明かにフリードレンダーの言うディスクールによる「無毒化」「悪魔祓い」である。
このことは、つまり、「汚辱」を「引き受ける」のはいつだって同性愛者-「側」にあり、逆に言えば「やおい」がある限り同性愛者は「汚辱」のスティグマから逃れられない、ということになるのではないだろうか。
その意味では、「男同士の愛」という「異常」なものに傾倒しているつもりの彼女たちだが、実に「正常」なのである。
”「やおい」にむらがる少女たち”より
この「やおい」論の「ディスクール」の「危険性」は何も対象を同性愛に限る必要はない。例えば以下の文章を考えてみればわかるだろう。彼女たちは、○○○者が登場する「ポルノグラフィー」を書き、読みながら──つまりマスターベーションしながら──、その「異常さ」を「認識」しながらも、実際の○○○者(「リアル○○○」、と彼女たちは呼ぶだろう)を、身近な友人や恋人、結婚相手、肉親として認めることを頑なに「拒絶」する。そして「拒絶」するために、「拒絶」するがために、その「拒絶する自分」を「正常」だと声高に主張できる、主張する、公言する、納得する……○○○者に向かってそう言う。
この○○○の部分に同性愛者、ユダヤ人、在日外国人、同和地区出身者、障害者、その他のマイノリティを当ててみれば良いだろう。
[A]○○○は「○○○」であるという、その「異常性」の一点だけに依って立っている。
[B]その意味では、「○○○」という「異常」なものに傾倒しているつもりの彼女たちだが、実に「正常」なのである。
この「やおい」論は朝日新聞社から出ている。こういった類の本は、もちろん単に知識を得ようと手にする人もいるだろうが、多くは、自分のセクシュアリティに対し違和感や悩みがあるからこそ、彼/彼女は「この本」にアクセスしようとするのだろう。それをこんなゲイ・フォビアであり偏見まみれの文章を載せるとはどういった了見なのだろうか。
朝日新聞は人権を重んじる新聞なのではなかったのだろうか。様々な局面において抑圧を受けている人、不当にも差別を受けている人、そういった人たちの立場に立つ新聞ではなかったのだろうか。だからある政治家の「三国人」発言を「問題化」したのではなかったか。「三国人」と発言をするグループの「論理」よりも、その言葉によって「痛み」を覚える人たちの立場に視点を置いて。
「三国人」だけではない。かつては、障害者や同和地区の人々、ハンセン氏病患者、在日外国人、両親のいない子供等、そういった人たちを揶揄し侮蔑する「言葉」が平気で平然と使われていたのだろう。しかし現在はそういった言葉は「特別なディスクール」以外、ほとんど使用されないだろう。
だが「やおい」は違う。「やおい」を形成する「集団」は、現在でも、平然と同性愛者を蔑称の「ホモ」と呼ぶ「集団」である。
そして何より「やおい」という「言葉」が意味するのは「(同性愛)はヤマなしオチなし意味なし」である。それは、
ベンジャミン・ブリテンの生涯──オールドバラ音楽祭を主催し『戦争レクイエム』や数々のオペラを書き、パートナーであったテノール歌手ピーター・ピアーズと一緒の墓地に眠っている──を「やまなし」と言い切るのか。
有名な「チューリング理論」を発表し、第2次世界大戦ではドイツ軍の暗号を解読、イギリスを勝利に導くも、同性愛であったため逮捕され、自殺したアラン・チューリングを「おちなし」とせせら笑うのか。
あるいはエイズに罹りながらも自分の信じる映画を取り続け、やがて病に倒れたデレク・ジャーマンを「意味がない」と無視するのか。
しかもそれだけでなく「やおい」は
「(同性愛者を指刺して)やめてお尻が痛い」と平然と侮蔑する言葉だ。しかもその「ディスクール」は「差別」「侮蔑」をなしには成り立たない。さらに「やおい」関係者における「ホモ」という蔑称の多用。この21世紀においてこれほど他者をハラスメントする「集団」は他にあるだろうか。
2001年、ジョアナ・ラスの『テクスチュアル・ハラスメント』が翻訳出版された(小谷真理訳、河出書房新社)。画期的な出来事だと思う。それは「セクシュアル・ハラスメント」の概念を文章上においても同様に、同列に導入できるからだ。
セクシュアル・ハラスメントは何よりも「被害」を受けた「側」の「痛み」を重要視する。たとえ「加害者」が嫌がらせの意図がなくてもセクシュアル・ハラスメントは成立する。例えば、仮に女性を侮蔑する意図がなくても、職場にヌード・ポスターがあることによって女性が「劣等感」を持ったとしたら、それはセクシュアル・ハラスメントである。相手の「容姿」を誉めたとしても、それによって「劣等感」を抱かせてしまったらアウトである。ましてや差別的侮蔑的な言動なんてまったく問題外である。
このことから「やおい」の問題は、わざわざその「ディスクール」を詳細に分析するまでもなく、「テクスチュアル・ハラスメント」という概念で持って、いとも簡単に容易く告発できるかもしれない。要は相手が(性的な局面で)「不快感」を抱いたか否かなのだから。
ただ残念なことに、「テクスチュアル・ハラスメント」は(特に日本において)まだ新しい概念で広く行き渡っていない気がする。しかも海外の概念や言葉を使用することにより、その安直さをあげつらわれたり、逆にその問題点が微妙に薄められ歪曲される恐れがある。
よって、すべての局面において「テクスチュアル・ハラスメント」という言葉を当て嵌めるのではなく、従来の「差別」や「侮蔑」という「本質的なレベル」をあまり変えることなく、この「やおい」の孕む問題を提示したいと思う。つまり「他者」を見下すことを「侮蔑的」であるとし、「他者」を「抑圧」することを「差別的」、そして「性的」なことで「他者」に「劣等感」を与えかねないことを「テクスチュアル・ハラスメント的」としたい。
-
「やおい」関係者が乱用する「ホモ」という言葉は「侮蔑的」である。
- 「やおい」関係者が使用する「ディスクール」は「差別的」である。
- 「やおい」という言葉「自体」は「テクスチュアル・ハラスメント的」である。
「差別」は絶対になくすべきであろう。「侮蔑」はなるべく忌避すべきであろう。そして「テクスチュアル・ハラスメント」は今後の「運動」次第であろう──関係各所に期待したい。
もちろん「テクスチュアル・ハラスメント」という概念が一般的に広まったとしても、この『ナチズムの美学』でフリードレンダーが考察した「ディスクール」の問題は、ソンタグのエッセイとともにやはり重要だと思う。いつだって深刻な問題は、深刻であるがゆえに、別の問題にすりかえられ、本質が隠微されてしまうからだ。例えば「同性愛関係」を「やおい」と呼び、同性愛文学や映画を「やおい」映画等と呼ぶとき、何が抜け落ちて、何が逆に加わるのだろう。
ナチズムを「美学化」するのにその「ディスクール」の果たした役割は大きかった。そして、ナチズムの「渦中」にいて「ディスクール」を担ったゲッベルスの存在は、あまりにも大きかったことは言うまでもない(ソンタグのテクストからはレニー・リーフェンシュタールの「生粋のプロパガンディスト」としての面がクローズアップされる)。
ではゲッベルスに相当する人物(たち)は、現在の様々な局面においていかように存在するのだろうか。
ナチ神話
LE MYTHE NAZI
フィリップ・ラクー=ラバルト、ジャン=リュック・ナンシー 著
守中高明 訳/松籟社
反対に、ファシズムの論理というものがあるのだ。それは、ある種の論理はファシズム的であることを、そしてその論理が<主体>の形而上学における合理性の全般的論理に対してただ単に異質なわけではないことを、意味している。
p.34
ラバルトとナンシーによるナチ論。現代思想に明るくない僕は、「ナチ関係」ということでこの本を手に取ったわけであるが、解説によると二人は、デリダ以後の哲学を強力に牽引している人物たちであるということだ。
邦訳もかなり出ており、なかなかの好評らしい。たしかナンシーの『声の分割』には浅田彰のレビューがあったはずだ。
(個人的にはラバルトの『虚構の音楽──ワーグナーの肖像』、『経験としての詩──ツェラン・ハイデガー・ヘンダーリン』は音楽と文学の関心から、そして『政治という虚構──ハイデガー、芸術そして政治』は笠井潔の『哲学者の密室』関係の興味から読んでみたい)
実際、非常に面白かった。あまりややこしい術語もなく、不必要なモデル-化、道に迷いそうな脱線が避けられ、静かな筆致で、鋭く、ナチスというもの=ファシズムのメカニズムを暴いていく。
二人の議論をかなり乱暴に示せば、ロゴスに対置された本源的言語としての神話(ミュトス)をなによりまず問題化している。神話が血肉化(文字通り民族、人種としての血、肉)し、そこから「類型」、あるいは「形象」を現前させ、そして芸術作品としての政治的なるものを産出する。
この「芸術作品としての政治的なるものの産出」は、前半の議論のまとめであり、もちろんベンヤミンの「政治の美学化」を引き継ぎ、それをさらに押し進めている。ワーグナー、ニーチェの読解(またハンナ・アーレントやトーマス・マン『ファウストゥス博士』に言及)から「芸術作品としての政治的なるものの産出」を導く筆致は実に鮮やかでスリリングだ。
そして後半では、ローゼンベルクやヒトラーの著書からアーリア人の優秀さを「神話」と結びつけ、さらに「神話化」する「言説」を扱い、そこから人種差別、ユダヤ人迫害の「ロゴス」を抉ってゆく。二人の結論は、ナチズムを単にひとつの錯乱として退けてしまうこと、単に過ぎ去った錯乱として退けてしまうことは可能ではない。
ナチズムの分析は、決して単なる糾弾の資料として構想されるべきではない。そうではなく、それはむしろ、われわれがそこを出自としている歴史の、包括的脱構築の一断片として構想されるべきなのである。
p.83
ここでナンシーとラバルトが言う「われわれがそこを出自としている歴史」は非常に重要なのではないだろうか。多分誰しもナチ的な「出自」からは免れることができない、と言っているのだと思うが、そのことを認識している人はどれくらいいるのだろうか。
様々な「悪」に対して、糾弾することは、当然であり、そしてそれゆえに一方ではまた簡単な行為なのかもしれない。しかし糾弾する側にナチ的/ファシズム的「言説」が、同じムジナのごとく住みついていたらどうだろうか。
例えば日本の有数のフェミニストである上野千鶴子は、かつて同性愛者を「ホモセクシュアルは自分と似た者を愛するのだから、ようは他者と出会おうとしない臆病者にすぎない」と言い放った(他にもまことしやかに「生物学」を引き合いに出し「同性愛者を差別する」と、まるでアメリカで問題になったドクター・ローラのような発言をした)。
これは「性的指向(オリエンテーション)」をまったく無視した、暴論としか言いようがない。ただし、この『ナチ神話』で見られるように、かつてユダヤ人を侮蔑する「ロゴス」やローゼンベルクの本があたりまえのように「流通」していたことを考えると、そして上野の社会的地位を考えると、まったく空恐ろしい限りだ。
しかも、だ。現在ならこういった発言は、差別発言のみならず「文章上のセクシュアル・ハラスメント」つまり「テクスチュアル・ハラスメント」として「糾弾」される類のものであるにもかかわらず、ジョアナ・ラス『テクスチュアル・ハラスメント』の翻訳者が上野と一緒に本を出すとは、いったいどういうことなんだろう。
冒頭に引用した「それは、ある種の論理はファシズム的であることを、そしてその論理が<主体>の形而上学における合理性の全般的論理に対してただ単に異質なわけではないこと」という言葉がまざまざと脳裏に焼き付く。