クリティアス
アトランティス王国について

プラトン 著、田之頭安彦 訳
世界の名著、中央公論社



……もし今なおプラトンが生きていたとしたら、彼は新聞経営の魅力に必ずや魅せられることだろう。そこでは、新しい理念が日毎に創造され、取り替えられ、洗練される。そこでは、彼の経験したこともない速やかさで、世界の隅々からニュースが流れ込み、デミウルゴスのスタッフが、このニュースがもつ精神と現実性を瞬時にして検討する用意をしている。

ローベルト・ムージル『特性のない男 第二巻』p.93(加藤二郎 訳、松籟社)
『ティマイオス』で宇宙生成という科学記事をものにしたプラトン記者が、今度は地震により水没した大陸「アトランティス」の情報を配信した。「九千年前、アテナイとアトランティスの間で戦争があった」と。
これはソクラテス特派員を介して、伝説のアトランティス王国の秘密を握るとされる老クリティアス氏の完全独占インタビューにより明らかになった。

われわれの話というものは、じつのところ、どれもみな、何かの模倣(ミメシス)であり描写(アブイカシア)でなければならない。

p.406
老クリティアス氏は、まず、現代アテナイと対比するかのように古代アテナイの状況を振り返る(無論その「対比」は、ジャーナリスト、プラトンによる現代アテナイ批判が脚色されているであろう)。九千年前のアテナイは、現代と違い、男も女も同じように戦争に参加した──つまり「英雄」は男だけではない──男女平等の社会であった。

そこから戦争の相手国アトランティス王国の状況に話題が移っていく。アトランティスの位置はジブラルタル海峡の彼方にあったとされる。国政はポセイドンと人間の女との間に生まれた一族(アトラス一族)によって支配されている。王権は非常に強大であるが、しかしその王権は「すぐれた者」が継ぐのではなくて、長子相続になっている。民主制アテナイ形式とも、哲人支配形式とも違う(ギリシア人にとって)独特なものであった。

独特なのは政治体制だけではない。その大陸の形態も非常に独特だ。中央島を囲むように海上環状帯、さらにその海上環状帯を囲むように陸地環状帯、さらに海上環状帯、さらに陸地環状帯……要するにドーナツ状の陸と海が交互に連なり、イメージとしてはアーチェリーや弓道の「的」のような形になっている。

ここからさらにアトランティス王国の自然環境、生息する動植物、そして国民の社会体制、暮らし一般が詳細に述べられていくのだが、残念なことに途中で配信が途切れてしまう。完成すればピューリッツア賞確実だったのに……。
そしてもしプラトンが突然編集局に立ち寄って、自分は二千年以上前に死んだ正真正銘のあの大作家だと証明したら、もちろん大センセーショナルを巻き起し、そして最高級の報酬で原稿の依頼を受けることだろう。(中略)あるいはまた、彼の昔の作品のどれかを映画化することができたとすれば、しばらくの間はじつによく暮らせることだろう。

ローベルト・ムージル『特性のない男 第二巻』p.93-94



Project Gutenberg による英文テクスト
Plato "Critias"



パルメニデス
イデアについて

プラトン 著、田中美知太郎 訳
プラトン全集4 岩波書店



アキレス アキレス アキレス
ダグラス・R・ホフスタッター『ゲーデル、エッシャー、バッハ』p.130(野崎昭弘他 訳、白揚社)

まず簡単に構成を述べておこう。主要登場人物は、ソクラテス、パルメニデス、ゼノン、アリストテレス。大きく二部にわかれ、第一部ではパルメニデス(&ゼノン)VSソクラテス、第二部ではパルメニデスVSアリストテレス。両対戦とも勝利者は老獪なパルメニデス──そう「読者に」「思えるように」プラトンは書いている。

とくに第一部でソクラテスが論駁されるということは、イデア論が論難されることであり、プラトン思想の根幹を揺るがすことになる一大事である。これは「第三の人間(the third man)」と呼ばれる問題で、<大>自体(イデア)とそれ以外のもろもろの大を「一括して」捉える、さらにそれらの外側にある<大>自体を設定すれば、その作業が無限に続いてしまうという難題(アポリアー)だ。
(「Largeness is large」という「言い方」が許されるなら、さらに「Largeness is large」を一括して捉える{Largeness}を主語にした「{Largeness} is large」が生まれ、これが延々と続いていく)

また第二部では、「一なるもの(the one)」を巡って、パルメニデスによる待ったなしの言語ゲームが展開され、膨大なパズル─パラドクスに眩暈させられる。そしてこの「一」をめぐる言論ゲームは、結局、「一」については何も語ることのできない「不可能性」を導くのだが、これがキリスト教に摂取され、「一」を「神」を見なすことによって、「神」を語ることを不可能にする──つまり沈黙の中であってこそ神と合体できるという「否定神学」の有力なテクストとなった。
したがって、<あらぬ>ことがまさに求められなければならないとすれば、その<あらぬ>ことを確保するためには、<あらぬ>もので<ある>ことを保持しなければならない。それはちょうど<ある>ものが、やはり<ある>の完全な確保の手段として、かえって<あらぬ>もので<あらぬ>ということを保持するのと同じようなものである(……)。

かくて有(あるということ)もまた一にあると見られる、それがもしあらぬならね(……)

したがって、非有(あらぬこと)もまただ、いやしくもあらぬのだとすればね

『パルメニデス』p.136

こういったストーリーの内で、パルメニデスが「勝利」するということは、プラトン自らイデア論を放棄したのか……という学問的論争──つまり場外乱闘──が絶えなかった。それが作品としての『パルメニデス』を軽々しく「読書レビュー」する、なんていうことを通常なら躊躇させるのであるが、しかし僕のような「一」プラトン・ファン(ワナビー)にとっては、そんなことは毛先ほども気にしていない。

何故ソクラテスが負けたのか。単純な理由だ。それはパルメニデスが「汚い手を使った」のであり、「フェアでない」からだ──僕はそう思う。このことは藤沢令夫の著書『プラトンの哲学』(岩波新書)を読んでまさにそう思った。この本の中で藤沢氏は、老パルメニデス(65歳)が露骨なルール違反を犯しており、若いソクラテス(20歳前後)がそのことに気がつかなくても、「読者」は当然気づくだろうとプラトンが期待していたはずだ、と書いている。
温和なイメージのある藤沢氏であるが、この『パルメニデス』の解説では、やけに語気が強い。それは「常識的なものの見方のしたたかさ」、その規制力に絡められるばかりか、
プラトンがこの対話篇で示した上述のような誤解の横行から思い知らされるように、闘うべき相手はこの未整備につけこんで、依然頑強にその勢力を保持しているといわなければならない。

『プラトンの哲学』p.166
という状況(コンテクスト)がまかり通っているからだ。
そしてこのことは、この「アンフェア」な状況(コンテクスト)は、僕の語気を荒くさせる。
『パルメニデス』における「一」者のステータスが、それが維持している「一」以外のものたちとの関係を逆説ならびに袋小路の境域のなかでしか解きほぐすことができないのは、驚くべきことである。人がこれらの言いがかりから抜け出るのは、純粋に出来事的なステータスを「一」者に対して提出することによってだけである、そのとき人は次のように書くドゥルーズと響き合うのである。《ただ自由な人間だけが、ただ一つの暴力においてすべての暴力を、ただひとつの「出来事」においてすべての死すべき出来事を理解することができるのだ》

アラン・バティス『ドゥルーズ 存在の喧騒』(鈴木創士訳、河出書房新社p.43
舞城王太郎は、アンフェアなやり方で、同性愛者に対するヘイト・クライムを正当化させた。舞城は「ペドフィル」(小児愛者)の犯罪を同性愛者に擦り付けたのだ。もちろん「同性愛者」の中には「ペドフィル」もいるだろう。しかしそれは「異性愛者」の中にも「ペドフィル」がいるのと同じだ。なぜそのペドフィルの犯罪に対する暴力が「同性愛者」だけに向けられるのだろう。

このことは実際の犯罪者、宮崎勤を思い出せば、わかることだ。宮崎勤の犯罪が明らかになったときに、「異性愛者」に対し、暴力が振るわれただろうか──そんなことはない。

そしてまたしてもここに「やおい」が絡んでくる。「やおい」関係者は「ショタ・ホモ」という言葉を乱用する。この「言葉」の差別性、不当性は明らかであろう。これこそ「テクスチュアル・ハラスメント」だ。それは例えば「ロリ・ヘテロ」という「言葉」が「使われない」ことを考えれば、いかに「フェアでない」ことがわかるはずだ。
こういう何気なく「流通」してしまっている「差別」に敏感になるために(状況=コンテクストを読むために)、フェミニズムやジェンダー論、カルチュラル・スタディーズがあるのではないのか。

そしてこういったことを書くと、「言葉狩り」であるとか「言論の自由」であるとか、それこそ「別なレベルの倫理」を持ち出してくる「wanna be」が出てくる。レベルの異なる倫理を持ち出し、何にでも一様に平等に一般化を強弁する(状況、立場、コンテクストを無視して、「それを外部から取り囲むように」一括して捉える)ことが「フェア」なのだろうか。こういった「wanna be」は、ナチ政権下で犯罪小説の「悪人にされるユダヤ人」と現在のイスラエルで同様に犯罪小説の「悪人にされるユダヤ人」が同レベルであると──同レベルであるべきだと──考えているのだろうか。
これは、ニコル・ロローやヴィダル・ナケのようなギリシア史家が、歴史修正主義者への反駁を、プラトンやアリストテレスのソフィストへの反論を参照しながら提出しているという点で重要なところだと思います。つまりアウシュヴィッツにガス室はなかったんだという歴史修正主義者は、証拠となるものは存在しない、その証拠となるものを私の眼の前に持ってこいと主張する。感覚の対象以外には存在しないのであって、私たちの眼の前にはないものはそもそも存在するとはいえないんだという議論をどう論駁していけばいいのか。
(中略)
では私が自分の感覚の範囲内で気持ちよく生きて、近しい人が私の振る舞いによって誰も泣いていないのならそれでいいのか。それが自分の振る舞いのもつ意味や価値を省みないでいいのかという問いです。

藤沢令夫&田崎英明『現代を生きるプラトン』(現代思想1999/8所収)



Project Gutenberg による英文テクスト
Plato "Parmenides"



ピレボス
快楽について

プラトン 著、田中美知太郎 訳
プラトン全集4 岩波書店



ただ、父だけはちょっとショックを受けてたみたい。ある作品が、父には少しショッキングだったのね。たしか、こう言われたわ。「本当にこんなものを書きたいのか?」

── マーガレット・ミラー

インタヴュー『光と翳の中で』(伊達桃子 訳、ミステリマガジン1992/11)より

問題となるのはピレボス説。ピレボスは「快楽」を最高の善だといって憚りない。これ対してソクラテスは、思慮や知性を持ち出し、対抗姿勢を取る。通常ならここでピレボスとソクラテスの対決になるのだが、ピレボスは勝ちは決まっていると豪語し、舌戦に乗ってこない。そこでピレボスの代わりにプロタルコスがソクラテスの相手になる。
こうして「真の快楽」をめぐって、そして快楽と善の峻別を目指し、対決が開始される。

快楽の分析は仔細を極める。快楽があるなら苦役も存在する。そして良い快楽と悪い快楽(正しさと誤解、本当の快楽、偽の快楽)、快楽であるはどういった状態であるのか、純粋な快楽、混合した快楽……。
例えば健康とならんで美容と強健があげられるし、また他方、精神の領域にもこれらとは別に、とても美しいものが、とてもたくさんあるのだ。というのは、すべてのものには増長ということがあり、それにもとづくまったくの邪悪があるということを、かの女神は、おおピレボスよ、おんみずから見てとられ、かれらのうちには快楽も欲望の充足も限度がまったく何もないので、限度をもつものとして法と秩序とを定められたのだ。そしてきみはこれを、快楽に対する虐待だと主張するけども、ぼくは反対に、これこそ快楽の安全を守るものだというのだ

p.210
とくに興味深く感じたのは「混合した快楽」。これは「無限に純粋な快楽」に対して提示されてものであるが、ソクラテスの説明を聞いて、なるほど、と思った。例えば「音楽」について。「音」の高低や「運動」の遅速は「無限」であるが、これを「有限」化することによって──つまり「無限」と「限度」の「混合」によって──「音楽」(という快楽)が生まれるということ。

また、「嫉妬」は「たましいの苦しみ」(苦役)であるが、「嫉妬する人」というのは、「隣人の災悪」をみて「愉快」という「快楽」を感じることができる人だということ──ここからさらに一般化して、(他人の不様さを笑う)「喜劇」を楽しむという「快楽」を「われわれ」は得ることができる。
ここらへんの指摘は非常に鋭く、ときに自分の行動を省察させ、心落ち着かなくさせる。

こうして見ると、ソクラテスはただ単に禁欲を説いているのではない。本当の快楽には、思慮や知性が、そして「限度」が「混合」されることが望ましく、それが「快楽の安全を守る」ことに繋がるのだと言っている。

しかしこれでピレボスの説を打ち負かしたことになるのだろうか。最初に書いたように、この議論は、ほとんどピレボス不在で行われた。たしかにソクラテスは「快楽」そのものを攻撃してはいないが、「思慮」(あるいは「正義」)や「限度」が設定された「快楽」は──たとえ本当の快楽と「認定」されなくても──多少窮屈ではないのか。
ピレボスは「しかしソクラテスよ、きみのいう知性だって、善と同じものではないのだ」と反論する場面もあった。だとしたら……

フランスは普遍的な正義=人権を盾に、「ある種の快楽」を邪魔した。オークション・サイトで行われているナチス記念品の取引を、自国のみならず、アメリカにあるサイトにも停止するよう要求を出したのだ。ナチの記念品が戦争犯罪と人種差別を象徴する、という理由だ。しかしこれは「ある種の快楽」を求めるアメリカ人にまで「限度」を設定するという「窮屈」なものだ。ピレボスだったら「無限の快楽」を「虐待」するものだと異議を唱えるだろう。

「無限の快楽」によれば、アメリカ人が、ナチ収容所で肋骨が浮いているまでに痩せ細ったユダヤ人女性の全裸写真に欲情しても恥を知る必要はない。何よりも快楽だ。ピレボスの主張は、快楽が最高の善であると主張するものであるのだから。

舞城王太郎はその小説で同性愛者を一箇所に集め、火を放った。これはまさに絶滅収容所における殺害方法だ。舞城王太郎は、ユダヤ人を劣等民族として抹殺しようとしたナチと同じように、「でたらめな罪」を、そして憎悪を、何の落ち度もない同性愛者に擦りつけ、焼き殺そうとしたのだ。
……だから何? と、ピレボスなら言うだろう。


「無限の快楽」は、そんな舞城を称賛し宣伝するだろう。これは「テクスチュアル・ハラスメント」どころではない、「テクスチュアル・ホロコースト」だ──僕はあえてそう呼びたい。「日本語」という「不自由さ」が逆に、フランス的ないちゃもんを寄せ付けず、インターネット・サイト上で「自由」に「テクスチュアル・ホロコースト」を謳歌している。快楽万歳。

──そしてピレボスなら以下のように言うだろう

アメリカの変態は、ナチ収容所で虐待されたユダヤ女性の形見の写真で、性的妄想を膨らませば良い。

「舞城王太郎宣伝サイト」は、同性愛者の焼けだだれた皮膚を思うと興奮する、と喧伝すれば良い。

アメリカの変態は、劣悪な環境で陰部にシラミがたかったユダヤ女性の写真を手に入れ、自慰に耽れば良い

「舞城王太郎宣伝サイト」は、密室で火を放たれ煙で苦しんでいる同性愛者を思うと、不感症が治る、書くがいい。

アメリカの変態は、屈辱的なセックス・スレイヴ(慰安婦)とされたユダヤ人女性の境遇を思い、性感を高めれば良い。

「舞城王太郎宣伝サイト」は、黒焦げになり呻き声をあげる同性愛者を思い、将来自分の身内や子供が「こういう目にあうかもしれない」という「スリル」を楽しもう、と呼びかけるがいい。

アメリカの変態は、金歯や銀歯を抜かれ、髪を丸坊主にされ死んだユダヤ女性の遺品を身につけ、射精すれば良い。

「舞城王太郎宣伝サイト」は、炎に巻かれ苦しむ同性愛者を思い、生理不順が解消した、と書くがいい。

「舞城王太郎宣伝サイト」は、何の落ち度もない人間が「同性愛」という理由でもって、一箇所に集められ、殺害される不条理を嘲笑えばいい。

──そして快楽こそ窮極の善だ、フランスが言う普遍的正義=人権などクソくらえだ、と──


──苦労を重ねてこられて、ご自分がシニカルになったと思いますか?

ミラー ひどく現実的な人間になったとは思うわ。でも、シニカルとは違うわね、シニカルな人間というのは、ものの値段はわかるけど、価値はわからない人のことですもの。わたしとは根本的に違うわ。本当のところ、わたしは人間の善性を信じているの。だけど、むろん人間の醜悪さも、身にしみて知っているのよ。

── マーガレット・ミラー

『光と翳の中で』より



クリトン
行動はいかにあるべきかということについて

プラトン 著、田中享英 訳
講談社学術文庫



ロバート・アルトマンの『MASH』は、誤解されるような外見とは逆に、どこから見ても体制順応的な映画である──いくら権威をからかっていても、いたずらや性的な逸脱行為があっても、MASHの隊員たちは、その仕事を模範的に遂行するし、それで軍隊機構の円滑な活動に何の脅威にもなっていない。言い換えれば、『MASH』を、無意味な戦争による殺人の恐怖を描き、それは健全な冷笑、いたずら、もったいぶった公式の儀礼を笑い飛ばすなどのことを通じてしか耐えられないとする反戦映画と見る定型は、ここで述べられている点を捉えていない──この距離そのものがイデオロギーなのだ。

スラヴォイ・ジジェク『幻想の感染』p.40-41(松浦俊輔 訳、青土社)

裁判で死刑判決を受け、牢獄に繋がれているソクラテスのもとに、友人のクリトンがやってくる。クリトンはソクラテスの命を救うため、脱獄計画を企て、それにソクラテスが同意するよう説得する。が、逆にソクラテスに説得されてしまう。ソクラテスの言葉によって。国法に従うことが正義であると、そして「ただ生きるのではなく、よく生きることが大切である」と……。

『クリトン』はこれだけのストーリーである。しかしその中にソクラテスの生き方(より善く生きることとは何か)が見事に活写され、それが深い感動を呼ぶ。多いに考えさせられる。『ソクラテスの弁明』での人生を賭けた裁判、『クリトン』における正義への壮絶なまでの遵守、そして『パイドン』での静謐な死、幸福な死──1人の人間の揺るぎ無い信念、その激越な生き様に圧倒される。

ただ、この『クリトン』では、確かにソクラテスは国法に従い死刑判決を受けとめるのであるが、このソクラテスの態度に、単純な「体制順応」を見てはならないと思う。俗っぽく脚色された──つまりある種のイデオロギーの侵入を許した解釈による──「悪法も法なり」というセリフは、ここにはない。
このことは、この学術文庫版に載っている素晴らしい解題によって考察されている。

ここで訳者は、「私たち」がイメージする現在の国家や国法が、国民を苦しめる不正な国家や国法であるならば、それはソクラテスの考える国家や国法ではない、それらは国家や国法の名に値しない、と喝破している。

ソクラテスは明らかに無実の罪を着せられ、殺された。しかしプラトンの著作を読むことによって、ソクラテスの「生き方」それ自体が深い問題を投げかけていることを理解することになる。しかし……
私たちが『クリトン』のような古典を読んでそれが理解できない時、私たちはその書物を離れることもあれば、その書物をほどほどに理解しておこうとすることもある。ほどほどにとは、あまり徹底的にではなくということで、たとえばプラトンの時代と私たちの時代とは社会も思想も違うのだから、プラトンと私たちの考えが違うのは仕方がないことにしておこうと考える読書態度のことである。だがこのような態度は、もの分かりが良いように見えて、その実ごまかしの読書でしかない。

『クリトン』解題 p.188

しかし……僕はどうやらソクラテスの境地に──理解することはできても──まだ全面的に立てない。それよりもクリトンが最初のほうで見せたように、ソクラテスを死刑判決に追い込んだ敵どもに憤りを覚え、「このまま敗北に甘んずることこそが正義に反し」「敵から自分と自分の身内を守る」と表明したことに、心動かされる。

舞城王太郎はその小説で、同性愛者を一箇所に集め、火を放ち焼き払った。それはまさにナチスの絶滅収容所のやり方だ。絶対に看過できない。これこそ「テクスチュアル・ホロコースト」だ。しかも舞城王太郎のやり方がナチス並みに汚いのは、ペドフィルの殺人を同性愛者に擦り付けて、その「ヘイト・クライム」=「テクスチュアル・ホロコースト」を正当化しようとしたことだ。連続幼女殺人事件が明るみになったとき、「異性愛者」に向けて、ヘイトクライムが叫ばれただろうか。
ここでもジュディス・バトラーが完璧な例を出している。ヘルムズは、ポルノ禁止法のテクストの言い回しそのものにおいて、特定の幻想──年上の男が別の年下の男、できれば子供と、サド・マゾ的性行為を行っている──の輪郭を見せており、彼の倒錯した性的欲望を証しだてている。

スラヴォイ・ジジェク『幻想の感染』p.51

実は似たようなシチュエーションの小説がある。同性愛者がヘイトクライムの犠牲になったものだ。しかしこれは同性愛者側の視点による。そこにはおのずと「距離」がある。
ゲイ・バー爆破事件の犠牲者となった七十人に、ニューオリンズ全市が哀悼に沈んでいる。瓦礫と遺体の山を前に、調査は依然、難航中。

その名には意味があった。地元のふつうの人間たちが集う店では肩身の狭い思いをするゲイの男たちにとって、そこは自由に踊り、飲み、欲望のおもむくままに行動することができる、まさに『保護地区』そのものだったのである。だが、その<サンクチュアリ>の看板も、今では調査官の足元にむなしく転がっている。

クリストファー・ライス『ぼくたちの終わらない夏』p.236 (鈴木玲子訳、角川書店)
舞城王太郎は「いかがわしいリビドーの基盤」(ジジェク)を利用し、同性愛者の<サンクチュアリ>を破壊した。ヒステリー的欲望を満たすために。特定の幻想を脅しの材料として。イデオロギーを機能させて……。

こういった差別的な作家を、あるミステリー書評家は「行儀のいい小説しか読まない純文学プロパー」に対し「宣伝」しているが、これは本当に文学ファンに向けてのものなのだろか。冗談だろ。ただ単に「行儀云々」だったら、それこそ『サテュリコン』の古代から、マルキ・ド・サド、ジャリ、ジュネ、マンディアルグらのフランス文学、あるいはキャシー・アッカーら「ハイ・リスク」な作家、あるいは大江健三郎や「金多摩霊園」が頻出する中上健次など「純文学」には枚挙に暇がない。「文学」には本当の「暴力」が溢れている。それゆえ、文学プロパーはそれについて「免疫」があるはずだ。

すなわちその書評家の宣伝文句は、アガサ・クリスティーやドロシー・セイヤーズら(とくに「女流」)の上品なミステリー・プロパーに向けて、反転した形で──ミステリー書評家に注意を払うのはミステリー・プロパーだという相互主観的な了解のもとに──「享楽」を煽っているように思えてならない。

舞城王太郎の場合は、「ヘイト・クライム/テクスチュアル・ホロコースト」の「享楽」が重要視されなければならない──たとえそれが「単なる外見」(身振り)だとしても、そしてそれが古典的精神分析の「ヒステリー的欲望」に相当するのだとしても(そういや、ラフマニノフも精神分析の治療を受け、ピアノ協奏曲を完成させたのだった。だから映画『シャイン』で精神的に不安定なピアニストが3番コンチェルトを弾くのは、大いなる皮肉かと思った)。それ以外(内容)は、「(純)文学ファン」にとって、ジョルジュ・サンドの田園小説(つまり田舎の小説だ)やジョージ・エリオットみたいな「教訓」でしかない(サンドもエリオットの小説も、「彼女たち」の私生活上の「戦略」(外見)と違い、うんざりするくらい保守的だ)。

この「享楽」の「誘惑」には気をつけなければならない。
ここで避けなければならない誘惑は、「公然と自分の(人種差別的、反同性愛的)偏見を認めている敵の方が、人は実は密かに奉じていることを公には否定するという偽善的な態度よりも扱いやすい」という、かつての左翼的な考え方である。この考え方は、外見を維持することのイデオロギー的・政治的意味を致命的に過小評価している。外見は「単なる外見」ではない。そこに関係する人々の、実際の社会象徴的な位置に深い影響を及ぼす。(中略)
今日、新しい人種差別や女性差別が台頭する中ではとるべき戦略はそのような言いかたができないようにすることであり、それで誰もが、そういう言い方に訴える人は自動的に自分をおとしめることになる(この宇宙で、ファシズムについて肯定的にふれる人のように)。

スラヴォイ・ジジェク『幻想の感染』p.49-50