パッション
ジャック・デリダ 著 / 湯浅博雄 訳、未来社
密やかなものがある。ひとはつねにそれについて語ることができるけれども、そのことは秘密を断ち切るのに十分ではない。ひとは無限にそれについて語ることができるし、それに関していろいろな物語=来歴[histoires]を語ることもできる。その秘密によって作動させられた言述をすべて語ることや、その秘密が巻き起こす物語、または脈絡づける物語などを語らせることができる。なぜなら秘密はしばしば密やかな物語のことを思い起こさせるし、そういう趣味を抱かせることもあるから。それでも秘密は、ちょうどコーラ[la khôra]のように密やかなまま、黙ったまま、動じないままとどまるだろう。
p.60
ひとことで言うならば、責任=応答可能性についての思索、その思索の「場」についてのテクスト、と言えるだろうか。もちろんそこはデリダ。「単純化」を阻止するかのごとく、「斜めからの捧げもの」として、「秘密の名」として、「異邦なもの」として、そのテクストは「回り道」をしながら慎重に、そして狡猾に歩みつづける。
デリダのテクストとしては、ずいぶんと読みやすいと思う。が、しかし、何となくミステリアスな感じがする。それは、このテクストが「秘密の演習」であることに加え、それ自体が、もうすでに「ある文脈」に対する「応答」になっているからかもしれない。「応答」に関してのデリダ自身の説明も非常に意味深なものだ。
実際、もし私が応えるとすれば、私は、自分が<応えることのできる>と感じている人間の位置に自らをおくことになるだろう。こういう人間はどんなことにも返答を持っており、各人に、各々の問いに、各々の反対もしくは批判に応える能力があると思い込んでいる。そういう人はまた、ここに集められたテクストの各々がその力、その論理、その独特な戦略を持っているということを、見ようとしない。
p.42-43
さらにデリダは、ある種の「非応答」こそが、「礼儀正しさ」を証明し、それが「他者への責任」を持つということも示唆する。確かに「文意」は取りやすいのだが、こういった「独特の戦略」を持ったテクストは、しかしその「真意」はなかなか掴み難い、ところがある。しかも”私”がいつのまにか”「私」”になっていたりもする。
そう、これって……一人称の叙述トリックを扱ったミステリーと似ていないだろうか。
古くはアガサ・クリスティの『アクロイド殺し』から日本の新本格のような。
(『アクロイド殺し』で思い出したのだが、その『アクロイド殺し』の独創的なトリックはクリスティ自ら別の作品で「反復」している。これはその「メイントリック」が、推理小説史上、唯一絶対の「一回性」のトリックだという評価に対して、彼女なりの「応答」ではないだろうか。これによって『アクロイド』の「トリック」は、作者=創造者自らの手によって、その「反復可能性」を示したことになる)
僕は、この本を読みながら、「信頼できない語り手」による小説を読んでいるかような「スリリングさ」を感じた。
そしてその「スリリング」な読書体験は、様々な思索の「場」を僕に提供するに至る。責任=応答可能性というデリダの「問題」を自分なりにパレフレーズしてみたくなった。
さて、それは「ハッテン場」における責任=応答可能性ついてだ。密やかな場所=ハッテン場には、それとなく知られた「儀式的習わしのランガージュ」が存在する。すなわちある種の「礼儀正しさ=礼儀作法」だ。もちろん「ランガージュ」と言っても、言葉自体は常に必要ではない。相手が「言語ゲーム」を異にする外国人であった場合はとくにそうだ。「しゃぶってくれよ」という身振り(シニフィアン)だけで十分通用する/コミュニケートできる(ただし「しゃぶってくれよ」という──と「理解」した──シニフィアンが、単に「フェラチオ」を意味するだけでなく、もし彼がユダヤ人ならば、そのユダヤ性を示す「割礼告白」としての「二重の身振り」である場合も、ある)。
そこで例えば、ハッテン場において、タイプではない男にアプローチを受けた場合、どう「応答」すれば良いのだろうか、ということを考えてみたい。ある程度妥協して「応える」のが「礼儀」に叶うのか、それともはっきりと「拒絶」するのが正しい態度なのか……。
無論、デリダ的思考は、そんな「応答」を一蹴する。
どんな応答にせよ、それが応答である限り、自分を買かぶった厚かましさから決して解放されることはけっしてないだろうが、それはなぜかと言えば、そうした応答が、そうやって他者に対して、かつ他者の前で応えることによって、他者の行う言述の周りに線を引いて範囲を画定することができると自負するから、というだけではない。
p.44
そしてもし、タイプでない男のアプローチに「応答」した場合、すなわち彼のアプローチに「同意」し彼とセックスをした場合は、「私」はどう「責任」を取るべきなのだろうか。
ここで「責任」の問題は、もし自分が先に達した(射精=散種した)場合に大きくクローズアップされる。なぜならば、セックスの最中はパッション(情熱)に突き動かされて──あるいはラッシュの影響で──「相手がタイプではない」ということをすっかり忘れてしまっている。しかし射精後、冷静になってみると「相手がタイプではない」ということを思い出し、その後の行為は、彼をイカせるための「義務」に転じてしまうことになる。それは射精後の疲労感も相俟ってある種のパッション(受難)にも相当するだろう。もちろん、両者が互いに come することがゲイにとっての「礼儀作法」であることは言うまでもない。
(だから不思議に思うのは、異性愛の男女のセックスにおいて、ほとんど常に男性の射精によってセックスが終了するということだ。女性が達したことを男性はどうしてわかるのだろう。そしてそれを確認するためかもしれないが、「良かった?」という男性の「呼びかけ」に対して、女性は「肯定する」以外の「応答」が通常存在するのだろうか。ゲイにとってはそれが「ミステリー」だ)
相手がイク(大文字の COME だ)まではセックスという「儀式」は終わらない。それは暗黙の了解、一種の義務である。「私」はその「責任」を負っている。
ただしデリダは、この本でカントを引きながら「義務に従って行為すること」を「非礼」だと断罪する。
それはまた、応える者が、同じくらいの軽率さか傲慢さとともに、自分は他者に対して、かつ他者の前で応えることができる、なぜならまず最初に自分に責任を持つことができるから、自分がすること、言うこと、もしくは書くことのできたことはそのすべてを受け合えるから、と想定していることにもよっている。
p.44
ひとは義務によって友好的であってはならない。義務によって礼儀正しいのでもいけない。ならば、ハッテン場において「義務なき義務」はどう現象されるのだろう。
ハッテン場──男と男のパッションの場。あらゆる関係が生成/発展する場。ゲイであったプラトンならば、そこも、『コーラ』と呼ぶだろう。
ヘーゲル
<他なるもの>をめぐる思考
熊野純彦 著 / 筑摩書房
他者の存在は、私の存在にひとしい。他者は、そのひとしさにおいて私と関係している。そうでなければ、他なる存在は他者ではない。他者の存在はしかし他方、私の存在とはことなっている。私とひとしく、それが私であるものは他者ではない。他者は、私との関係から逃れでて、溢れでてゆくものである。他者とはかくして、私と同等で、同時に私にとって異他的なあるものである。あるいは、私との差異そのものであるといってもよい。他者とは、かくてそれ自体として一箇の問題なのである。
p.158-159
<他なるもの>(他者性)を「思考する」という視点で貫かれたヘーゲルの読解。「私」にとって<他なるもの>を思考するとは、どういうことなのか。そして「私」にたいして<他なるもの>の存在とは、いったいなんなのか。では「私」においては……。そもそも「他者」とは、どういうふうに把握され、どういうふうに「私」に顕れるのか。その契機は。
他者は私にたいして現前する。他者はしかし、私からへだてられて現前している。他者は私からへだてられているばかりではない。他者とは隔たりそのものでもある。他者について考えるとは、隔たりであり差異であって、しかもなお「私」のうちに食いこんでくるものを、どのように思考すればよいのか、という問題それ自体であるといってもよい。
p.159
「他者」について徹底的に思考することは、ほとんど、思考の限界にまで思考の射程を設定しなければならない。限界の思考を思考しなければならない。
この「他者をめぐる問題」は、ほとんど、迷路に突入する、可能性がある。私/他者、同一性/非同一性、同/異、区別、差異……。
イエナ中期の形而上学は、A=Aという同一性の表示はむしろ「ことなり (Verschiedenheit)を表現している。つまりふたつのAを表現している」とかたっている。A=Aとは同一律の表示でもあるが、ヘーゲルがかたり出しているのは一見したところ、A=Aの左辺ならびに右辺にそれぞれAがあらわれる、というそれこそトートロジーにすぎないかに見える。だが、ヘーゲルはこの切りつめられた表現で、自己同一性をめぐるひどく重要なことがらを述べようとしているようにおもわれる。ひとことでいえば自己同一性とは、まさしく「同一性」と「非同一性」とがひとつであること、つまり同一性と非同一性との「同一性」として表現されるほかはないものなのだ。
p.131
ほとんど、パズルである。
こういった「言論」を駆使しながら、ダイナミックな思考実験が繰り広げられので、かなりの集中力を強いられるのだが、しかし、なんとなく見えてくるものが、ある。もともと弁証法というのは、「同一性のうちに差異を見いだしていく思考のかたち」なの、である、のだから。
最後の章「差異という始原について」において、著者は、廣松渉とヘーゲルを対比させつつ両者(の差異)を読みこんでいく。個人的に注目したいのは、そこで語られる以下のパズル的なテクストである。
同一性は同一性であり区別は区別であって、同は同であり異は異である、とする。同はしたがってみずからとひとしく、異もまたみずからとひとしい。そのかぎりでは同は同であり、異もまた同である(すなわちみずからにひとしい)。同が同であり異が異であるかぎり、他方、同と異はたがいにことなっている。そのかぎり、異は異であり、同はむしろ異である(つまり、異とひとしくなない)。同が同であり、かつ異でもあるかぎりでは「同一性とは、じぶん自身と同一であるような区別である」。異が異であるのはしかし、それが同ではないからだ。「区別」は「それが同一性ではなく絶対的な非同一性であるかぎりで、みずからと同一である」。異はつまり、「じぶんとはことなるものをいっさい含んでおらず」、ただじぶん自身とだけひとしいばあい、つまりそれがみずからと同等で、異をすこしも孕んでいないかぎりで、すなわち、異と絶対的にことなっているときに、それ自身まさしく絶対的な同一性であることになる。「同一性とはかくて、じぶん自身にそくして絶対的な非同一性である」。「同」のうちに、かくして「異」が侵食している。
p.259-260
この部分は、ヘーゲルの『論理学』とプラトンの『パルメニデス』をドッキングさせ、一見、まさにパズル的とも言える記述がなされている。しかしこの「部分」こそ、この本「全体」の中で、最も僕の関心を惹いたところにほかならない──僕の個人的関心(セクシュアリティの問題)と交差したところだ。
ここで俎上に挙がる問題は、「異」と「同」がそもそも同じ由来と資格をもつ、したがって同一的なカテゴリーなのか。それとも両者のあいだには論理的な先後関係が存在するのだろうか、ということだ。そしてこのことは、
ややおおげさに響くことをおそれずにいえば、こうした一連の問いをめぐって世界のとらえかたにかかわる基本的な次元があらそわれている。およそ同一性と差異のあいだ、「おなじ」であることと「ことなっている」こととのあいだで、どちらに先後関係をみとめるかによって、世界をとらえかえす基礎的な姿勢がわかれる。差異こそが<はじまり>であると考えるかぎり、「異」をなんらかのしかたで先だてることが可能でなければならない。
p.256
先後関係は、それをめぐる「闘争」である。先に自らを「定立」させたものによって、それによって「その世界観」が標準となる。そう僕には読める。
例えば、精神分析のように、「異性愛」を先に「定立」させ、そこで「同性愛」を説明する場合、絶対的に「異性愛の世界のとらえかた」でもって、「同性愛」を「とらえて」<いる>(そして複雑になってしまうのだが、確認しておきたいのは、「<同>性愛」の立場が「異/差異」を求める立場であり、「<異>性愛」の立場が「同/同一性」」の位置にいることだ)。
だから「こういった精神分析」に対抗するためには、同性愛を「このような世界の中で」、「承認」をめざすよりも、「同性愛」を先に「定立」させること、そこから、その「対抗言論」によって、遡及的に構築された「起源」を撹乱させることが必要なのではないだろうか。「オイディプス」が「母親」に「欲望」したのは、単なる「偶然」である、彼は「父親」に「欲望」する「可能性」もあったはずだ、その場合、「フィクション=精神分析」はどういうふうに「展開」するのか、というふうに。
しかしこういった「相手の側に立った」反論は、ときに非常に迂遠に思える。もっとヘーゲル的な「狡知」を想定できないだろうか。すなわち「他者の死をめざす」ようなハードなものを。
だから、もしかして、フーコー派ジュディス・バトラーとラカン派スラヴォイ・ジジェクのバトルは、両者が<同じ>マルクス主義を共有しながらも、「意識は他者の死をめざす。しかしじぶんを危険にさらすことで意識は、みずからの死にむかうことになる」という「レベル」で行われているのかもしれない。
今こそマルクスを読み返す
廣松渉 著 / 講談社現代新書
マルクス・エンゲルスは、思想の”生産”活動の主たる担い手、精神的”生産”や”流通”の手段を活用できる者、それが支配階級の成員であるという事情をも併せて考慮しております。が、思想的”生産”、精神的”生産”の従事者がどの階級の出身者・成員であるにもかかわりなく、或る社会体制における支配的現実であるそこでの物質的諸関係を追認する流儀で観念的に表現したもの、それが社会での支配的な思想に蓋然的になる、ということ、これが肝要な論点だと思います。「支配・被支配」の構造を有つ当該社会体制の物質的諸関係を追認〔精神的に、”反映”〕する観念形態・思想なのですから、それはまさに「支配階級の思想」になります。
p.53
なにより、著者独特のエクリチュールが素敵だ。折り目正しい「です・ます調」でありながら、曖昧さを許さぬ断言と、やたらと凝った漢語の頻出が、この人オリジナルな文体を創出し、読めば読むほど何とも謂えぬ薫りを帯びてくる。漢──の文体とでも言うべきか。実にハードボイルドなのだ。『ドイツ・イデオロギー』を「ド・イデ」と略すところにも著者の飾らぬ姿勢が窺える。なんだか思想的な桎梏をも超克して、三島由紀夫にも通じる「テクストの快楽」を享受できる。
エクリチュール云々はさておき、この本のテーマである「マルクスの読み」は、いろいろと参考になる。この本の出版は1990年。丁度、「実際のマルクス主義国家」が次々と崩壊し、また日本ではバブル経済破綻の直前にあたり、消費ブームに国中が酔い痴れていた頃。そういった社会状況を鑑み、しかし一心にテクスト・クリティークしていくマルクスの思想。
マルクス主義者にとって、当時の社会状況は、亥かにも不利であったことは想像に難くない。しかしだからこそ、そこで冷徹に思惟されたことは、現在、とても示唆的に思える。
人間の意識というものは、マルクス・エンゲルスの指摘を俟つまでもなく、とにかく現にある事実を追認してしまい、その現実を追認的に合理化・正当化する傾向があります。どういう認識論的機制によってそうなるのかは知りませんが、とにもかくにも、人間の意識が眼前の現実を追認しがちであること、そして、現状とは別の情景を思い描く場合でも、人間の想像力は貧弱で、現状をほんのわずかに変様して表象するぐらいであること、これを否めません。創造力に富んだ想像などといっても、”要素的成分”はだいたいにおいて現実に見出されるもので、それの組み合わせかたが現実と隔たっているといった域に留まるのが普通です。
p.51-52
僕はマルクス主義それ自体には──特にマルクス経済学には──それほど共感を得るところはないのだが、資本主義社会における「マイノリティの思想」としてのマルクス主義、主流思想に対する「対抗言論」としてのマルクスの思考には興味を覚える(だから、ソ連体制において、当局により「ブルジョワ的」だと指弾された芸術や文学、思想にも同様の関心がある)
拠って、この本では思いのほか「経済学」としてのマルクスの思想が紹介されているが、僕が関心を抱くのは「階級」そのものについての考察である。もちろん、それは、同性愛者を「セカンド・クラス」として見なす、今現在、敢然に厳然に事実として存在する「階級制度」に自分が直面しているからである。
アメリカのゲイ・アクティヴィズムでは、同性愛者が市民としての基本的な権利である「結婚制度」から除外されていることに、「クラス(階級)」という側面から問題がクローズアップされることがある。原則として平等であるはずの国民の内に、結婚できる国民とできない国民とに二分されている状況──それが階級なのではないかと。
翻って、日本では、別の形態として、より隠微に「階級」を感じさせる場面に出くわす。それは「やおい」についてだ。「やおい」は異性愛者による同性愛の「搾取」を前提としたポルノグラフィーである。そこには「レイプされてハッピーエンド」という<イデオロギー>さえ構築されている。
しかし今回僕が問題にしたいのは「やおい」という「呼称」についてである。
なぜ「やまなし、おちなし、意味なし」というネガティブな言葉による連続体が、「同性愛のポルノ」を指す「通称」になってしまったのか。他の同性愛を扱っていない同人誌だって、もともとは自己満足の世界からスタートした「やまなし、おちなし、意味なし」の部類であったはずだ。にもかかわらず、なぜ、「同性愛」を扱った<モノ>だけが、ネガティブな言葉の連鎖である「やおい」と平然と呼ばれ、平然と流通し、平然と反復されるのか。そこには「同性愛者」を「二級市民」と見なす差別意識/階級意識がないとは絶対に思えない。
問題なのは、その「階級意識」が、被支配者である同性愛者自身の内面を規定するに至ることだ。「やおい」という言葉の発話は、即自的にも対自的にも、同性愛を「やまなし、おちなし、意味なし」と「換算」し、且つ、それを「凝固」させる行為である。それこそ同性愛者の「人格を否定する動き」に他ならない。
社会的意識諸形態が体制的枠組み内に通常は納まってしまうのは、マルクス・エンゲルスの「意識」観からすれば、蓋然的です。前節で引用した『ドイツ・イデオロギー』の一文と”公式”とを併せて再掲しましょう。
「意識とは意識された存在のなにものでもありえない。そして、人間の存在とは彼らの現実的生活過程の謂いである」。
「人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、逆に、彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである」。
p.51
マルクス以後のマルクス主義
ピエール・ファーヴル、モニク・ファーブル 著 / 竹内良知訳、白水社文庫クセジュ
(ルフェーブルによると)ブルジョワジーはプロレタリアートの階級意識をかき消し、プロレタリアートがもはや自分は疎外されていないと信じこむことができるような仕方で、彼らを疎外させるのに忙しい。現代性とは、この「一般化された」疎外に達するように、指導階級によって操作されたイデオロギー的手段の総体を表示しているのである。(中略)現代性は、被搾取階級にのしかかる強制、日常性の水準で体験されているが、それと見きわめられてはいない強制をおおいかくす。日常性は「すべての水準、すべての瞬間、すべての面で発揮される圧迫と抑圧」とからできている。
p.164-165
題名のとおり、エンゲルスからアルチュセールまで、マルクス以後のマルクス主義の多様な展開をざっと確認できる。原著は1970年出版。ソ連は健在で、実践的進歩思想としての有効性もまだまだOKだった頃。個性豊かなマルクス主義者の登場はまさに百花繚乱の趣きだ。
個人的に関心を持ったのは、ベルンシュタインら「修正主義」と呼ばれた人たち。正統派マルクス主義者たちにより「異端者」呼ばわりされた彼らだが、しかし、その思想内容及びその戦略は、なかなか興味深い──もっとも、この正統派/異端者という「区別」こそが、僕には、そもそもマルクス主義という「カテゴリー」とはいったい何なのか、という素朴な疑問を呼び起すのだが……。
敵対思想よりも異端思想のほうが、より激しく非難されるというのは、やはりそこには、正統(と遡及的に構築された「自然状況」)を撹乱し破壊しかねないある種のラディカリズムが潜んでいるからだろうと思う。
他にはグラムシ、マルクーゼ、ルフェーブルあたりの思想が個人的な問題について「使え」そうだ。例えばマルクーゼ。
指導階級は、浪費を組織して、人為的な欲求を植えつけるのである。しかし、彼らは、心理的疎外の強化という遠回しの方法で経済的疎外を痛みのないものにすることによってしか、この圧制を永続的なものにすることができない。指導階級は、超抑圧によって、権力を維持することができるようになるので、その目的のために、彼らは技術、言語学、社会学等のすべての手段を動員するのである。人々は、自分たちの被る未曾有の隷属にもかかわらず、幸福だと信じ込む。文明が、「不幸のなかでの幸福感」を彼らに得させるのである。現代社会は一次元的人間を生みだした。その成果はいっさいの階級意識の消滅であり、したがって、あらゆる革命反対派の不在である。
p.160-161
そう。あるライターが軽々しく、バカにした口調で、「日本はやおい天国だから、(ゲイである作家)は日本に亡命すればいい」とほざいたように、「やおい」は日本における同性愛者の隷属状態を不可視・化する。そして、ヘテロセクシズムというイデオロギーによって──そのイデオロギーに従って同性愛を「規定」することによって──同性愛者を二重に疎外する。
しかもそのヘテロセクシズムは「レイプされてハッピーエンド」という手前勝手なイデオロギーを「同性愛関係」に捺しつける。
いったい「ハッピーエンド」というのは、レイピスト側の「癒し」が成就されるからなのか、それともレイプされる側の「レイプ願望」が成就されるからなのか。なぜ、一般のポルノにおける「レイプ」は問題となるのに、どうして「やおい」におけるレイプは看過されるのか。
いったいなぜ、ゲイ男性を「被害者」であり「加害者」であるという二重に拘束する立場に置いて、それを高みから「享受」する<主体>は、問題にならないのだろうか?
日本に、それとなく蔓延している「同性愛に寛容な国」という無根拠なイメージは、いったい、どこからくるのか。それはそんなヘテロセクシズムに塗れた「やおい」というポルノの存在によって判断されるものなのか。
冗談ではない。
グラムシは、すべての人が、身近な感情によって感動させられ、国民的な問題によって関心を呼びおこされて、相互に認知しあうような文学の生産と用途とを示唆している。プロレタリアートはこの「不断の説得」に反抗する集団は独裁によって、すなわち行政的および司法的抑圧によって規律を守らされるであろう。しかしプロレタリア民主主義は、時とともに、すべての被治者を能動的な合意に、決定の中枢への各人の参加に向かわせるだろう。
p.149