写真の現在
クロニクル1983-1992
飯坂耕太郎 著
未来社
男と女、女と女、男と男は、生身の部分をむき出しにして相手に挑みかかり、激しく衝突しあっている。とりわけ彼らが”性的(セクシュアル)”な関係を問題にする時には、その衝突は文字通り精神と肉体を傷つけあうようなものにまでエスカレートせざるをえない。
「傷つきもたれあう拡大家族」 ナン・ゴールディン"The Ballad of Sexual Dependency"
写真評論家、飯坂耕太郎が1983年から1992年に発表した評論集。副題にあるようにクロノジカルに並べられており、この時期の日本における写真芸術の状況をかなりの程度俯瞰できる。文章もジャーナリスティックで簡潔、直截的な表現が個々の作品の孕む問題、作家性、あるいは時代性と言ったものをより強く正確に抉り出す。その上で、写真を見ることの意味を──もっと言えば写真というメディアとの「付き合いかた」をそれとなく教えてくれる。
もっともこのヴォリュームのある著書すべてに目を通したわけではなく、またそうするつもりもない。気に入ったアーティストや題材をピックアップして読んだり、気の向くままにページを捲り飛ばし読みをしている。ちょうど著者が自分の「フレーム」で題材を選んだように、僕もその中からさらに自分の「フレーム」でチョイスしている感じ。
例えば目次にある百以上の項目から真っ先にチョイスしたのはダイアン・アーバス。彼女についてはその作品も強烈であるが、彼女自身の人生もかなり壮絶で気になる写真家だ。それと有名どころのデヴィット・ホックニー、ピエール・モリニエあたりからゲイ・テイストなもの。
その中でこの本で初めて知ったベルナール・フォコンは、ちょっと見てみたい気がする。何しろ彼は美少年ばかりを撮影しているという、とてもわかりやすい「性格」の持ち主。何でも1987年に東京で行われた個展では、街で買った詰襟の学生服を着ていたそうだ。学生服に惹かれるというのも、これまたわかりやすい性格だ。
写真小史/複製技術時代の芸術作品
「ベンヤミン・コレクション1」より
ヴァルター・ベンヤミン 著/ Walter Benjamin
浅井健二郎編訳・久保哲司訳/ちくま学芸文庫
写真(と映画)について書かれたベンヤミンのエッセイ。ここのところ写真に関する本を集中的に読んでいるが、その中でもこの二つのエッセイはさすがはベンヤミンという感じで、何度読んでも刺激的、そして読むたびに何か新しい発見がある。ブラボー! としか言いようがない完璧な文章だ。
誰かが「ブロッホは凡人、アドルノは秀才、ベンヤミンは天才」と言っていたが(誰だっけ?)、こういった作品を読むとそれが如実に実感できる。
まあそんな風にベンヤミンを褒めちぎっても、そしてまた「読むたびに何か新しい発見がある」なんていうのはそれこそ「常套句」みたいで信頼性が薄い一方通行的なセンテンスに思われるかもしれないが、実際僕は今すごく興奮している。それはついさっき『複製技術時代の芸術作品』を読み終えたのだが、以前には気にもとめなかったフレーズが、まるでアレゴリーのように意味を帯び、それが頭の中を土星の輪のごとく駆け巡っているからだ。
『複製技術時代の芸術作品』の最後、有名な「政治の耽美主義は戦争に極まる」のところで、ベンヤミンは「芸術は行われよ、たとえ世界は滅びようとも」というラテン語の成句をもじった表現をしているのだが、注によるとこれは「正義は行われよ、たとえ世界は滅びようとも」から来ているのだそうだ。
この「正義は行われよ、たとえ世界は滅びようとも」って、もしかしてシオドア・スタージョンの短編で同性愛を扱った『たとえ世界を失っても』と同じ成句なのではないか? そんなことがパッと星座を認識したときのように閃いて、ベンヤミンを読んで<いま-ここ>で興奮しているという次第。
まあそれはそれとして、いちおうこの『複製技術時代の芸術作品』についてちょっとメモをしておくと、ここでベンヤミンは「アウラ」ということについて述べている。アウラとはベンヤミンによると「空間と時間から織りなされた不可思議な織物」で「どれほど近くにであれ、ある遠さが一回的に現われているもの」
になる。非アウラ的なものが複製技術による芸術(写真、映画)で、それは儀式的(礼拝価値)から解放され、代わりに展示価値が増大していくことになる。それは芸術の大衆化に繋がり、ファシズムはそのプロレタリア大衆=集団主義による徹底した非人間な「大衆」を組織し、その所有関係を温存させたまま大衆に発言させ、それが政治の耽美主義に行きつく……こんなところだろうか。
『写真小史』で印象に残ったのは、拷問部屋にも等しい写真スタジオのセットの中で悲しげな眼をした幼いカフカの写真について語るくだり。ここはベンヤミンならではの鋭く冷徹な視線でその写真の持つ意味を分析している。
そして究極なのはラスト、アジェの写真が「犯行現場」のそれと比せられたことから、
だが、私たちの住む都市のどの一角も犯行現場なのではないのか。都市のなかの通行人はみな犯人なのではないか。写真家──鳥占い師や腸ト師の末裔──は、彼の撮った写真の上に罪を発見し、誰に罪があるかを示す使命をもつのではないか。
と導いているところ。いやはや、まったく痺れるくらいスリリングな論理展開だ。
そしてそこから、
「文字に不案内な者ではなく、写真に不案内な者が、未来の文盲ということになろう」と言われる。
しかし、自分の撮った写真から何も読みとることができない写真家も、同じく文盲と見なされるべきではないか。標題は写真の一部分、そのもっとも本質的な部分になるのではないか。
と結論づけている。写真の技術論から文化論、社会論へと展開(越境)していく思考の流れ(運動)はさすがだ。
プルースト/写真
Marcel Proust sous l'emprise de la photographie
ブラッサイ 著、上田睦子 訳
岩波書店
「作品というものは、作者が読者にさし出す一種の光学用具のようなもので、読者はこれなしには見ることができなかった自己の内部を見きわめることができるようになる。」(見出された時)
写真技術はプルーストの創作の核心である。プルーストは登場人物を描写し物語を構成するにあたって、ヒントを写真技術から得ており、創作の過程すらも無限に多様な写真的メタファーによって明らかにされていく。
《時を求めて》の主人公たちや風景に対するプルーストの観点の多様性は、そのまま写真のレンズの多様性に対応する。
p.168
写真家ブラッサイによる写真とプルーストの関係に焦点を絞ったユニークなプルースト論。『失われた時を求めて』の解題はもちろん、作者マルセル・プルーストの特異な生活ぶりが紹介され、とても楽しく読めた。
なにより印象的だったのが、写真コレクターとしてのプルースト。とくに自分の写真と気に入った人物(その多くが美青年!)との写真交換に情熱を燃やす姿がとても──他人事とは思えず──微笑ましかった(苦笑した)。現代に生きていたら絶対にホームページを持って、毎日だらだらと長文の日記を書き、画像収集、交換に勤しんでいただろうな、と思う。そういえば何年か前のニューズ・ウィーク誌の特集で、プルーストの小説はインターネットみたいだという記事を読んだことがある。
また、軍服に憧れて、それだけのために軍隊に志願したり、「浴場」(今でいうゲイ・サウナやバス・ハウス)に資金援助をし、そこに通いつめたりするプルーストにも親近感がわいてくる。
そして『失われた時を求めて』は「ソドムとゴモラ」以外にも全編に渡って同性愛のモチーフが散りばめられているようだ。写真との絡みで言えば、サン=ルーとエレヴェーター・ボーイが二人してホテルの「暗室」に閉じこもるシーンは、なかなかそそられる。『失われた時を求めて』が無性に読みたくなった。
ブラッサイは本名ジュラ・ハラース、1899年現ルーマニア領トランシルヴェニアに生まれ、1984年に亡くなった著名な写真家で、この本の巻頭にも『失われた時を求めて』からインスピレーションを得た16枚の写真が掲載されている。その微かにセピアがかった黒の深みが非常に美しい。
ドビュッシー
生と死の音楽
La vie et la mort dans la musique de Debussy
ヴラディミール・ジャンケレヴィッチ 著/ Vladimir Jankélévitch
船山隆・松橋麻利訳/青土社
フランスの哲学者ウラディミール・ジャンケレヴィッチ(1903-1985)によるドビュッシー論。哲学者の音楽論というと、アドルノの『マーラー』『音楽社会学序説』なんかが真っ先に思い浮かび、あの断固とした批判精神で、まるで恫喝されているような迫力に圧倒されてしまう感じであるが、このジャンケレヴィッチの音楽論は、対象がドビュッシーだからなのか、それとも著者の気質がそうだからなのか、サワサワした音楽が心地よい距離感を保ちながら響いてくるかのような、実に流麗なエッセイになっている。詩的で匂立つ文章がたまらない。
海底の深さが、いかなるエネルギーもゼロになる<絶対下>であるのなら、海そのものは、何よりもまず廃墟の場、もしくはミシュレの言うように、解体を企てる場であろう。げんにドビュッシーの音楽がとりわけ暗示していることは、物質の風化と崩壊であるのだから……
p.29
しかしこの本は、ドビュッシーの音楽について、ただ美辞麗句を並べ解説しているわけではない。アドルノとはやり方、書き方こそは違うが、やはりそこには何らかの哲学的思考が──ドビュッシーという音楽家とその音楽を介在し──根底に流れている。
例えばジャンケレヴィッチは「正午の点」について、絶頂と同時に衰退の始まりであるという「両義性」を打ち出し、「同一の頂点が上昇の終着にも、また失墜の開始にもなる」と記している。ここからドビュッシーの音楽に内在する志向──つまり生と死──を炙り出し、単なる楽譜の分析では思いもよらぬ解釈の地平を提示する。とくに「ほとんど無なるもの」という言葉で展開される存在/非在についての部分は、この本の白眉であろう。
しかし存在がなくなったわけではない! 存在が、ほとんどないほどに稀薄になったとしても、最小の存在であったとしても、それはやはり存在している。ちょうど非在にならないために必要な分だけ。(中略)
ドビュッシーは、非在へ変わる危険な瀬戸際で存在を引き止めている……。
p.160
そしてアイロニカルな、まるで魔術のような逆説。解説にもあるように、ジャンケレヴィッチの逆説は、逆説どうしがお互いを否定しあわず、ほんの一瞬の視点の転換によって、対立する両極端が渾然一体となってしまう。「裏は表であり、虚は実である」
重要なのはドビュッシーが連続か不連続かの二者択一を超越しているということだ。連続する生成が前進できるのも、それを動かす不連続の瞬間のおかげである。
p.152
口惜しいかな、小林秀雄の『モーツァルト』では、実際の音楽鑑賞に際し、たいして影響を受けなかった(と思う)が、この『ドビュッシー』では完全にジャンケレヴィッチの「聴き方」「感じ方」に影響を受けてしまった気がする。
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む
野矢茂樹 著/哲学書房
『『論理哲学論考』を読む』という本を読んでも、『論理哲学論考』を読んだことにはならない──これがこの本の書き出しである。まるで『論理哲学論考』の第1文「世界は成立していることがらの総体である」に匹敵する潔い言説。
それはこの本が「本物」であることを示している。何に対して本物かというと、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を理解するために必要なすべてが書かれてあるということ、つまり真に入門書として「本物」であるということだ。
通常、入門書は原典よりもコンパクトに書かれている。しかし『論理哲学論考』が特殊な作品なのか、この入門書は原典の何倍ものサイズで書かれている。それはこの本が冗長だというのでは決してない。それどころかリーダビリティ満点で、サクサクと読め、解説書とは思えない面白さを孕んでいる。
それが伺えるのが本書の最後の言葉、「語りきれぬものは、語り続けなければならない」。つまりこの本自体が、『論考』に対するひとつの「像」であり、ある「論理空間」を論じた「論考」なのである──だからこそ『論考』同様、魅力的なのだ。
繰り返すようであるが、この本を読んでも『論考』を読んだことにはならない。しかしこの本に「記述」された「要素命題」を「読む」ことによって、『論考』の課題が「共有」できるのは言うまでもない。だっていちおう『論考』のメカニズムさえ分かれば、あとは『論考』を読むだけなのだから。
そしてそのメカニズムとはまさに劇的に──気がついたら──馴染んでいた。人によってはもっと早い段階で理解するかもしれないが、僕の場合はちょうどこの本の半分くらいのところで、このこと(馴染んでいたこと)を感じた。
それは、著者の示した「数」の扱いで、「太鼓の音が3回鳴った」ことを「論考」風にアレンジしたところだ。ここで著者は「太鼓の音が鳴った、かつ、太鼓の音が鳴った、かつ、太鼓の音が鳴った」ではなくて「太鼓の音が鳴った、かつ、それに続けて太鼓の音がまた鳴った……」でもなくて、太鼓の音それぞれに「ブー」「フー」「ウー」という「名」を与えてから、「ブーが鳴った、フーが鳴った、ウーが鳴った」と書いた。
ここでパッと頭に浮かんだのは、『論考』ってもしかして「アルゴリズム」? そんなことを思って本棚から一冊の本を取り出し、最初のページを開いた。そこにはこんなことが書いてあった。
1.1 すべてのCプログラムには、特定の不可欠な構成要素と特徴が必ず備わっています。
1.2 プログラムの作成方法とコンパイル方法は、使用するコンパイラやコンパイラを実行する前提となるオペレーティングシステムによって大きく左右されます。
1.3 変数とは、さまざまな値を格納できる、名前付きのメモリ上の場所のことです。変数が含まれないCプログラムなど役に立ちません。
ハーバート・シルト著『独習C』(柏原正三 訳、翔泳社)
この「1.1」とか「1.2」とかの書き方といい、「すべて」とか「不可欠」とか「構成要素」とかいい、まるで『論考』のスタイルではないか(いや、コンピュータ言語が『論考』のスタイルを敷衍しているのかもしれない)。「必ず」と言い切っているところも。もしオペレーティングシステムを「私」に対応させたらどうだろう。だったら変数は?……以下同様。
そうか、『論考』って「ウィトゲンシュタイン言語」で書かれた、一種の「プログラム(アルゴリズム)」だったのか。
そういうものだったら、特定の「記述」に従って構文を記述し、その「言語」に従って世界を表現しなかればならないわけだ(そしてどんな優れたプログラマーでもバグはあるし、後で「パッチ」を当てたりするものだ)。
ちょっと「私の世界」(オペレーティングシステム)で「論考」(プログラム)を咀嚼(コンパイル)し、操作/実行してみたら、どんなアウトプットがディスプレイされるだろう。
……というふうに勝手に『論考』を理解した。いいのか?
12章5 これで本書の学習を終了しました。(中略)C言語は、一つの機能が別の機能を補完するようなきわめて統合された言語です。ポインタと配列の関係はまさにエレガントというしかありません。
12章6 C言語は、場数を踏んで覚えるのが一番です。C言語でプログラムを書きながら、ほかのプログラマのプログラムも研究しなさい。C言語が驚くほど早く身に付きます!
ハーバート・シルト著『独習C』(柏原正三 訳、翔泳社)
だまし絵
もうひとつの美術史
谷川渥 著/河出書房新社(ふくろうの本)
最初についた嘘を嘘と告白することによって、二番目の嘘を本当と思わせるやり口だ。
p.40
上記に引用した文章を読んで、アガサ・クリスティのある作品を思い浮かべるのは僕だけでないだろう。この本で紹介される「だまし絵(トロンプ・ルイユ)」の奥義には、どこか推理小説のテクニックにも通じるゲーム性──そして稚気とユーモア──を感させる。
だからその「繊細なゲーム」を加速・発展させた画家たちを、どうしても愛でたくなるは、推理小説ファンなら当たり前のことかもしれない。
この本に登場する画家は、メインストリームの「美術史」ではあまり語られることのない──あるいは「正史向き」の有名作ばかり語られる──副題どおり「もうひとつの美術史」におけるスターたちなのだ。
彼らは、建築空間、蝿、貼り紙(カルテリーノ)、画布、画架、壁龕、棚、カーテン、「表層」、状差し、ぶらさがるオフジェといった道具立て(意匠)で持って、だまし絵の世界を創世する。
図版が豊富なのが、まず嬉しい。しかしそれにも増して著者である谷川渥氏の文章が嬉しい。浩瀚な知識を持つ谷川氏であるが、文章は平易であるし、単なる情報の羅列では決してない。テーマに相応しい書き方というか、谷川渥氏の文章自体、プレゼン自体がなかなかの魅力なのだ──だから僕は彼の文章にできるだけ目を通している(前述で推理小説のことを書いたが、谷川氏の別の本『形象と時間』にポオやジョセフィン・テイの『時の娘』のことが出てきたときも、ニヤリとさせられた)。
嬉しさは続くが、やはり「だまし絵の帝王」と著者が呼ぶコルネリス・ノルベトゥス・ヘイスブレヒツというオランダの画家を知ることができたことがなにより嬉しい。この画家は、現代芸術も真っ青になるくらい独創的なことを、17世紀にやらかしていた。パルミジャニーノやカルロ・クリヴェッル、ペルトス・クリストゥスは澁澤龍彦あたりの著作でそれなりに知っていたが、ヘイスブレヒツの凄さはぜんぜん知らなかった。
この「だまし絵の帝王」による様々な意匠──ガジェット──を凝らした、ときに眩暈を誘うような「だまし絵」は本当に見事だ。まるで観者に「挑戦状」を投げつけ、挑発しているような感じだ。(裏)美術史は本当に奥が深い。
だまし絵は、リアリティーとの修辞的(レトリカル)な戯れである。リアリティーという語を、迫真性とも写実性とも呼びかえてもいい。修辞的な戯れという表現は、そこに見ることと同時に知ることが、眼と同時に頭が、感性と同時に知性が、驚きと同時に認識が関与していることを意味している。
p.125
著者は結びでこう述べるが、
この鍵概念(キー・コンセプト)も、推理小説の問題系と似通っていないだろうか。