ポスト構造主義
キャサリン・ベルジー 著 / 折島正司 訳、岩波書店
ハンプティー・ダンプティーは、アリスにつぎからつぎへと議論をしかける。まるで対話が競争だというみたいに。すっかりご満悦の彼は、不機嫌なアリスに、勝ち誇ってこう言う。
「ほらこれが君の栄光だ」。
良識に黙ってもらった方がいいのか、彼に黙ってもらいたいのかよくわからなくなったアリスは、「あなたが「栄光」っていうのをどういう意味で使っているのかわからない」と言いかえす。
するとハンプティー・ダンプティーは説明する。
「僕が言ったのは、「ほらこれが君を圧倒するすてきな議論さ」という意味だよ」
「だけど「栄光」に「圧倒するすてきな議論」という意味はないわ」とアリスは反論した。
ハンプティー・ダンプティーはすこし見くだした様子で言った。「僕がことばを使うときは、そのことばは、僕がそういう意味に使うことにした意味になるの。それだけの話さ」
「問題は、あなたがそんなにたくさんの違った意味をことばに持たせられるかっていうことね」とアリス。
「問題は、どちらがご主人様かってこと。それだけさ」とハンプティー・ダンプティー。
アリスの疑問は、はたして正当だろうか。意味はわたしたちの思い通りにはならない。もし思い通りになったら、他の人たちとけっしてコミュニケーションができないだろう。
p.1-2
まずは「自明の真理」を疑うこと。アリスがハンプティー・ダンプティーが示す/決定する「意味」に満足できなくなったとき、すでに思考の実践がスタートしている。「誰がこの動物を<犬>と呼ぶことと決めたの?」「わたしが<女>であると決めるのはだれ?」「<ゲイ>って何?」「誰が<犯罪者>なの? 誰がそう決めるの?」……そもそも「<正しい>ってどういうこと?」。
この本は「ポスト構造主義」の入門書である。入門書であるということは、通常、読者に、「ポスト構造主義なるもの」を「わからせる」という使命を帯びているものだ。
しかしこの本では、巻末の「ポスト構造主義の使いかた」に書いてあるように……”この本が、終始一貫して言っていることは、「わかっちゃう」ことなんかないんだよ。わかっちゃあお終いよ、わかっちゃったような気がしてもお終いよ”というスタンスになっている。そもそも、ことばの意味が「わかっちゃう」ということこそ間違いなのだ、ということを「わからせる」こと。それが目的だ。
同じように、自分たちが何者であるとか、自分の属する文化や、まして「民族」や「国家」がなんであるか「わかっちゃう」のは、たいへんな誤解だと、それは言う。(中略)
たとえば構造主義は「わかっちゃった」と思ったところがいけないというわけだ。(中略)
「わかっちゃった」からもういいや、と思わないで、もっと「わかろう」としつづけよう。もっと「わかろう」としている途中なのだということをいつも忘れないで、「わかった」ような気がしたことについては、今度「して」みよう。毎日の中で使ってみよう。
解説「ポスト構造主義の使いかた」p.170-171
そう、いつまでも「わかんない」から「わかろう」としつづける。アリスがご主人様(ハンプティー・ダンプティー)が「決定」する「真理」を受け入れたら、「物語」はそこで終わる。人=アリスは、自明の真理/意味に「挑戦」しつづける──だからそれ(真理/意味)をいつも「変更」しつづける……その「原動力」になる。
「わかっちゃった」ぞと言って安心していたり、威張っていたりするしごとは、今日だんだん信用を失いつつある、と思う。
p.174
そこで、この本でも、そういうことが「わかった/わからない」有名な偉い哲学者の「仕事」が参照される。ソシュール、バルト、アルチュセール、フーコー、デリダ……。
中でもデリダの仕事に注目したい。彼は「二項対立」を「脱構築」する。西洋文化は「二項対立」に依拠している──それが「形而上学」だ。そして「二項対立」はつねに「階層的」だ。例えば、
男/女、異性愛/同性愛、A集団/a集団、ロジカルなステートメント/ポエミーなエクリチュール……。
ひとつの項が高い価値を有し、他方には欠けたところがあると見なされる。自然は文化に優越した権利を持っている。話されることばが書かれることばを犠牲にして特権を謳歌するのとまったく同様だ。しかし対立構造に依存したこれらの項自体が、対立構造そのものを支えることはけっしてできない。それぞれの項の意味は、他方の項の痕跡に依存していて、この痕跡が意味決定に内在しているのである。
p.174
つまり、後に書かれた(後者)の「貶められた属性=痕跡」を「利用」することによって、前者の「優越性」が示される──決定される。
例えば、「男性の能動性」は「男性それ自体」から導かれるものではない。「女性の受動性」があってこそ、その女性が有している「受動性」の「不在」によって、男性=ご主人様が「男性の能動性=優越性」を「決定」する。
「健全な異性愛」は、「倒錯的な同性愛」があって、はじめて、「倒錯性」の「不在」によって、「異性愛の健全性」が「決定」される──決定するのは、ご主人様=異性愛者だ。
「A集団」(の例えば「安全性」)を「保障」するのも、「a集団」の「属性(犯罪性)」を「不在・化」して導かれるものだ──誰が導くのか? 無論、前者=A集団だ。このとき、A集団が「A集団」であることを知るのは、a集団を相当熟知していることが前提、もっと言えば「a集団の内側」からだ。なぜならば、「意味」は、両者の「差異」に依存しているからだ。
こういった「自明の真理」に疑問を感じたとき、とくに後者の立場にいる人々=アリスは、その「真理」に挑戦し、抵抗する。「わたしわからない」「なぜ?」と。例えアリスの前に厳然とした「形而上学」=ハンプティー・ダンプティーが聳えていたとしても。
伝統的な西洋の形而上学は、批判にもとづいて前進する。敵手の議論の弱点を見つけ、そのことによってそれが偽であるとしめす。ポープやスフィフトにならって、そのあと相手の議論を愚弄し、相手側でなく自分の側に立つように読者を説得することがあってもいい。
(中略)
だが脱構築は批判ではない。デリダはレヴィ=ストロースを尊敬をもって遇しているし、読者にソシュールを退けようとか、いわんや愚弄しようというようなことは、彼の企図するところではない。かわりに彼は、ソシュールの本が、みずからを前提とし反復する話されることばと書かれることばの二分法を、維持できていないと指摘する。
p.124
暗い時代の人間性について
ハンナ・アーレント 著 / 仲正昌樹 訳、状況出版
ハンナ・アーレントが、排除された者たちの間に、他の人々の知らない特別な人間性が発展し得るのではないかと夢見ているのはたしかだ。しかしこうした人間性は普遍化できない。人間だけがおり、様々な個人がいないこうした領域では、他者と対話したいと称しながら、現実にはその差異をそもそも認識していない擬似政治的表象が増殖する。ドイツ人がユダヤ人の苦しみを自分のものにしてしまう倒錯した終末論が生じている。
インゲボルク・ノルトマン 解説──自由が問題である
1958年、ハンナ・アーレントは、自由都市ハンブルクよりレッシング賞を受賞した。この本は、その受賞の際に行われた公演の記録である。短いながらも、彼女が問題にしている様々なテーマ──公共圏、全体主義、ユダヤ人問題等──が登場し、密度の濃い議論が展開される。
また、インゲボルク・ノルトマンによる解説も、単なる「解説」を遥かに超えて、アーレントの公演内容を補完しつつ、独自の「読み」を見せ、出色の「アーレント論」になっている。読み応え十分だ。
この『暗い時代の人間性について』でアーレントは、まず、「レッシング賞」にちなんだレッシングの「人間性について」語りながら、そこに「自由都市」にちなんだ「自由について」(自由論)をドッキングさせている。内容以前に、この非常に効果的なプレゼンテーションに感心させられた。もし、このアーレントの公演を直接聴いていたら、もうこの時点で彼女の「魅力」に有無を言わさず惹きこまれてしまったに違いない(本論とは別の意味で「人間性」というものを感じさせられた)。
さすがだ、と唸らせる絶妙な導入から、独自のレッシングの「読み」を通して浮びあがってくること。それは、「真理」の追求よりも「対話」を重視するレッシングのユニークな姿勢。そこに彼女は新たな政治のパラダイムを見出した。
「他者」との「自由」な「対話」。それこそが、アーレント自身が貫く姿勢でもあり、それが「真理」=「歴史や論理的強制の支え」を利用しない「全く自由な思考」に通じることは言うまでもない。「対話」こそが「人間の条件」なのである。
共通の世界は、人間たちによって持続的に語り続けられない限り、文字通り”非人間的”なものに留まることになります。世界が”人間的”であるのは、人間によって作り出されたからではありません。また人間の声が鳴り響くことを通して、人間的なものになるわけでもありません。会話の対象になった時に初めて、世界は人間的になるのです。
(中略)
私たちは、自分自身の内で、そして世界の中で起こっていることについて語ることを通して、それを人間化するのであり、また、そうした語りの中で、私たちは人間であることを学ぶのです。
p.48-49
ただし、この議論において強調されるのは、「同情」は決して「他者」との相互認証の基礎ではありえない、という認識である。レッシング/アーレント/ノルトマンは、そのことを強く確認する。
それどころか、「同情」は「他者」との距離を破壊する。「同情」は「連帯」と取り違いされる。「同情」によって「多数者が一者になる」とき、それは、まさに「ドイツ人がユダヤ人の苦しみを自分のものにしてしまう倒錯」と同義である。
そう。この「ドイツ人がユダヤ人の苦しみを自分のものにしてしまう倒錯」という事態は、「異性愛者が同性愛者の苦しみを自分のものにしてしまう倒錯」という事態に、まさに、言い換えられるだろう。ここで僕が問題にしたいのは、言うまでもなく、「やおい」についてだ。
「やおい」は「同性愛者の苦しみ」を<利用>して「作成」される。「禁断の愛」「虐げられた者たちの愛」といった、おきまりのフレーズが、ものの見事に「反復」される。
さらに問題なのは、「やおい論」において、「同性愛者/マイノリティ」の「苦しみ」を自分たちはわかっているという、安っぽい「同情」が連発されるが、しかし良く読むと、それは単なる「自己正当化」するための卑怯なエクスキューズでしかないことだ。しかも高城響のように、”同性愛は異常である……しかし「やおい」は異常ではない”、ということを平然と言ってのける「差別主義者」もいる──「異常な同性愛」=「やおい」を量産しておきながらだ。
アーレント/ノルトマンは、「他者」があまりにも「近付き」することによって、「他者」が文化的特殊性を喪失する傾向があることを指摘する。それは「象徴的不平等」は消滅するが、「実在的な不平等」は増大すると述べ、「同情」は、そういった危機に対し解決を見出せないばかりか、むしろ、重大な欠落=不平等にヴェールをかけて覆い隠すことになる、と主張する。
「同性愛」が「やおい」という「言葉」に置き換わる。「同性愛映画」が「やおい映画」と置き換わる。「やおい」の氾濫によって、一見、同性愛者への「象徴的不平等」が喪失しているかのように思われる。だから、”日本は「やおい天国」なので、同性愛問題で揺れるロシアの作家に対し、日本に亡命したらどうか”などど、軽々しく発言するライターも出てくる。これこそ、まったく「実在的な不平等」を無視した暴論だ。こういうことによって、「実在的な不平等」は増大し、「差別」はヴェールに覆い隠される。
距離というのは、拡大された思考様式、つまり思索においてあらゆる他者の立場に身を置ける能力が展開し得る空間である。距離が破壊されれば、多元性も破壊される。政治的空間における同情は、人間的なものではなく、占有欲の現われである。
解説 p.84-85
いったい、なぜ、「他者」の立場へ身をおくことができるならば、どうして「レイプされてハッピーエンド」などという「発想」が生まれるのだろう。いったい<誰>がレイプされて、そんなことを思うのだろう。それは「やおい」が「同性愛」を「パリア」と見なして、自分たちの「汚辱」を擦りつけているからだ。ここには卑怯で卑劣で薄汚い政治権力が働いている。
アーレントが、レッシングの「対話の可能性」から見出したのは、「友情」である。「同情」ではない、「友情」である。そこに「政治の可能性」を見出したのである。そして、その「他者」との「対話/政治の可能性」に必要な「友情」を貶めるもの──それが「やおい」だ。
ベルクソン
人は過去の奴隷なのだろうか
金森修 著 / NHK出版
針が刺されるという感覚は、ともすれば、まず針が当てられた時点から、非常に小さな痛みが存在し、それが徐々に大きくなって大きな痛みに変っていくように捉えられがちである。つまり、人は、その実験(自分で自分の腕に針を刺す実験)最中に起こるのは、痛みという同一の感覚が量的に増大していくことだと考えがちだ。しかし実をいうなら、それは、針をもっている方の手が徐々に力を加えていく、というその筋肉努力の感じが、いかにも量的に単調に増加していくという気がするので、その筋肉努力の増え方の様式を、針が刺される方の感覚に当てはめて理解しているからに他ならない、
p.23-24
そうだったのか、ベルクソン! というわけでもないが、この本では、難解で取っ付きづらいイメージのベルクソン哲学のエッセンスを、ざっくばらんな語り口で紹介してくれる。何より、ベルクソンの「考え方」が、とんでもなく破天荒で常識破りなものであることを知らしめてくれる。ベルクソンに興味を抱かずにはおけない/させない素晴らしい入門書だ。
まず、SF映画/小説、とりわけフィリップ・K・ディックの作品が参照される。これが実に「ラディカルな思想家」ベルクソンに相応しい話題なのだ。
ただ、未来予知は、過去とは違って絶対に確実とはいえず、複数の予言ミュータントたちの間には、必ず予想の違いが生まれる。多数派の予想とは違う少数派の予想、それがまさに<マイノリティ・リポート>だ。現時点でまだ可能的でしかない未来には、おそらくそうなるだろうという多数派の予想、マジョリティ・リポートの傍らに、必ず複数のマイノリティ・リポートがある、というわけだ。
p.12
なんといっても著者は、ベルクソンの方がSF作家よりも、もっとSF的だったりするかもしれない、とまで書いている。
実際、この本を読むと、ベルクソンの思考には、たしかにSF的な「飛躍」が感じられる。もちろん優れたSF小説がそうであるように、その飛躍は論理必然に則っている。そして、だからこそ、その(思考の)飛躍が「驚き」=「センス・オブ・ワンダー」になるのだ。あんな温和そうな顔をしていながら、ベルクソン、なかなかやってくれるものだ。
ひとつだけ、「純粋持続」について書いておきたい。これはなかなか難解なベルクソンのタームで、僕もどれほど理解できたのか定かではない。が、とりあえず、意識的な存在である人間だけが持ち、その意識は「留まることなく膨らみ続ける持続」であり、だから個々人の「現在」は、その個々人の背後にある膨大な持続の上にあるものなのだ、とイメージしている。
ここで重要なのは、ベルクソンは、「意識」や「感覚」を計量化=科学化する心理学や生理学に抗して、哲学者として態度を表明することが責務だと考えていたこと、「本当にその種の自然科学的分析手法を使えば、僕たちの意識や心理というようなことばで意味しようとしている経験の内容が、完璧に解明されるのだろうか」という問いを発していた、ということだ。
もし、ある人が、他人に「痛み」を与える実験をしたとしよう。他人の腕に針を刺すという物理的な「痛み」でも構わないし、差別的侮蔑的発言という心理的な「痛み」でも構わない。同じ力=物理量で何人かの相手の腕に針を通したり、罵りの言葉を複数の人に投げかけた場合、それらの「効力」は、物理量に比した「一様」なものであると言えるだろうか。
そうではないだろう。ベルクソン的な考えでは、冒頭で引用した「自分の腕に針を刺す実験」のように、「(針を刺す側の)その筋肉努力の増え方の様式を、針が刺される方の感覚に当てはめて理解しているからに他ならない」からだ。
「量的」ではなく「質的」な多様性こそが問題。ベルクソン自身は純粋持続についてこう述べている。
要するに、純粋持続は、質的変化が次々に起こること以外のものではないはずであり、その変化は互いに溶け合い、浸透し合い、正確な輪郭をもたず、互いに外在化するという傾向もなく、数とのいかなる近親性もない。それは純粋な異質性のはずだ。
そして金森氏は、この本の中で、「君には君の、ただ君だけのものとしての、純粋持続がある。確かに、ある。たとえ僕が君の親友だったとしても、君の純粋持続の全部を捉え尽くすというのは絶対に無理なのだ」と書いている。
そう。個々人の「純粋な異質性」は絶対に分析不可能だ。ましてフロイト流の精神分析なんて……まさに多数派?の予想、マジョリティ?・リポートと言えるだろう。だから、そんな、他人の予想/幻想に巻き込まれる必要は、ない。
20世紀言語学入門
現代思想の原点
加賀野井秀一 著 / 講談社現代新書
……言語は、さまざまな社会的慣習のなかでも、最も保守的に機能するものとなっているのである。
どんな革命家であれ、たとえ議事堂は爆破できても、意のままに「ぼくは」を「はくば」と読んだり(形態素内の変更)、「ばくはせよ」を「はくはよせ」といって命令をくだしたりすること(文法性の変更)はかなうまい。
p.11
J・G・メルキオールの『現代フランス思想とは何か』を読み始めたら、いきなりトゥルベツコイやイェスペルセン、バンヴェニストらの言語学の話題になって、こりゃソシュールやバルトをちょっとばかし齧ったくらいでは、ちょっと……と思って、「入門」というシニフィアンのこの本を、とりあえず、恣意的に選んで基礎知識の確認をしてみた。
実際、この本は、「入門書」に相応しい「内容」で、ソシュールから始まる20世紀言語学ついてコンパクトにまとまっており、言語学の流れ、「何が言語において問題とされてきた/いる」のかが、およそ把握できる。
もっとも、この本を読んで、より個人的に興味を覚えたのは、その「動機」であったフランス&ヨーロッパ系の言語学よりも、アメリカの言語論のほうだった……怪我の功名と言うべきか(誤用)。
何と言ってもエドワード・サピア。「サピア」という響きの美しい「名」もさることながら、この本に掲載されているサピアの写真(「ルックス」)がなかなか魅力的なのだ。さらに詩人でもありピアニストでもあったというサピアは、ライバルであったブルームフィールドとは対称的な「メッセージ」を放出しており、そこに、まず興味を惹いた(「受信」した)。
もちろん彼の理論、すなわち「偏流論」──言語の変化は人間の無意識の領域において偏流のごとく生じるというもの──や「それぞれの言語体系の応じてその数だけの世界観が存在する」という「サピア=ウォーフの仮説」と呼ばれるものもとても面白そう。サピアについてはその著書を読んでみたくなった。
また、チョムスキーの生成意味論とロギン・レイコフのフェミニズム言語学は、僕個人の「問題系」とフィットしそうだ。
こうしたところから、チョムスキーは次第に、表層構造による意味の決定を重視するようになっていくのだが、生成意味論はこれを、「意味の異なる表層構造はそれぞれ別個の基底構造から派生したもの」と考えて処理しようとする。結果は、変形操作にわりあてられる力が大きくなりすぎて、派生の適格性が疑われることにもなっていった。
さらに、ロギン・レイコフなどは、「メアリーはジョンの寡婦である」(Mary is John's widow.)は正規の文でありながら、「ジョンはメアリーの寡夫である」(John is Mary's widower.)はおかしな文になることを説明するために、英語社会の女性の地位にかかわる事実をも文法そのものに組みこみ、フェミニズム言語学というものさえうち立てようとした。つまり彼らは、文法理論を拡大して、状況や社会的コンテクストまでもとり扱えるようにすべきだと考えたのである。
p.198-199
「同性愛は問題ではない、だから〜」というステートメントと「異性愛は問題ではない、だから〜」というステートメントは、文法上はまったく同じ構造である。が、にもかかわらず、時と場合によって、また発話者が<誰か>によって、両者の「意味すること」に違いが生じてしまう、場合がある。無論、これは、社会における同性愛者と異性愛者の地位(ステータス)の「非対称性」そのものにかかわっていることは言うまでもない。
よって、こういった言語面における同性愛/異性愛の非対称性をより実践的に分析するためには、フェミニズム言語学と同様、ゲイの社会的コンテクストを組み込んだ「クイア言語学」なるものを打ち立てることが必要なのかもしれない。
それと内容とは別に、この本のカヴァーで使用されている荒川修作の「"No!"says the signified Untitled 4.」という作品がとても魅力的であることをぜひ書いておきたい。しかも「言語学」の本のカヴァーとしても「ナイスなチョイス」(死語)だと感心した。そういえば、講談社現代新書は、他社の「新書」と違って一冊一冊「デザイン」が違う。こういった「差異」はいいね。
零度のエクリチュール/記号学の原理
ロラン・バルト 著 / 渡辺淳+沢村昴一訳、みすず書房
単純過去のこうしたあいまいな機能は、また別のエクリチュールの事実のなかにも見出される。それは小説の三人称のことである。殺人者を物語の一人称のもとにかくすことに創意のすべてが賭けられていた(アガサ・クリスティの)ある小説のことを多分おぼえているだろう。読者は殺人犯を筋のなかのすべての《かれ》の背後にさがしていた。ところが、殺人者は《わたし》のもとにいた。作者は、小説では通常《わたし》は証人で、行為者は《かれ》であるということを重々承知していたのである。なぜそうなのか。
p.35
うーん、バルト、さすが鋭い。含蓄に富んだ文章は、しかし明快で、一気呵成に読ませてくれる。何より、そのテクストには「読むこと」の「快楽」が満ちている。『記号学の原理』のような「学術論文」でさ・え・も・だ。
『零度のエクリチュール』で、バルトはまず「政治」「小説」「詩」のエクリチュールを分析する。冒頭で引用したのは言うまでもなく「小説のエクリチュール」についてだ。この部分は、小説(「小説」それ自体)に関心がある人には必読……という「強制的な言葉」を使うよりも、絶対にお勧め、と言いたいな。なんていったって、そんじょそこらの「小説」よりも面白いんだから。
ここでバルトは「小説とは一種の死である」という有名なセリフを放つ。そして、
すなわち、エクリチュールははじめは自由だが、結局、作家を鎖につながれた歴史そのものにつなぐ鎖なのだ。社会は、芸術をより確実に自分自身の疎外のなかへ引き入れようとして、芸術の明々白々な記号で鎖を指摘しているのである。
p.40
と結論づける。
また、「政治的エクリチュール」では、スターリン主義的エクリチュールについて、
しかじかの罪人は国家の利益を傷つける活動をしたといわれるが、これは、罪人は罪を犯す者だというのにほかならない。おわかりのようにこれこそ同義語反復であり、スターリン主義的エクチュールにお定まりのやり口である。
p.25
と記し、それは「現実的なものを裁かれたかたちのもとに与え、ただちにそこから断罪を読みとらせることをねらっている」ことだという。
もっとも今時、こんな「スターリン主義的エクリチュール」なんて時代錯誤もいいところだろう、と思っていたが、最近「反日分子」なる言葉を聞いて──だいたい<反日分子>というシニフィアンがそのシニフィエと一致するのに時間がかかったぞ──バルトのこの説は、未だ、「記号の帝国」においては有効なんだ、と考えを改めた次第。
ゼロ度とは、ないことが意味(記号作用)を持っていることである。
『記号学の原理』p.180