甦るチューリング
コンピュータ科学に残された夢
星野力 著 / NTT出版
コンピュータの不完全性は、人工知能の基礎との関係で、深刻な哲学的課題を突きつけた。人間であるゲーデルやチューリングは、数学の体系や計算に不能なものがあるということを証明することができた。これは人間は計算可能なマシンではない、それを超えた計算不能な存在であるということを示唆しているのではないか?
p.56
コンピュータ・サイエンスの基礎を築き、第二次世界大戦ではドイツのエニグマ暗号(U-boat Enigma ciper)を解読した天才的数学者アラン・チューリング。その名は有名な「チューリング・マシン」や「チューリング・テスト」といった用語によって現在でもよく耳にするが、実際の人物像についてはあまり知られていないようであるし、彼に関する本もさほど多くないようだ。
この本はそんな「チューリングって誰?」という「問い」に見事に応えた入門書で、彼の生涯を辿りながら、その独創的な理論/業績──チューリング・マシンやチューリング・テスト、暗号解読などが概観できる。またコンピュータの開発史としての側面も持ち合わせている。
もちろんサイエンスを扱った内容のため、ときに専門的な用語も出てくるが、丁寧な説明と図示されていることもあり、イメージは掴みやすい。とくにエニグマ暗号解読のところなんかはとてもスリリングで、さすがスパイ小説/映画が盛んなイギリスだと思わせる。エニグマ暗号機の仕組みと通信方法、及び「チューリングボンベ」と呼ばれる解読マシーンの構造が示され、実際の戦場に劣らず英独の「頭脳戦」がいかに熾烈であったのかがわかる。
他にも一期一会の出会いというべきウィトゲンシュタインとの討論もやたら白熱していて興味深かった。
もっとも僕にとって重要なのは、チューリングの人物像だ。なにしろ彼はゲイであるし、そのため逮捕され有罪判決を受け、その二年後に自殺した。だからチューリングに関しては以前から興味があり、Andrew Hodges による『ALAN TURING:THE ENIGMA』(WLAKER)も手に入れたのだが、この本は500ページ以上もある大著であり、かなり専門的な部分もあるので数ページで挫折した。『甦るチューリング』では彼の同性愛の部分についてもかなり詳しく触れている。
この本を読んで、どうしても思ってしまうのは、チューリングの生物学への関心やそもそも「コンピュータの気持ち」を重要視した部分には彼の──命令系統が異なる──性的指向が関係しているのではないか、ということだ。
チューリングの論文「計算機構と知能」の力点は明らかにイミテーションゲームにある。ここで主張されていることは「コンピュータ」を人間と同じ基準で扱おうじゃないか」というフェアプレイの精神なのだ。事実、「数学者だって数学の証明問題で間違うことがあるのに、どうしてコンピュータにだけは間違わないことを要求するのだ」とチューリングは述べている。
p.138-139
マルセル・デュシャン論
オクタビオ・パス 著 / 宮川淳、柳瀬尚紀 訳
書肆 風の薔薇
デュシャンにとって良い趣味は悪い趣味にも劣らず有害である。両者の間には本質的なちがいがないことをわれわれはみな知っている──昨日の悪趣味は今日の良い趣味である──、だが趣味とはなにか。
p.28
メキシコの詩人、批評家でノーベル文学賞を受賞したオクタビオ・パスによるマルセル・デュシャン論。「純粋の城」と「★水はつねに★複数形で書く」の二つのテクストが収録されている。対象となる作品は主に前者が『彼女の独身者たちのよって裸にされた花嫁、さえも』、後者が『(1)落ちる水、(2)証明用ガス、が与えられたとせよ』。
さすがに面白く一気に読めたが、いろいろと示唆に富んだテクストであり、よっていろいろと考えさせられた。また本の装丁も『与えられたとせよ』を意識した作りで嬉しくなった。
マルセル・デュシャンと言えば、奇抜な作品を残し、奇抜な人生を送った人間なので、普通に作品紹介や人物紹介をしても相当面白くなるのが必須である……そしてその「面白さ」が「罠」でもある。
《レディ・メイド》は両刃の武器である。もしそれが芸術作品に変われば、それはその涜聖の価値を失う。もしその中性を保てば、それは身振りを作品に変える。デュシャンの遺産相続人たちの大半が陥ったのはこのわなの中であった。
p.34
パスはこの本の中で、デュシャンが仕掛けた「罠」を十分自覚している。のみならず、美術批評を行う上で、絵画芸術そのものが本来的に有している「罠」に対しても敏感だ。「絵画の言語はその意味を他のシステムの中に見出す記号システムである」「絵画が表象の専制から解放されるとエクリチュールの隷属の中に陥るほかはない」と彼は言っている。
だからだろうか、パスの言説は意外に簡明だ。大雑把に言えば、まずデュシャンの作品が「網膜的」──色彩やその意味が重要なのか──な作品なのかどうかを探り、そうではない、と判断する。次に形態──メカニズムが重要なのか……これは少し関係する。しかしその「メカニズム」を──まるで他人が書いたプログラムを「解析」する羽目になった不幸なプログラマーがする退屈「仕事」のようには──いちいち分析しない。メカニズムそのものの効果を計るだけだ。そして最終的にデュシャンの作品を「観念的/イデア」であるとし、経験/学習とは無縁な観者が「見える」「純粋な城」へと芸術作品を解放する。
デュシャンは前衛の流れをその最終的帰結にまで運ぶ芸術家であると同時に、その流れを極点に到達せしめるや、それをもとの方向に向き直らせ、そうしてそれをひっくり返すのだ。「網膜的」絵画の否定は近代の伝統と絶縁し、意外にも、ボードレールとその二十世紀の後継者たちの呪詛した「西洋」の主流、観念(イデア)の絵画との結合を更新する。
p.93
新しいヘーゲル
長谷川宏 著 / 講談社現代新書
映画『スパイ・ゾルゲ』を記念して、本屋にはゾルゲ関係の本がたくさんあった。ゾルゲと言えば──個人的に──ドイツ語の先生を思い出す。ルックスがゾルゲに似ている、と、それだけなんだけど。
でもこの先生、たかが第二外国語(失礼)の授業に、様々なテクストを準備してくれた。今でも思い出すのが「あの」パトリック・ジュースキントの『香水』。学校の授業にあの薄気味悪い文章を選ぶなんて素敵じゃない? で、ヘーゲルも読まされた。そのときの感想は……意外に分かりやすくないか、ヘーゲルって。翻訳の方が難しいかも……だった。
そんなことを思い出していたら、「易しいヘーゲル」が読みたくなった。著者の長谷川氏は、難解な文章は当然! とばかりのこれまでのヘーゲル翻訳書に異議を唱え、平易で分かりやすい日本語の翻訳を実践されている方。この本は、そんな長谷川氏のヘーゲル解説書なので、実に分かりやすいし、何よりヘーゲルの面白さが十分に伝わってくる。弁証法入門から『精神現象学』の概説、芸術や宗教を扱った『美学講義』等、ヘーゲル哲学の魅力が新書という制約された中で見事にプレゼンされている(いつかは『美学講義』読みたいな……)。
宗教的権威や社会的権力に包摂されない自由な個人は、さまざまな人間関係のなかで自己を主張する。たがいの自己主張がぶつかりあって、そこにはたえず対立、紛争、矛盾が生じてくる。そうした混沌の世界がヘーゲルの社会の弁証法の原イメージである。
p.26
しかし、ただ単に分かりやすいだけだったら、とりたてて「新しい」わけではないだろう。そう、後半の二章「近代とはどういう時代か」と「ヘーゲル以後」でヘーゲル思想のアクチュアリティが示され、ここにおいて「読者」が自ら思考=格闘しなければならない問題を導く。
そして著者はこの本におけるヘーゲル論をナチズムの問題で結ぶ。
アウシュヴィッツにかんするさきの引用文で、アドルノは「嘲り笑う」ということばを用いていたが、たしかにナチズムは西洋近代を、引いてはヘーゲルの近代思想を「嘲り笑う」ような歴史事実である。その「嘲笑」は、近代精神ないし近代思想に人間的な価値を認めようとするすべての人びとにもむけられている。が、「嘲り笑う」歴史事実に嘲笑を投げかえすだけでは、どうにもならない。必要なのは「嘲り笑う」歴史事実を西洋近代のうちに的確に位置づけること、ヘーゲルに即していえば、ヘーゲルの社会像とナチズムの現実とを同じ近代という地平の上で相交わらせること、である。それをおこないえたとき、ナチズムとアウシュヴィッツの嘲笑の声音はようやく消えてなくなるだろう。
p.194
アドルノが「嘲笑」せざるをえないのは、「個人的な死」さえも収奪され「サンプル化」してしまう絶滅収容所の「殺人業務」についてだ。そしてそこから生まれる「問い」は、そういった暴虐を支持した人、反対した人、のみならず、西洋の近代精神に関心を寄せる全ての人に向けられている、と著者は述べている。
このナチズム/アウシュヴィッツ/アドルノの部分を読んで、改めて思考=格闘しなければならない問題が胸の内に沸き起こった。それは差別作家、舞城王太郎を、どうやって「嘲り笑う」かだ。
舞城は同性愛者にペドフィルの犯罪を擦りつけ、その上で焼き殺すような小説を「面白がって」書いている。これこそ「テクスチュアル・ホロコースト」でありヘイトクライムの助長に他ならない。それなのに、そのことを指摘する書評家なり評論家、そして「読者」が全くいないのは、いったいどういうことなんだろう。
僕は舞城によるこのような「サンプル化」は絶対に看過できない。
ユダヤ・エリート
アメリカへ渡った東方ユダヤ人
鈴木輝二 著 / 中公新書
「アシュケナージ」という言葉を聞いて、クラシック音楽ファンなら、ピアニスト&指揮者のウラディーミル・アシュケナージ(の「名字」)を真っ先に思い浮かべるだろう。そしてウラディーミル・アシュケナージと言えば、ユダヤ人であり、ほとんど亡命のように故郷を離れソ連国籍を離脱したことも良く知られている事実だ。
もっとも音楽家アシュケナージがユダヤ人であることは、その名が既に示している。それは「アシュケナージ」という言葉自体が「東方ユダヤ人」の総称を意味するものだからだ。
ヨーロッパにおけるユダヤ人の系統には、その「アシュケナージ」系とスペインを中心に広がった「セファルディ」系の二つがある。
差別や蔑視、ポグロム、そして究極の暴虐「ホロコースト」といった苦難を乗り越え、現在においても世界の知をリードし続けているユダヤ人たち──古くはスピノザから、マルクス、メンデルスゾーン、ハイネ、そしてキシンジャーやソロス、グリーンスパンまで、まさに壮観としか言いようがない。この本では主に東方ユダヤ人=アシュケナージの「活躍」を描いており、過去から現在に至るユダヤ人エリートが綺羅星のごとく紹介される。
もともと僕は音楽が好きだったのでユダヤ人には以前から関心があった。前述のウラディーミル・アシュケナージは長いこと僕の「憧れ」のピアニストであったし、また好きな指揮者、器楽奏者にもユダヤ系が多い。
なので、こういった世界中で「活躍」するユダヤ人を描いた「別の」力作著書を読んだことがある(だからこの本に対して「あの人もユダヤ人だったのか!」という驚きはあまりなかった)。それは広瀬隆の『赤い盾 ロスチャイルドの謎』で夥しい情報が満載の本なのだが、しかし、書かれているスタンス(視点)は『ユダヤ・エリート』と対照的だ。同じ「ユダヤ人エリート」を扱っていても、意図しているところが全然違う。
これはある意味仕方がないことで、他者に対する「接し方」の違いがストレートに出てきたものだろう。その「他者」が恩師であり友人であり、また恋人や「憧れの人」だったら、どう「接するか=書くか」が自ずと決定される(実際そうでなくても、そこには「想像力」というものが働くのではないか。だから舞城王太郎という作家が同性愛者に対し理不尽な暴虐を「面白がって」与える小説を書き、それを称揚・宣伝する評論家や書評家には暗澹たる思いがする)。
この本の著者は、実際にここで紹介された何人かのユダヤ系の学者と面識があり素晴らしい薫育を受けたようだ。それが敬愛の念とともに時々──ちょっと自慢げに──触れられる。
『ユダヤ・エリート』で介されたユダヤ知識人の多くは、リベラルで多元主義的でありコスモポリタン的な心情を持ち合わせている(いた)。そういった彼らの思想、問題意識には僕は強く惹かれる。
世界財閥マップ
グローバル経済を動かすパワー総覧
久保巌 著 / 平凡社新書
財閥、企業集団、グループ、大富豪、ビック・ファミリー、ビリオネアなどと呼ばれる、巨大な資産を有し世界中でビッグ・ビジネスを展開する圧倒的なパワー
。この本はそういった所謂「財閥」をカタログ的に紹介した本である。いかにして創業者及び後継者が事業を立ち上げ成功させたか、いかにして現在の規模の企業にまで成長させたか、その才覚と戦略がコンパクトにまとめられている。まさに「総覧」に相応しい体裁だ。
また「総覧」という以上、ニュートラルな立場が貫かれており、例えばダイヤモンド市場をほぼ掌握している南アフリカのデビアス社やロスチャイルド系の企業も淡々とその歴史が述べられているに止まる。
そういえば、かなり以前に似たような本『世界のビッグ・ビジネス』(講談社現代新書)を読んだことがあるのだが、フィリップス社やジーメンス社、デュポン社のように今回も「華々しく」登場している企業もあれば、ないものもある。
この『世界財閥マップ』で特徴的なのは、まあ予想通りIT関連の会社が多く登場していること、そしてアジアや南米の企業、さらに一頃は「財閥」や「企業」とは無縁のイメージがあったロシアや中国の企業集団が紹介されていることだ。とくにロシアで活躍している「オリガルヒ=新興財閥」の活躍とそのオーナーたちの若さ(その多くが30代)には興味を惹いた。
しかし国として見れば、やはりアメリカが強い。著者はアメリカの強さを機軸通過としてのUSドル、世界をリードする情報通信産業、卓越した軍事力以上に大量に食料を供給できること、つまり食料という「究極兵器」を常備していることにつきると強調している。納得の意見だ。
ベトナム症候群
超大国を苛む「勝利」への強迫観念
松岡完 著 / 中公新書
ベトナム戦争での敗北。それはアメリカ社会に大きな影を落とし、以降、外交・軍事政策を決定的に拘束する。言ってみればアメリカという国家システムにおける心理的外傷、抑圧、強迫観念。だからこそ、アメリカ(の政治家)にとって、ベトナムで被った経験を克服することが至上命令であり、そのため、戦争/紛争においては、「ベトナム化」を絶対に避けなければならない、完璧な勝利を導かなければならない、正義という大義を貫かなければならない……。
この本は、アメリカが抱えている病理=「ベトナム症候群」を通し、アメリカを分析する。ベトナム以前の第二次世界大戦からつい先日の──今も続いている──イラク紛争までの軍事行為を通して。ベトナム以後のアメリカが引き起こした戦争/紛争の背景には必ず「ベトナム」への強迫観念が見え隠れしている。その「視点」に立脚することによって、様々なものが見えてくる。それは超大国アメリカの弱さでもあり、時に強さでもある。
圧倒的な情報とジャーナリスティックな分析が、アメリカの「いま、ここ」の状況を鋭く指摘する。非常にエキサイティングな論説であり多くの示唆を受けた。
しかしこの本を読んで感じたのは──著者は一言も触れておらず、多分そういう意図も全くないのであろうが──フロイトら「精神分析」における行動学だ。
僕はフロイト理論には全く懐疑的(と言うより嫌いだ)であるが、この本を読みながら、「ベトナム症候群」というトラウマが、いかに現在のアメリカの行動を律しているのかが、いちいち腑にあたった。
また本書以外でも、例えば田中宇氏の文章なんかを読んでみたりすると、それこそ最近のネオコンを始めアメリカ政治の権力争いは、フロイトの<超自我─自我─エス>の「せめぎあい」で説明できそうな気がしてくる(フランスなどイラク戦争に反対した国々への「幼稚」な態度も含めて)。
もっともこんなことは、僕の勝手な「思いつき」であるし、ネットだからこそ気ままに書ける牽強付会、あるいは「アナロジーの罠」だ。
しかし単なる「思いつき」であっても、たとえ論拠酷薄であっても、「宣伝材料」が含まれてあれさえすれば、商業雑誌には十分通用する。現在その宣伝材料とは差別作家、舞城王太郎への無条件の称揚だ。
舞城は同性愛者にペドフィルの犯罪を擦りつけ、焼き殺そうとする文章を「面白がって」書いている──ナチとどう違うのだ。絶対に看過できない。
どうして、こういったヘイトクライムを助長するような差別的な文章を舞城は書き、どうして、そのシンパはそれを「面白がって」「偉そうに」宣伝するのだろう。この人たちは実際にヘイトクライムによって殺されたアメリカの大学生マシュー・シェパードを始め、理不尽な暴虐を受けた人たち、その家族のことを何とも思わないのだろうか。
そして「批評家」という立場でありながら、どうして舞城の差別性を指摘しないのだろうか。やはり「批評家」ではなく只の「提灯持ち」なのだろうか。だったらそんな人が、何のためにネグリ&ハートを引くのだろう。サイモン&ガーファンクルは、差別主義者を称揚するために、歌ったのだろうか──彼らの「願い」はどうして通じないのだろう。
『ベトナム症候群』にはあるエピソードが紹介されている。1994年、アメリカは第二次世界大戦の戦勝五〇周年記念切手図版に、原爆のキノコ雲を採用しようとした。しかしそれは日本政府の抗議により撤回された。
生殖の哲学
小泉義之 著 / 河出書房新社
このようにクローン技術は未曾有の可能性を切り開いている。それは、異性愛を、婚姻制度を、家父長制を、ジェンダー/セクシュアリティ/セックスを、血統や系統を根本的に解体するだろう。というより、それらとはまったく別の地平を、完全な外部を開いてしまうだろう。だからこそ、クローン技術に反対する意見や、クローン技術を管理する言動は、保守的で反動的なのである。従来からの性と生殖の制度を守ることを非難しているのではない。従来からの性と生殖の<外部>に対して寛容でないことを非難しているのである。
p.92
今年のベストはこの本に決まりだ。それほど価値観を揺さぶられ、考えさせられ、かつエキサイティングな読書だった。今最も関心がある思想家は──と訊かれたら僕は迷わず小泉義之氏を挙げる。今後、小泉氏の著作にはすべて目を通すつもりだ。
この著作は「生殖」について論考されている。「生」や「死」、「生存」そして「性」には多くの言説が費やされてきたが、「生殖」に関してはほとんど省みられたことがなかった。にもかかわらず、「生殖」に関して「間違った杜撰な考え」がまことしやかに流通している。著者はまずそのことを指摘するために、山口雅也の『生ける屍の死』のある部分について徹底的に論駁する。
(ミステリーファンは要チェックだ。そして「(新)本格推理小説」を論難する人は、「人間が描けていない」とか「文章の稚拙さ」とかではなくて、「間違った情報」による「害悪」を指摘すべきだろう。当然僕は舞城王太郎の「差別小説」を念頭に浮べた)
さらにメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』とH・G・ウェルズの『モロー博士の島』を「純粋」に読んでいく──これらの小説がどれほど「歪曲」されてしまっているかがわかる。そしてここから「怪物あるいは変異体」を「人間」が「制作」するということは、どういうことなのか、何が問題なのか──問題はない、というまったく斬新な考え/思想が導かれてくる。本当に強烈な価値判断が示される。ここのところを読みながら、そういえば、怪物「フランケンシュタイン」を映画化したジェームズ・ホエール、突然変異体(ミュータント)「X−MEN」を映画化したブライアン・シンガーはともにゲイであったことが脳裏を過った。
ここからこの本の主張である「劣性社会万歳!」人間を終焉させ、怪物を生産する「クローン万歳!」というこれまでの価値観──旧弊で差別的である──を転倒させる前代未聞の「哲学」を開示する。
またこの本を読んで思ったのは、僕が何より読むべきものは、フーコーやデリダではなく、ドゥルーズ&ガダリであり、ジュディス・バトラーではなくダナ・ハラウェイだということだ。
今後は、テクノロジーや微生物や高分子と盟約を結んだ子宮と胎盤において、発生の変化と進化は起こることになる。ダナ・ハラウェイのいう機械状女性身体と、ドゥルーズとガタリのいう分子状女性は、そのことを予言しているのです。子宮と胎盤は、未来を決める戦場です。この辺りをめぐっては、ラディカルな女性思想家が現われることを心から期待します。
p.118
バタイユ入門
酒井健 著 / ちくま新書
広島市民の証言をもとにこのような(原爆の)惨状の内側に入ってその多様な様相を描きだすハーシーの手法を、バタイユは「動物的な見方」として高く評価している。「動物的な」というのは「感覚的な」ということであり、知性の錯誤を強いられるという意味である。ハーシーの描き出す光景は、一種の「非-知の夜」の眺めなのだ。
p.207
過激な「アンチ」西欧主義者バタイユ。西欧人が触れてほしくない所を容赦なく突き、西欧人が見まいとしてきたものに敢然として目を向けさせる。「外部」への志向、熱狂的で過剰な力(フォルス)と力(ビュイサンス)。やはりその思想はとんでもなく魅力的だ。例えば彼のキーワードをいくつか挙げてみると「非-知の夜」「無頭人」「太陽肛門」「眼球譚」「無神学大全」「低い唯物論」「小死」「エロスの涙」……。わくわくするような「いかがわしさ」に満ちている。
この本はそんなバタイユの思想と人となりを折り目正しく解説したもので、とても面白く読めた。バタイユの思想それ自体の面白さもさることながら、それを説明する切り口がとても明快でわかりやすい(ちくま新書の「入門」シリーズはヒット作が多いな)。
とくに興味を持ったのは、序文にある「日本のバタイユ受容」で、確かにここは「序文」としてさらりと書かれているのだが、ちょっと捨て置けない部分があった。それは三島由紀夫が相当バタイユに魅了されており、彼が対談でバタイユに関する「彼の理解」を吐露し、その数日後にあの「自決」を働いたことだ。著者は「その受容」の「問題性」を述べている。そしてこの本を一通り読み終わってから、再びこの「序文」のところを読み返すと、それはなかなか示唆的だ。
その他、栗本慎一郎の『パンツをはいたサル』、浅田彰の『構造と力』あたりが日本におけるバタイユ受容に一役を買ったようであるが、僕にとってバタイユと言えば笠井潔の推理小説『薔薇の女』に他ならない。
……。君、ヤブキ君といったな。君は俗流精神分析学を、例えば幼児の多形性欲が病的に固着することから、サディズムやマゾヒズムや、その他の性倒錯が生じるといった種類の馬鹿馬鹿しい思いつきを信じているのかね」
嘲笑するようにルノワールがいった。短い沈黙の後、カケルは低い声で応えた。
「いいえ、ムッシュ・ルノワール。それを信じているのは僕ではありませんよ。それを信じているのは……。」
「誰だというのかね」
「<アンドロギュヌス>、例の連続切断魔の方でしょう」
笠井潔『薔薇の女』(創元推理文庫)p.216-217