ウィトゲンシュタイン入門

永井均 著 / ちくま新書



言語ゲームはあるがままに受け入れるしかない与件である。それには根拠がなく、それがすべての根拠である。「私が根拠づけをし尽くしたならば、私は固い岩盤に達し、私の鋤は跳ね返される。このとき私はこう言いたくなる。『とにかく私はこうやっている』と」。ここで「とにかく」と訳した「エーベン(eben)」は、「何をともあれ」「理屈ぬきに」といったニュアンスで、変更できない既定の事実を確認する際に使われる語であり、もっと概念的に訳すなら文字どおり「根拠なしに」という意味である。
この「エーベン」が発せられるとき、根拠への問いは終わるのである。「われわれの誤りは、事実を<根源的現象>と見るべきところで、つまりこのような言語ゲームが行われていると言うべきところで、説明を探し求めることである」。

p.155
傑作。粒揃いの「ちくま新書」の中でも、この『ウィトゲンシュタイン入門』は、僕にとって「ベスト・オブ・ちくま新書」だ。ウィトゲンシュタインの思想をわかりやすく概説してくれるだけでなく、「哲学すること」の素晴らしさを十二分に実感させてくれる。大袈裟で独断的な言い方になるが、この本を読む前と読んだ後では、確実に自分が変ったと、確実に言い切れる。それはほとんど「感動」に近いものだ。
それゆえ、他者とは、自分とは別の意味付与を行う別の主体のことではなく、この世界とは別の限界を持った別の世界のことでなければならない。なぜなら、限界が異なる世界は別の世界だからである。自我と形式の、主体と意味の、この分裂と逆接の感覚こそが、ウィトゲンシュタイン哲学の──前期後期を通じて変らぬ──強烈な現代性である。

p.82
とくに共感したのは──そう「共感」なのだ──「規則に従う──規則と実践」の説明部分。ウィトゲンシュタインは『哲学探求』の中で規則(ルール)と実践(プレイ)の優先順位を逆転させるのだが、このとき提示される「数列を教える/教わる」ことの例は、まさに「自分の経験」を思い出させる。

生徒は(あるいは「私」は)、先生の命令通りに/みんなと同じように──と思いながら、ごく自然に、自分の理解している数列を数える。しかしその(数列の)「規則」は、その生徒の「実践」とは違っていた。先生は生徒に「それは間違いである」と指摘する。他の生徒(共同体)も先生を支持している。当該生徒=「私」は孤立無援に陥る。
私以外のすべての人が、「+2」という命令をごく自然に「100までは2を、200までは4を、300までは6を、というように足していけ」と(私なら表現するような仕方で)理解するらしいのだ。共同体は私にとって突如として異様なものとして現れる。

p.158-159
では、「私以外のすべての人」が性的対象は「異性」とする「規則」に従っている「らしい」状況で、「私だけ」がその「規則」に異議を唱えることができるだろうか──「先生」に指摘されるまで、すでにして、<ごく自然に>、性的対象は「同性」であるという「ゲーム」で「プレイ」していた「その私」は。

そもそも異性愛者は、「異性愛という規則」に従っているから「異性愛者」なのだろうか。「異性愛という実践」があってこそ(異性に関心を抱いて初めて)、自分が異性愛者であることを知るのではないか。いや、実際問題として、「異性に関心を抱くことに関して」異性愛者は、そのことになんら「根拠づけ」をする必要を感じないだろう。「根拠づけ」を要求されるのは同性愛者だ。同性愛者は「同性愛という実践」よりも前に「異性愛という規則」に従わされる。あるいは同性愛者の「実践」は異性愛者の「規則」に従っていないということによって非難される。しかし、
問題の本質は、文法であれ何であれ、およそ一定の規則に従うこと、正確に言えば、ある一定の規則にある一定の仕方で従うことがどうしてできるのか、という点にある。規則は一定の仕方で従わなければ意味がないが、その一定の仕方を決める規則はどこにあり、それはいつどこで決定されたのか。そして、もしかりにその一定の仕方を決める更なる規則がどこかにあったとすれば、今度はその規則に一定の仕方で従うことはどうしてできるのか。その一定の仕方を決める規則はどこにあり、……。

p.133
言語ゲームは、明示的な規則によって成り立っているのではなく、盲目的に「遂行」される慣習によってできている。そしてそこから「語の意味とは言語ゲームにおけるその使用である」という見解が導かれる。こういった「実践」と「規則」をめぐる議論は、ジュディス・バトラーのパフォーマティヴィティの理論を彷彿させるところがある。つまりウィトゲンシュタインの思想も、ゲイ・スタディーズの理論として十分に使えるというわけだ。
いや、それどころか「ヘテロ・スタディーズ」としても、ウィトゲンシュタインの思想は、使えるはずだ。それは、同性愛者も、実は、同性愛の「規則」に<盲目的に>従っている以上、その内側からは異性愛について「語ることはできない」し、一方、異性愛者も異性愛の「規則」に<盲目的に>従っている以上、同性愛について「語ることはできない」からだ。人は、相貌の転換(同性愛⇔異性愛)を経験しなければ、そもそも、自分が一つの相貌を知覚していることすら意識できない。人が「対他セクシュアリティ」について「語っている」ことは、実は、「対自セクシュアリティ」について「語っている」ことに他ならない。
わかったか、バカ・セクハラ・フロイト!
それゆえムーアは、世界は自分とともに生まれたと信じる王様がいたとすれば、彼にその誤りを証明して見せることはできない。ムーアが王様を自分の世界像へ転向させることができたとしても、根拠の提示による説得によってではない。それは王様にとって世界全体の相貌が一変する経験である。王様はそのとき、比喩ではなしに、生きていることの意味そのものを変えることになるだろう。それは一つの盲目から別の盲目への移行だから、以前の盲目は新たな盲目の正しさを見ることはできず、逆に新しい盲目は以前の盲目の誤りを見ることはできない。

p.203




ヤスパース

宇都宮芳明 著 / 清水書院



ナチズムは非科学的な人種理論によって人間性を踏みにじった。「科学性と人間性とは互いに相手を求める。……科学性と人間性とはわかちがたく結びついている。科学がなおざりにされると、幻想と迷妄が信条となり、それによって迷える者は神のかわりにむしろ狂熱に結びつけられる。非科学性は非人間性の地盤である。」

p.83
清水書院のロングセラー「Century Books」シリーズの一冊。今は何巻まで出ているのだろう。哲学者から文学者、著名な政治家まで揃えており、学生の頃世話になった人も多いと思う。
この本でも概説書に相応しく、カール・ヤスパースについて、その生涯、その思想がコンパクトに、しかし一定のレベルを保ちながら紹介される。いろいろと参考になり、とても読み応えがあった。ヤスパースの提唱した概念、「実存照明」や「包括者」なども興味深く説明されている。

中でも注目したいのは、ヤスパースが超越者=神への信仰を重要視したこと。しかし「信仰」と言っても、特定の宗教的な立場とは無縁だ。それどころかヤスパースは、既存の、権威主義的な、「特定の世界観」を絶対視する「宗教」を激越に批判している。
……自分の根源から生きる哲学は、科学とは和解することができ、芸術は愛することができるが、しかし宗教とは戦わなければならない。哲学は科学や芸術とも対立緊張の関係にあるが、だがこの対立緊張は宗教に対するときに絶対的なものになる。哲学者と科学者、哲学者と芸術家は、ある面では協調することができる。だがヤスパースにいわせると、「本来的な信者は神学者となることはできるが、しかし自己に背くことなしには哲学者となることはできず、また哲学者は哲学者である限り自己に背くことなしには信者となることはできない」のである。

p.118
しかし、それでも、ヤスパースは「信仰」を重視する。それは特定の宗教やその教義に基づく「信仰」ではなくて、人間への信仰、自由の可能性への信仰、自由に基づく人間のもろもろの可能性への信仰である。彼は「哲学的信仰」に賭けるのだ。
哲学的な生き方は、特定の宗教を絶対視したり、特定の科学的知識を絶対視したりしないで、人間の心を常にあらゆる可能性にむかって開放し、しかもその中でたえず真理を求めていくといった、そうした生き方である。そしてそれが、人間が理性的に生きるということなのである。信仰をもって生きることと、理性的に生きるということは、決して矛盾し対立する事柄ではない。だがまた、それが口でいうほど簡単な生き方でもないことも確かである。

p.180-181
どうやらこの「特定の世界観」への盲従というのが、ヤスパースがもっとも忌避していることのようだ。それは「特定の世界観」によって支配されたファシズムの時代を生きた思想家だからだろうか。彼の言う「実存」も「自分自身が本来なんであるかを想起させ、覚醒させる」ことであると強調している。「世界観」(対象)の「認識」ではなく、「可能的な実存」から哲学することが、真理を信仰し、真理に賭けた生き方を貫くことになる。

もっとも、サルトルもそうであるが、かつて「時代の良心」を代弁したカール・ヤスパースは、最近はあまり言及されることはない。まあ「実存主義・実存哲学」というのが、ポストモダン的軽快さと比べると、ほとんど「スポ根マンガ」並の暗さ、重さ──もっと言えば野暮ったさ──を持ったものと見えるのも仕方がない。ハイデガーのようなトリックスター的なキャラでもないし。

しかし僕にとってヤスパースはやはり重要な存在だ。それは彼が『同性愛に罪はあるか』という同性愛擁護の文章を書いているからだ。そしてこれが、今読んでもまったく古びていない、科学的=ヒューマニズム的観点から述べたものなのだ。その文章でヤスパースはまず「法」の普遍妥当性を問う。
(立法者が)世界観だけに頼って法を制定しようとするならば、結局自分以外の世界観を罪悪と見なさざるをえない。思想の恐怖政治の誕生と言えよう。加えて法も、世界観と同じことで、初めは新しくてもたちまちにして時代遅れになるのだから、極めて不安的なものだと言わなくてはなるまい。特定の世界観というものは広く行き渡ることはあっても、決して普遍妥当性を獲得できないものだから、それを基にして制定された法律が普遍的有効性を要求しても、それが手に入る道理がない。

「同性愛に罪はあるか」p.127 井上修一訳、澁澤龍彦編『エロティシズム』(河出文庫)所収
そして「科学的」に「事実として<現に存在>する」同性愛をとらえ、
同性愛をその事実だけで罰するようなやり方は、天与の資質に対して当人に責任をとらせて有罪にすることになりかねない。表面的なことや世界観にこだわる考え方にとらわれずに、以上の法の原理を批判的に考えるならば、法とは言いながらも少数派から見れば合法化された犯罪で不当な運命にもなっているひとつの条項に、いかに多くの不当、世界観の傲慢、科学に関する無知が存在しているかに驚かされるであろう。

「同性愛に罪はあるか」p.131
ここで展開されるヤスパースの思考は、彼のナチスへの激しい批判と同じだ。ナチスは自分たちの「特定の世界観」によって法を制定し、非科学的な「人種理論」を動員して、ユダヤ人を「合法的」に「処理」した(ヤスパースの夫人はユダヤ人だった)。つまり「ユダヤ人」という「天与の資質」そのものをナチスは断罪の根拠とした。「ナチスの世界観」は、「ユダヤ人としての資質」を、「劣等」「病理」「寄生的」と見なしたからだ。

こういったヤスパースの議論を読んで、僕は「精神分析」にもナチズムと同じ「傲慢な世界観」というものを感じる。精神分析は、その非科学的な「倒錯理論」を動員して、同性愛者の「天与の資質」を「倒錯」であると指弾する。そして同性愛に関して愚劣な言説=フィクションを垂れ流している。これこそ、自分たち(異性愛)の「特定の世界観」とは異なる「実存」を排撃する「恐怖政治」以外の何者でもない。これこそファシズムだ。そもそも精神分析は、それ自身の普遍妥当性をどうやって獲得しているのか。だいたいエディプス・コンプレックスは「科学」なのか?

問題は、識者と呼ばれる人たちが、ナチズムに対しては(あるいは日本の戦前の体制については)、その「思想・世界観」も含めて、批判的な態度──つまりヒューマニズムな態度──を取るくせに、精神分析に対しては何の留保も取っていないこと。それこどころか、人権問題や性差別問題などのデリケートな場面で、精神分析の知見=差別知が披露されという「倒錯」。ファシズムも精神分析も「特定の世界観」に則った傲慢さを発揮しているというのにだ。 
「人」に対して、「劣等」や「倒錯」という「言葉」を投げかけること、それは決して「ヒューマニズム」とは合い入れないはずだ。



文化=政治

毛利嘉孝 著 / 月曜社



おおっと、早くも今年のベスト級の本。これは面白かった。「いまどきの政治運動なるもの」を考察したものだが、しかしここには、鬱陶しい思想用語を散りばめて「ボク、分析する人、キミたち、分析される人」なんていう「傲慢な態度」は微塵も感じられない。
何よりその「目線」。「共感」に溢れた、とても気持ちのよい「考察」になっている。本の体裁もソフトカヴァーで、通勤電車の中が主な読書スペースになっている「リーマン」にとってケータイしやすいものだ。
あとがきで著者が示唆しているように、この本を「マニュアル」として思いっきり「活用」したい。

で、「いまどきの政治運動」として紹介されるのが、反グローバリゼーション、反戦運動、リクレイム・ザ・ストリート運動、クリティカル・マス、ACT UP!、サパティスタ運動など。とくにゲイ・レズビアン運動と関係がある「ACT UP!」については、日本語で読める貴重な資料になっている。またイギリス発祥の「リクレイム・ザ・ストリート(RTS)」は、そういえばルース・レンデルの『聖なる森』(ROAD RAGE、1997)で扱われてたのを思い出して、さすがは「社会派」レンデルだと思った。

もっとも「社会/政治運動」と聞くと、なんだか旧来の左翼的な、時代がかったイメージ──例えば全共闘運動のような──を思い浮かべるかもしれない。が、さにあらず。「いまどきの政治運動」は、そういった旧弊な左翼的方法を批判的に捉えている。
ダンコムによれば、RTSの主要な参加者となったのは、旧来の左翼運動のもつヒエラルキー構造にあきあきしていた人びとだった。旧来の左翼運動は、中心的な指導者が存在し、指導者がデモや集会を組織し、指導者が話をし、参加者がその話を聞くという形式が主流だった。しかしその指導者の話とやらも、たいがいは、すでにどこかで語られたことばかりだった。それは何か積極的に作り出すというよりは、常に何かに対して「反対」をするばかりで、否定的で、悲観的で、消極的なものでしかなかったのである。そこには、何かを新しく作り出していくような、わくわくする魅力を決定的に欠いていたのだ。若い世代はそうした古い左翼文化にうんざりしていた。RTSのDiY文化は、そうしたこれまでの左翼スタイルを批判したのだった。カーニバルという手法も、指導者と指導される大衆という固定的なヒエラルキーを反転させ、享楽と解放を同時にもたらすために導入されたのだった。

p.102-103
そう、これこれ。「享楽」と「解放/開放感」。これらが「いまどきの社会運動」に必要なものであり、それがあってこそ「政治運動」と「新しい文化」がイコールで繋がれる。この本で紹介される「政治運動」は「享楽」を否定しない。ストリート・パーティ、カーニバル、パフォーマンス、サウンドデモが、そしてインターネットが重要な武器=快楽として欠かせないものとなっている。政治=文化は「クール」なものなのだ。だからこそ、「新しい文化=政治運動」は、旧来の左翼文化人や既存のメディアからも叩かれたりもする。無秩序だと。しかしそれこそが、固定的な二項対立を撹乱し、固定的なヒエラルキーを反転させる原動力なのだ。
先に述べたように、哀悼の対象となっているのは、ゲイ・レズビアンの運動が持っていたリバタリアン的な伝統である快楽主義的な側面、そして「死の欲動」をも含みこむような徹底した反道徳主義である。しかし、これは「普通」と「逸脱」との不均衡な関係をそのままにして「逸脱」を「逸脱」のまま寛容せよ、と主張しているのではない。クリンプが、パゾリーニを引用して言うように「寛容は比較的洗練された非難の一形式にすぎない」のだから、したがって、問題はこれまで「逸脱」と呼ばれてきたものを「普通」の中に新しく取りこむことを懇願することでさえない。はるか昔にニーチェが『善悪の彼岸』の中で試みたように、「普通」と「逸脱」の二項対立的な思考法を脱し、この関係の生成の過程そのものを変える必要があるのだ。

p.80-81
この部分、特にパゾリーニのセリフ「寛容は比較的洗練された非難の一形式にすぎない」は、非常に意味深い問題を含んでいると思う。

例えば、ある人(異性愛者)が「自分は同性愛に寛容である」と発話したとき、僕はそれをそのままコンスタティヴなものとして受け取ることができない。それは僕(同性愛者)が、「自分は異性愛に寛容である」ということを、通常の文脈でそのままの意味としては決して言えない(異性愛が「寛容でない」社会なんてありえない、よって意味をなさない)以上、その非対称性のゆえに、「自分は同性愛に寛容である」という発話は何らかの「パフォーマティヴィティ」が発揮されたものであると考えられるからだ。

つまり、「自分は同性愛に寛容である」という発話は、「同性愛に寛容でない現実」を、発せられた人物=同性愛者に「思い知らしめる」という効果を生むものであり、それと同時に、発話者は自分が「規範」の立場を代弁していること──自分が「優越」していることを、被発話者に「確認」させることになる。
そこから、したがって、「自分は同性愛に寛容である」という発話は、同性愛者にとっては、「(だから)私に感謝しなさい」という「命令」とほとんど同義なものとなってしまう。ここには、平等=対等ではなく、敢然としたヒエラルキーが横たわっている。
同性愛に関して、旧来の左翼的言説が僕に違和感を感じさせるのは、こういったヒエラルキーを前提とした「発話」にある。

「ACT UP!」の運動から学ぶことは、「普通」と「逸脱」との不均衡な関係をそのままにして「逸脱」を「逸脱」のまま寛容せよ、と主張するのではない。「普通」と「逸脱」の二項対立的な思考法から脱することだ。だからこそ「寛容は比較的洗練された非難の一形式にすぎない」というパゾリーニの「主張=異議申立て」は、彼の作品に見ればわかるように、優れてパフォーマティヴなものなのだ。



クィア理論をとおして考える

イヴ・K・セジウィック 著 / 竹村和子+大橋洋一訳、現代思想vol28-14



またこれはもはや皆言っていることですが、クィア理論はおもに大学に限定され、思弁的で非現実なユートピア的思考であるのに対し、非理論的な主流(ゲイ/レズビアン)運動は、現実政治の観点から現実的なことを実現する唯一の方法を代表しています。

p.41
『クローゼットの認識論』の著者イヴ・コゾフスキー・セジウィックによる御茶ノ水女子大学での公開講演。さほど長くない文章であるが、彼女の理論のエッセンスを十二分に──講演という平易な語り口で──知ることができる。とくにセジウィックの重要な概念である「ホモソーシャルな欲望」と「ホモフォビア(同性愛嫌悪)」の理解には、最良の入門テクストだろう。また、クィア理論を通して「主流のレズビアン/ゲイ・ムーヴメント」を批判している点も見逃せない。必読である。

いちおう「ホモソーシャル」について確認しておこう。ホモソーシャルとは、「同性の人間のあいだの社会的な絆」であるが、それが問題となるのは、とくに「男たちの絆」において、強烈な同性愛嫌悪(ホモフォビア)に特徴づけられていることだ。
さらにセジウィックは、「同性愛嫌悪=強制的異性愛」は、男が支配する親族関係=家父長制的な制度の必然の帰結であると断言、ゲイル・ルービンを引いて、「人間のセクシュアリティのうちに同性愛的な部分を抑圧すること、そしてそのことから当然に、同性愛者を抑圧することは……女を抑圧する制度的な規則や関係性が生み出す所産なのです」
このように家父長制による同性愛者抑圧の歴史的な現れは、どれも容赦のないもので、その数を挙げればきりがないほどです。ルイス・クロプトンは、その歴史を集団虐殺と述べて、詳細な証拠を挙げています。アメリカ社会は、野蛮なまでに同性愛嫌悪的です。男にも女にも向けられる同性愛嫌悪は、偶発的なものでも、根拠のないものでもありません。それは家族やジェンダーや年齢や階級や人種に関する人間関係のなかに、きっちりと織り込まれているのです。

p.34-35
繰り返し書いておく。「(男の)ホモソーシャル」とは、同性愛嫌悪と女性抑圧が連続していること、そのことが何より<問題>なのである。

しかしながら、「ホモソーシャル」と「ホモセクシュアル」は、ときに混同される。その「混同」の問題点──その「混同」こそが「同性愛嫌悪」を導くものである──をセジウィックはこの講演で、明快に述べている。
だからといって、家父長制権力は、そもそものはじまりから必然的に同性愛的(つまりホモソーシャルとはちがうということ)であるとか、男の同性愛的欲望は女性嫌悪と第一義あるいは必然的な関係をもつといったことを、わたしは前提としなかったし論じたりはしなかったということです。そのような議論は、どちらも、同性愛嫌悪的でしょうし、わたしが思うに、不正確なものです。そうではなくてわたしが論じようと思ったのは、男が男に差し向ける同性愛嫌悪は女性嫌悪的なものであり、おそらく歴史を超越して女性嫌悪的であるということでした。

p.36
この「ホモソーシャル」と「ホモセクシュアル」の<混同の問題>は非常に重要である。まさにセジウィックの言うとおり、その<混同>こそが、同性愛嫌悪(ホモフォビア)そのものなのだ。

例えば、男性同性愛者は「女嫌いだから、同性愛に<はしる>」と言われることがある。この文言がまったくのデタラメである──同性愛嫌悪に満ちている──ことは、ちょっと考えれば明らかだ。
それはこう考えればよいだろう。

だったら異性愛女性は「女嫌いだから、異性愛に<はしる>」のか? と。

同じことはレズビアンにも言える。彼女たちは「男嫌いが講じて、同性愛に<はしる>」と言われることがある。だったら、ヘテロ男性は「男嫌いが講じて、異性愛に<はしる>」のか?
性的指向とは、そんなものなのか? 「○○が嫌い<だから>××とセックスをする/セックスができる」のか? 

( だいたい<はしる>という「言葉」自体が同性愛嫌悪的だ。「異性愛に<はしる>」とは、まず言わない。<はしる>が使用されるのは「同性愛の行為」についてのみだ)

「女嫌い(ミソジニー)」と性的指向はまったく無関係である。にもかかわらず、ゲイ男性を女嫌い呼ばわりするのは、何としてでも同性愛にネガティヴなイメージを植え付けようとする、まさにホモ・フォビアな<権力>に他ならない。

「○○が嫌い<だから>××とセックスをする」というフレーズは、少し考えれば、妙であることがわかる。しかし「××とセックスをするのは○○が嫌い<だから>だ」と言い換えられた場合、人は不思議と容易く「引っ掛かって/騙されて/追認」しまう。それこそが「精神分析」という<権力>のやり方だ。
けれども、この発見(シュレーバー博士に関するフロイトの研究)を精神分析がどう利用したかというと、それをもってして同性愛嫌悪の不毛をつくとか、同性愛嫌悪から生まれる狂気的な力を削ぐということではなく、同性愛そのものを──つまりは同性愛者を──攻撃したのです。「同性愛」と精神障害とはつながっているという理由から。同じような混乱は「同性愛」とファシズムとの関係をめぐる議論にもとりついています。「同性愛」というものが、制度として歴史的に構築されたという性質をもつことが認識されるにつれ、同性愛とそれ以外のものとの区別を、もっと正確で偏見に左右されない理論的コンテクストのなかで把握することができるはずなのです。

p.36




「格付け」市場を読む

岩崎博充 著 / 光文社新書



マルクスも含めた「ドイツの理想主義」にかかづっている暇があるなら、「アメリカの現実主義」にも目を向けろ、と僕の<意識>が目覚めたわけではないが、今が旬のビジネス/経済関係の本には、ときに、なかなか刺激的な「概念」に遭遇できる。

この本は「格付け会社」について紹介している。有名なムーディーズやS&P、フィッチといった外資系、日本のJCRやR&Iといった会社のプロフィール、格付けの内容/方法、さらにそういった格付け機関の功罪について幅広い視点から、しかしコンパクトにまとまっている。これ一冊で、とりあえず、「格付け」に関する話題には付いていけるだろう。経済ニュースにも強くなれる。格付け会社をめぐる様々なエピソード──特に日本のソブリン(国債)格付けを低く見積もった外資系会社とそれに反発した財務省とのエピソードなんかも面白い。

興味深いのは、ソブリンや金融機関の格付けだけでなく、大学や病院、さらにアメリカのケースではメディア・放送、映画、「著作権」といったモノにまで「格付け」が拡大しているということだ。つまり何にでも「証券化」ができ、それによって「リスク」が生じれば、たちまち「格付け」が行われるということだ。

もっともこの「格付け」は、あくまでも財務状況における格付けなので、例えば大学や病院の「格付け」は、その高低がそれらの「総合レベル」を直接に判断したものではない。
アジア通過危機の引き金になったとされる格付け会社であるが、そういった問題を提起した上で、しかし著者は、格付け会社を重要な「社会的インフラ」のひとつと見ている。要は使い方次第。あらゆる「判断」は感性的である「所与」をひとつの「理念」のもとに包みこむのだから。
さて、格付けで忘れてはならないのは、それを活用する側の姿勢だ。自己責任の時代になったいま、格付けをうまく利用することは重要なポイントになってくる。一般企業への格付けは、債権投資はむろんのこと株式投資や就職の目安にもなるし、銀行や保険会社への格付けは、預金や保険加入の目安にもなる。利用の仕方によっては、大学格付けは、進学の際の目安にできるし、病院格付けは入院や治療の際の目安にもできる。あくまでも格付けは単なる民間会社の意見だ、ということを忘れなければ、我々がそれをどう活用しようが自由である。

p.231




カント『純粋理性批判』入門

黒崎政男 著 / 講談社選書メチエ



「悟性」が"understanding"、「理性」が"reason"、「物」が"thing"、「それ自体で」が"itself"、「形相」が"form"、「質料」が"matter"、「構想力」が"imagination"。また「悟性」と「知性」は、ほぼ同意味で、ラテン語"intellectus"から派生した言葉──つまり「インテリ」だ。そしてその差は、思想史的歴史の中で最高認識が「理性」よりも「インテリ」が上位であった場合に「知性」と呼ばれ、「インテリ」が「理性」に負けたとき(「インテリ」が「理性」の下位になった場合」)に「悟性」となる。

なーるほど。「英語」で示されると「理解力」の差が歴然だ。どうしてこれまでの入門書は、こういったプレゼンをしてくれなかったんだろう。「悟性とはドイツ語で何々で、何々のことで何々です」なんてくどくど説明するよりも、「英語で understanding のことです」と言えば、「感性的」に、一目瞭然。「古い日本語」は解り難いし、またドイツ哲学やフランス思想だからといって、「カタカナ独逸語/仏蘭西語」の乱立は鬱陶しいだけ(トルストイ『戦争と平和』の書き出しのカタカナ仏蘭西語は邪魔だと思ったことない?)。
どーせ多くの日本人には、ギリシャ語やラテン語の「素養」なんてないんだし、こっちだって別に原語で「対象」に挑もうなんていう大それたことを思ってないんだから、英語で十分だ。というより英語で説明してくれたほうが「親切」だ。
ニッポン人なら英語だろ?

この本は、そんなふうに、ところどころで「英語」が示されていて、とても「親切」。わかりやすい。読みながら、カントって、一見「クール」だけど、実はとっても「ホット」で「ラディカル」なところがあって、実に新鮮な感じがした。
カントは『純粋理性批判』において、常に、<神>的認識との対比において、人間による<有限的>認識を問題にしてきた。
この場合、カントは<人間>的認識の真理性の保証を神に求めることはしなかった。最終的な根拠だけは神に頼ろうとする「機械仕掛けの神」をカントはもっとも不合理なものとしてしりぞけた。神的知性によってではなく、人間の知性(悟性)によって成立する現象に、認識の対象を限定することによって、人間的認識の客観性を保証することになった。
この場合、我々の認識の真理性を保証するのはもはや神ではなく、我々自身なのである。

p.177
また著者は『純粋理性批判』の第一版をカントの思想的ピークとみなし、『純粋理性批判』第ニ版から『オプス・ポストゥムム』へと至る道は「衰退」であるという立場を取っている。それは「悟性の自発性」と「感性の受容性」という『純粋理性批判』第一版に見られた「ダイナミックさ」が失われていき、悟性の優位、すなわち世界をア・プリオリに汲み尽くそうとする「スタティックな」態度が強くなってくるからだという。この「カント思想の豊かさが失われていく」という著者の見解は、なかなか魅力的だ。
ちょうど一世紀ののち、ニーチェは、『権力への意志』のうちで、次ぎのように言っている。


ニーチェによれば、生物としての人間が安定した生を営むためには、世界は生成変化しているものであってはならず、固定的で堅固なものとして表象されなければならない。しかし、このように表象するのは、生にとって有益であるからであって、そのものが「真理」だからではない。
ニーチェの表現は多分に生物学主義的であるけれども、カントがかいま見、そしてそこから退避しなければならなかった<新たな>真理の本質を明確に表現しているように私には思われる。
『純粋理性批判』から再晩年『オプス・ポストゥムム』へいたるカントの歩みは『純粋理性批判』成立後、カントがかいま見てしまった<根源的誤謬>への危惧へのいわば、一つの防衛反応的な解答だったのである。

p199-200
まあ、年取ると、誰でも感性より悟性(インテリ)を重視、そして誤謬を恐れるのは当然/必然だろうけどね。