哲学の最前線
ハーバードより愛をこめて

冨田恭彦 著 / 講談社現代新書



そんなわけで、ハンソンは、観察にはすでに理論が関わっているという。もちろんその理論には、非常に高度なものもあれば、ウサギとはこのようなものだという常識的なものもあるわけですが、この、観察が理論を通してなされるということ、つまりは、観察が理論を背負っていることを、ハンソンは、『観察の理論負荷性』と呼んだわけです。

p.37
現代哲学というと──フーコー、デリダ、ドゥルーズの御三家にメルロ・ポンティ、レヴィナス、ラカン……フランス人ばかりやんけ!
こんなことを思いながら、カミール・パーリアの著書をパラパラとめくっていたら、面白いこと面白いこと(笑)。曰く、
というわけで、パーリアの母国アメリカの思想、しかも「最前線」の哲学がどういうものか知りたくて、この本を読んでみた。
いやあ、面白かった。刺激的だった。とくに冒頭で引用したノーウッド・ラッセル・ハンソンの「観察の理論負荷性」という「(理論が正しいかどうかを確かめるための)観察そのものが解釈学的特性を持つ」という主張には、クラクラときた。これこそ価値観の転倒じゃないだろうか。まるでヨーロッパが最強の理論武装して送り出したセリー音楽を、アメリカのジョン・ケージが「偶然性」という毒キノコでもっていとも容易く食中りに追いこんだように。
なるほど。だけど、観察ですらそうだとしたら、自分たちの考え抜きに、人の考えや発言を理解するということは、やはりありえないと考えた方がどうもよさそうですね。

p.38
そうそう、そうなんだよ。デリダやラカンがどうのこうの言っているよりも、まず、自分の考えに自信を持って、正確に伝わるよう曖昧さ誤魔化しなしに、明快に意見を述べないと(と、言いながら自分ではハンソンがどうの、ローティがどうのとか、「これから」言いそうだけど)。

この本の体裁は、対話形式というか小説体で書かれているので、とてもわかりやすい。前述のハンソン以外ではリチャード・ローティに関心を持った。『哲学と自然の鏡』はぜひ読んでみたい。もっともローティにしても、またこの本で紹介されているクワインやデイビッドソン、サールにしても本当はもっと難解な思想なんだろうと思う。だからこの本の続編、パート2なんかも期待したい。



ユートピアの冒険

笠井潔 著 / 毎日新聞社



ドゥルーズ=ガタリは、なんといっても「スキゾ─パラノ」ね。あれ、わたしが高校一年のときだったと思うんだけど、ほんとうに流行ったわ。スキゾ=ネクラ=全共闘負け組=形而上学的真理=左翼真面目派的な消費社会批判、それにたいするに、スキゾ=ネアカ=全共闘勝ち組=脱構築=現代資本主義のスピードを愛する消費社会享受派。ようするに、モダンとポスト・モダンの対決。ま、こんなところかしら。
(中略)
どうして、そういうことになるのかな。ぼくは、ほんとうに形而上学的真理を解体するためには、マジメにケーハクを対置しても無駄なんだって主張しているだけなんだけどね。簡単にいえば、ぼくの観念批判論の方法はデリダのディスコンストラクションの戦略と基本的に同型ですよ。デリダが形而上学というとき、ぼくは天皇制といわざるをえない違いはあるけどね。

p.136-138
1990年発行。当時の社会、政治状況、風俗を絡め、マルクス主義的観念論批判、ポストモダン批判を行い、現状の「問題点」を提示、そこから新たな「問題化装置」を創造する。

……という本で、久しぶりに再読してみて、豊富な話題にいろいろと参考になったが、それ以上にとても懐かしかった。なにしろリアルタイムでこの本を読み、しかもちょうど僕が大学生のときだったので、この本の「設定」である、カバ先生こと笠井潔が女子大生を相手に教え諭すという小説風の「ストーリー」にまったく嵌ってしまったことを思い出したからだ──まるで自分が教え諭されているような感じだった。 そういった意味で僕は、この本に関して、特権的な読者であったこと嬉しく思う。とくにグリュックスマンの思想を紹介しながら舌鋒鋭くマルクス主義的収容所国家を非難する第4章「マルクス主義と収容所国家」は、当時(そして今回も)著者の熱い思いに圧倒された。

もちろん十年一昔で、ここに書かれている社会事件や風俗がまったく過去のものになってしまったことも否めない。だから懐かしいのだが、例えば東欧の民主化が進む中で起きたチャウシェスク政権崩壊は衝撃は今でも忘れられない。この本でも対話相手の女子学生が述べているように、ルーマニアを長く支配していた政権が倒され、独裁者が処刑される──それがテレビを通じて放映されたのだ。歴史の教科書で「勉強」した「出来事」とは違い、今テレビで流れていることが、歴史的な出来事になっている。その「体験」は忘れられるものではない。
一九八〇年代に、アジア各地で高揚した民主化運動を忘れてはならない。体制を揺るがすようなパワーを秘めた民主化運動は、象徴的には中国を交点にして、「東」の世界と「南」の世界で、同時代的な質を見せながら高まりはじめたということになる。

p.14
あのころはケータイもインターネットもなかったのだと思うと、なんだか不思議な気分さえしてくる。 しかし自分がこの本に強い影響を受け──もちろん自分流の勝手な解釈で咀嚼したが──それが現在にまで繋がっていることに、改めて気がついた。

とくに著者が指摘している「事実を問題化するプリズムが存在しなければ、たんに事実があるだけ」「事実を問題化する装置がない以上、問題は存在しえない」という、ある種ニヒリズムともシニシズムとも受け取れそうなこと。このことが意味する重要性を十分認識し、そのための「戦略」を存分に身に付けたいと思う。だからこそ差別作家、舞城王太郎の「差別性」について、どうやって「問題化する装置」を形成しなければならないか、そのことについて目下、腐心している。
さらに舞城を無条件に称揚している/つまりその差別に加担している「偉そうな」提灯持ち=自称「評論家」へもだ。この『ユートピアの冒険』では、マルクス主義の欺瞞が暴かれた後でも──具体的にはソルジャーニツィン『収容所群島』の後でも──マルクス主義を弁護する「論説」に徹底的に対決している。それこそ「はるかに残忍なマルクス主義を正当化」(グリュックスマン)することであり、愚劣極まりない自己保身と自己弁明だ。
現実の権力者は、「勝った、勝った」と浮かれていられるような状況じゃないことを、すでに熟知している。空想的な理念の世界に生きている三流インテリより、パワーポリティックスの過酷な環境を生きぬかなければならない現実の政治家のほうが、多少はものが見えているってことかな。大袈裟に騒いでいるが革命なんてあんなものさ、という種類のシニシズムもまた、おなじような三流インテリの姑息で自己保身的な反応にすぎないんだ。

p.300




戦争論

西谷修 著 / 講談社学術文庫



この人の論旨には瑕がある……とは最近読んだ京極夏彦の小説の一節であるが、この西谷修の『戦争論』を読みながら、どうしても腑に落ちないことがあったので、それをまず書いておきたい。全体としてはもちろん、いろいろと参考になったし、興味深い話題の数々に深く考えさせられたことは確かだ。

問題はなぜこの人は、フロイトやラカンの「精神分析」を何の留保もなく使用するのか、ということにつきる。

この『戦争論』は、クラウゼヴィッツの古典的「戦争論」からヘーゲル、バタイユ、レヴィナスあたりを引きながら、現代における「戦争の言説」を考察していくという、とても折り目正しい構成になっている。歴史的な目配り、政治の動向、哲学/思想の変遷も十二分に生かされている。ちょうど湾岸戦争が起きたころに書かれたもので、この本で展開される議論の本質は、約10年後に起きた9・11事件、イラク紛争にも十分通じるだろう。
つまりこの本は、共産主義崩壊後の唯一の超大国アメリカを中心とした欧米による「新秩序」、あるいは今でいう「グローバル化」に異議を唱えるべく書かれた「理論書」にもなり得るはずなのだ。

しかし、にもかかわらず、フロイト、ラカンに即した言説が繰り返されることは、それをぶち壊しかねない。なぜなら「精神分析」と言うものが、「正常」と「異常」を「勝手に、恣意的に、<正常者>の論理で持って」線を引き──まるでかつて西欧が勝手に恣意的に西欧の論理で持って、アジア・アフリカに「(分割)線を引いた」ように──、「異常」を「対象化」=「植民地化」し、それを治療するという大義名分のもと「飼い慣らし」「抑圧」「排除/抹殺」する装置に他ならないからだ。

この本で論難される「欧米中心主義」こそ、「欧米以外」を征服し、勝手に、そこに住む人々の意思を無視して「植民地化」を押し進めた風潮ではなかったか。なによりこういった欧米中心主義は「精神分析」における同性愛を異常視する──あるいは「外部」に押しやる──「異性愛中心主義」とまったく軸を同じくしていないだろうか(スウェーデンでかつて行われた同性愛者の強制的去勢手術、ナチスにおけるホロコーストは、精神科医の「お墨付き」によるものだ)。

だとすれば、「西欧で語られる」「西欧以外の言説」、「オリエンタリズム」という「フィルター」で語られる「西欧以外の文化」を問題化するのに、「精神分析」という似非科学思考を 使用することに、問題はないのだろうか。植民地主義を否定するのに、ある種の植民地主義的な背景を持つ「理論」を持ち出すことに、違和感を感じないのだろうか。少なくとも異性愛者「ではない」僕には、その論旨に瑕が「見えて」しまう。

『戦争論』と言えばクラウゼヴィッツ……と言いたいところだが、僕には小林よしのりのマンガが真っ先に浮ぶ。そこには、あまりにもバカバカしいエディプス理論も、「象徴界」「現実界」といった「目くらまし」の言葉もない。ある意味とても「真摯」である。はっきりいって「○○コンプレックス」や「××症候群」を量産する「精神分析」には、もううんざりだ。



太陽の都

トンマーゾ・カンパネッラ 著 / 近藤恒一訳、岩波文庫



ルネサンス期後期(1599-1602)に書かれたユートピア論。プラトンの『クリティアス』にように、架空の国「太陽の都」を、まず、地政学的に説明し、政治、社会・教育・軍事、住民の性生活から食事、宗教観までをカヴァーする。短いながらも密度の濃いお話が披露される。

一部ムカつくところもあったが(後で書く)、このイタリアの思想家カンパネッラ想像力の飛翔は止まるところを知らない。例えば、「世界」を巨大な生物に見立て、その「体内」にいる人間こそは、まるで人間の体内にいる寄生虫ようだと言ったりするところ。なんだかんだ言っても面白かった。
また、解説にある作者カンパネッラの生涯も、本編ストーリーに勝るとも劣らない読み応えのあるもので、彼は革命運動に参加したり、異端として教会に逮捕拘束され凄まじい拷問を経験している。しかしそれでもカンパネッラはしたたかに生き抜き、この著書をはじめ多くの文章を書き残した。まさに波乱万丈の人生だ──この書も獄中で執筆された。

「太陽の都」は占星術によってシステマティックに構成、管理されている。このことが、この思想書を不思議な魅力──センス・オブ・ワンダー──で包み込み、まるでSF小説のように面白く読ませてくれる。
そして興味深いのは、この国も、プラトンの『国家』のように、哲人王にも似た一人の「太陽=形而学上者」が国を治めていることだ。「太陽」はすべての決定権を有する。そして「太陽」を補佐するために「力」「知恵」「愛」という副統治者がいる。「力」は軍事一般、「知恵」は学問、「愛」は生殖を司る。

日本についての記述もある。それによると、この太陽市民は「黒い色」をとにかく毛嫌いしており、そのため、「黒い色を好む日本人をひどく嫌っている」ということだ。どっからこんな情報を仕入れたのだろう? 
それとムカついたというか許せないのは男色者への処罰で、首に靴を下げさせるという無意味なことをしていることだ。そしてこんなことまで書いている。
こんにちの詩人はみな、火星の影響をうけて人の悪口をたたき、金星と月に影響されて男色や淫売のことばかり歌います。男たちも女性化して、「あなたさま」などと呼びあっています。巨蟹宮に支配されているアフリカは、アマゾンがいるほか、フェスやモロッコには男娼の淫売宿をはじめ数えきれないほどの汚らわしいものがあります。

p.104
ここには言論の自由の侵害、同性愛差別、ジェンダー差別、人種差別があり、それを「星」のせいにするという科学的無知がまかりとおっている。こんなのは「ユートピア」ではなくてただの「ファシズム」でしかない。 こういうところは、キリスト教徒の思考の限界、無知蒙昧を露呈させ、それゆえプラトンの「理想国家」をめぐる議論と比べると、どうしてもレベルの低さを感じさせる。



「反」読書法

山内昌之 著 / 講談社現代新書



「おじさん」の「オレはこんな本を読んできた、そして本とはこんな風に読むんだ!」なんてのは最近ハヤラない。だからちょっとばかし「物分りの良い」物腰の「おじさん」が人気だ。

この本も、基本的に物分りの良いおじさんによる「ハウツゥー読書」ともいうべきもの(もちろん文体は「です、ます」調)。そして「反」と銘打っているのは、教養書だけでなくミステリーやエンターテイメントも紹介していること、つまり「権威」に拠らず、自分の好きな本を読めばいい、ということにすぎない。まあ「教養なんか気にしない」と言っている人が、東大の先生っていうのもなあ……。

というわけで、普段ならこの手の本はスルーするのだが、巻末に本文で紹介している本の一覧があって、そこにミシェル・フーコー関連の著作があったので、そこだけでも読んでみようと手に取った。

そんな動機でまずフーコーについて書かれた部分を読んだ。なかなか面白かった。例えばこんな風。
たしかに、『狂気の歴史』や『性の歴史』を書いたにせよ、フーコーを歴史家だと断定する勇気をもつ人びとは多くありません。むしろ、フーコーはブローデルのように古文書や写本の類を体系的に読まず、選んだ歴史上のトピックも細部には多くの問題がある、と指摘する声を聞くことが多いのです。しかし、これはなんとまァ狭い文学部アカデミズム流の発想でしょうか。フーコーの歴史家としての資質を云々する場合には、その微細な事実解釈の如何だけではなく、かれが追求したアプローチの是非を議論する方がこの人物の志に敵うものになるはずです。

p.76
ここのところを読みながら、そういえばカミール・パーリアがフーコーを舌鋒鋭く非難していたのは、まさにこの「歴史家フーコー」についてだな……案外パーリアはとても「生真面目」なのかもしれない、と思った。
だから、この部分で取り上げられていたヒューバート・L・ドレイファス&ポール・ラビノウ『ミシェル・フーコー 構造主義と解釈学を超えて』(筑摩書房)を読みたくなったのは言うまでもない。

こんな「効用」あったので、最初から読んでみようと思ってページをめくっていたら、上記のフーコー関連書よりも遥かに読みたい本が見つかった!!!
それは石原莞爾『最終戦争論・戦争史大観』(中公文庫)だ。

著者によれば、石原莞爾は満州事変の立役者であり昭和陸軍最大の戦略家。つまり戦後の日本では忌避されるべき軍人であった。しかしその軍人・石原は独特の非凡な「戦争論」を持っていて、それは机上の理論やきれいごとを並べただけの理想論とは比較にならない現実的な「論理」を鋭く突いている。山内昌之は、自分が戦後の学校教育で昭和の軍閥を憎むことを単純に教えられてきたなかで、石原のような<国際平和>を「戦略的に」考える軍人がいたことに驚いたという。そしてこう述べる。
もちろん、石原の言を嫌う人は多いはずです。しかし、軍事力学主義者のサッダーム・フセインや金正日の<良識>を信じて、非武装や無抵抗を世界に向かって無警戒に説く善意は、現代の日本社会以外には通用しません。絶対平和や国際安全保証が主観的な信念で果たされると考える人は、偏見をもたずに石原莞爾の『最終戦争論』を批判的に読む必要があります。

p.39




アール・ヌーボーの世界
モダン・アートの源泉

海野弘 著 / 中公文庫



室内は濃密なその人間の空気によってみたされ、空間化され、電磁場化され、血肉化される。逆にいえば、室内の痕跡から、そこにいる人間の像が浮びあがってくる。ベンヤミンのいっているように、ポオに始まる推理小説は、室内の観相によって犯人をわりだしてくるのである。ガルトン・ルルーの『黄色い部屋』やコナン・ドイルのホームズものの舞台のほとんどは、世紀末の<室内>である。

p.220
原著は1968年出版。海野弘の最初の本であり、そのとき彼はまだ20代だった。しかし、「栴檀は双葉より芳し」という言葉通り、著者の関心領域とその個性がはっきりと窺われる名著である。

「二十世紀の青春」と題された非常に読み応えのある序論から、アール・ヌーボーの歴史、各国別(西欧、アメリカ、北欧・ロシア)の展開、その思想を丹念に紹介しており、1900年前後に花開いたアール・ヌーボー(あるいはモダン・スタイル、あるいはユーゲント・シュティール)という芸術様式を知る上で絶好の入門書であることは言うまでもない。さらに、ボードレールやワイルド、プルーストらの文学作品から、ニーチェ、ベルクソン、現象学といった哲学/思想との関連まで触れ、膨大な知識が惜しげもなく披露される。その濃密さに圧倒されながらも、まるでジュール・ヴェルヌの小説を読むように──アール・ヌーボーはヴェルヌの世界である──、素晴らしい読書体験を確実に味わせてくれる。

とくにジョン・ラスキンの思想の再評価とパラレルに展開される「アール・ヌーボーの歴史」は興味深く、ラスキンの「思想」をもっと知りたくなった(ずっと以前に『ジョン・ラスキンとヴィクトリア朝の美術展』という展覧会でラスキンの「絵画」をまとめて見たことがあるのだが、穏当な風景画を中心とした水彩作品は強烈な印象を残すものではなかった)。
そのものが芸術となっている批評、詩としての批評(ボードレール)がラスキンを起源としている。
世紀末の、美のための美と生活のための美、デカダンと社会主義は、ラスキンにおいて出会う、アール・ヌーボーの二つの顔である。

p79-80
また、アール・ヌーボーとプルーストとの関連で、ロベルト・クルティウスが述べていることが面白かった。それによると社会描写に長けた大作家は二つに分類され、社会を動物界すなわち「動物区系」と見る作家と植物界すなわち「植物区系」と見る作家に分けられるのだそうだ。そしてプルースト(そしてアール・ヌーボー)は「植物区系」に分類されるということだ。



コルヴォー男爵
知られざる世紀末

河村錠一郎 著 / 小沢書店



二人の抱擁は猛烈でした。(中略) 二人はただひたすら狂い合ったのです。体中どの一点たりともプレイしないところはありませんでした。終わりは同時に来ました。長い禁欲で、二人とも自制を失っていたのです。ピエロは自分の番を待つことができませんでした。まるで待ち切れなかったのです。そこで私たちは互いにしがみつき、あえぎ、そして噴出したのです──まさに奔流でした。それから二人して笑い、キスをし、転がり、体を拭いてベッドにもぐりこむと、抱き合って眠りました。ピエロの息の美味しかったこと!

p.204-205 『ヴェニス書簡』より

「コルヴォー男爵」なる人物を知ったのは宮脇孝雄の名著『書斎の旅人』においてだった。なぜこのイギリス生まれの男色家コルヴォー男爵ことフレデリック・ロルフ──トーマス・マンの『ヴェニスに死す』にもモデルとして登場する──が、イギリス・ミステリを論じた『書斎の旅人』に登場するのかというと、それは、『コルヴォー探索』という伝記を書いたのがA・J・A・シモンズという人物であり、そしてそのA・J・A・シモンズの伝記を書いたのが彼の実弟、つまりミステリ作家/批評家のジュリアン・シモンズだからだ。

この本は、孤高の文人コルヴォー男爵について日本語で書かれた貴重な評伝であり、彼の交友関係、その著作、そして彼が生きたイギリス世紀末という時代が生き生きと描かれている。何より伝記として無類に面白く、ピカレスク小説風でもあり、天衣無垢な少年愛小説風──巻頭にロルフが愛した少年の写真や自作のドローイングが掲載されている──でもあり、一気に読めてしまった。

ロルフは作家でありW・H・オーデンやD・H・ロレンスに絶賛された(わかるわかる、笑)。『ハドリアヌス七世』『全一への希求』、一部がイエロウ・ブックに掲載された短編集『自らを象って(トト物語)』等があるが、やはりなんといっても強烈なのは、性体験を赤裸々に綴った『ヴェニス書簡』。これ最高だ。
「ジルドと寝るのは楽しいかい?」私は唐突にこう聞きました。「シニョール、エ・モルト・ペザンテ──旦那、奴はものすごく重たくて、それによがって一時間もぼくを攻め続けるんだもの、窒息しそうになるんです」「それでお前の方はどうなんだ?」「奴のおいしい山の谷間を二十回、三十回、四十回と突いて、あとは奴の腕の中でグッド・ナイト」

p.199-200 『ヴェニス書簡』
また、この『ヴェニス書簡』をめぐる「騒動」も面白い。内容が内容である。しかもフィクションではなく、(今流行りの)イニシャルで人物が示されたりもしている。A・J・A・シモンズとオスカー・ワイルドの息子ヴィヴィアン・ホランドとの邂逅、『書簡』を言い値で買い取った諜報機関の大物グレゴリー、ワイルドのかつての愛人アルフレッド・ダグラスらの登場は賑々しくて実に楽しい。当時の同性愛というタブーは意外な人物と人物とを結び付けていた。例えばA・J・A・シモンズにしても、ダグラスに言わせると、古書店主クリストファー・ミラードに「可愛がられた」ということ。そしてミラードはこの時代のディレッタントであり、かつてロバート・ロスの秘書を務めていた。ロバート・ロスはオーブリー・ビアズリーの才能をいち早く認めた一人であり、オスカー・ワイルドの友人、そして熱心な賛美者。ワイルドの死後もその名誉回復に務めた心優しき人物だ。

とにかくこの稀代の男色家コルヴォー男爵/フレデリック・ロルフは、良くも悪くも実に魅力的な人物だった。そして彼をめぐる「騒動」も同じく魅力的だ。ロルフの小説も読んでみたいし、A・J・A・シモンズの『コルヴォー探索』も読みたい、またジュリアン・シモンズの『A・J・A・シモンズ伝』もだ。この時代のイギリスは、僕にとって、非常な関心を生む。

コルヴォー男爵はヴェニスを愛し、少年を愛した。そしてその愛ゆえに身を滅ぼしてしまった。<コルヴォー>とはイタリア語で鴉。鴉はロルフの紋章であった。
ベイングリッジは、謎めかし、誑かすのに、「コルヴォー」の名を選んだのは賢明であったという。なぜなら「鴉」のイメージにはさまざまな挑発があるからである。腐肉をも喰らう貪欲な鳥、自己防衛の本能が発達した鳥、警戒心の強い鳥、予言の鳥、悪の鳥、孤独と不吉の鳥……。だが、いまやその象徴性は一つに定まったように思える──<コルヴォー>即ち、凄絶。

p.239