ヨーロッパ型資本主義
アメリカ市場原理主義との決別


福島清彦 著 / 講談社現代新書



地球規模の競争が強まる中でドイツの資本主義を立て直すには、みんなが努力し、多少は犠牲を分かち合わなければならない。「そのとき、教師、生徒、教授、学生、政治家および選挙民、経営者および勤労者、われわれみんなでキケロ(古代ローマの哲学者、雄弁家)が伝授した格言を思い出そう。『公共の福祉こそ最高の掟』である。エゴイズムが最高の掟であってはならない」。

p.130
上記の引用はドイツのヘルムート・シュミット元首相の言葉であるが、ここにもキケロが出てくる。やっぱりキケロってヨーロッパの「常識」なんだな、と改めて思った次第。

この本は、アメリカ流の弱肉強食とも言える市場原理主義に対抗すべく、それとは異なったスタイルを採るヨーロッパ型の「資本主義」というものを紹介したものである。
もちろんヨーロッパ型といっても、国によって歴史も違うし、国民性も異なる。つまり「差異」があるのは当然で、この本ではさらに英、仏、独のそれぞれの「経済政策」について詳説している。しかしスタンスや「理念」は共通だ、というのが論旨であろう。
重要なのは、欧州統合があくまでも強いヨーロッパを作るためのヨーロッパ人の統合であり、世界国家を創設するための世界市民の統合ではないということ。本書には書かれていないが、プラトンでなくてキケロが引用されるのは、EUはプラトン流の「理想国家」を目指したものではなくて、キケロが政治家として活躍した「現実的な国家」が念頭にあるのだと、僕は思う。

ヨーロピアンな経済理論というと、10年くらい前に「レギュラシオン理論」というものがモテはやされて、僕も講談社現代新書から出ていたものを読んだことがある。まあ、洒落たマルクス経済学という印象しかないのだが、今でも研究されているのだろうか。最近はぜんぜん耳にしない。

アメリカ型市場原理主義/ネオ・リベラリズム/グローバリズムには、どこか反発したくなる「気概」はあちこちにあるのだろう。ただ、ソ連の崩壊は、イコール、アメリカの勝利なので、感情的な反米主義に終始するしかなかった。

しかし、9・11以後状況は変わる。何より通貨統合を済ませたEUが経済力を増し、アメリカに対する発言力も増してきたからだ。ならば、アメリカ批判をするためにEUを担げば、単なる感情論以上の効果が得られるかもしれない……。
ただ自国の軍事力だけでテロリストを殲滅しようとするブッシュ政権の政策に対し、ヨーロッパ各国はいっせいに非難を行った。フランスのユーベール・ヴェドリーヌ外相は「いま、われわれは、世界のあらゆる問題をテロリズムに対する闘いに矮小化しようとする、新しい単純至極な政策の脅威にさらされている」と述べ、ブッシュ政権のやり方を批判した。

p.213
(それにしても、このヴェドリーヌ外相の発言は「使える」。上記の発言を「人間のあらゆる問題を性的な問題に<矮小化する>単純至極なもの」と言い換えれば、まさに下劣な差別知=精神分析への批判になる)

そんな人たちのために、この本は絶好の「口実」を与えてくれるだろう。この本を読むと、ヨーロッパ型の資本主義は、市場の暴走を調整し、弱者を助け、福祉も重視する、まさに「理想的な社会」を提供してくれるからだ。「レギュラシオン」のように本質的にマルクス主義的でないところも、安心感を与えてくれる。

さすがヨーロッパだよな……日本もヨーロッパ並みに消費税(付加価値税)を15%〜25%ぐらいにして、ヨーロッパ的な「人間の顔をした資本主義」をめざすべきだろう。



批評理論


丹治愛 編 / 講談社選書メチエ



ポストコロニアル批評は、文学テクストを現実社会の問題から切り離しては考えない。テクストが白人/黒人という二項対立を脱構築していると言って終わりにはできない。現実に人種差別が存在し、『闇の奥』に不快を覚える黒人がいるという事実を無視できないからだ。もし、この問題にコミットしようとすれば、脱構築思考に反して、白人対黒人という図式にのっとり、それぞれのアイデンティティを前提にせざるをえない。そんなときに、二項対立は脱構築されたなどと言っても、悪しき現状肯定にしかならない。

田尻芳樹 『空虚な中心への旅──脱構築批評』p.99
この本を買ったのは、言うまでもなくジュディス・バトラーへの言及があったからだ(遠藤不比人『「女」はもはや存在しない?──フェミニズム批評』)。ここでも、すっかり落ち目の下劣な精神分析屋ジュリア・クリステヴァを見事に脱構築するジュディス・バトラーの「勇姿」が窺える。
しかしバトラーのパフォーマンスは前半部分だけで、後半は、ドゥルーズが「精神分析の恥」と言い、スピヴァクが「常識に反している」と述べたメラニー・クラインの紹介──というより、クライン(女) VS ラカン(男)という「図式」になってしまっている。この論説は──僕にとっては──アンチ・クライマックスの終結だ。

が、この本では、フェミニズム批評以外でも、それぞれ読み応えのある「批評理論」が紹介されていて、とても興味深く読めた。しかも「理論」→「実践(例)」という構成になっているので、「理解」は格段に上がる。

とくに、目からウロコだったのが「ポストコロニアル批評」。中尾まさみによる『悲しきシェイクスピア──ポストコロニアル批評』と、主眼は「脱構築批評」であるが、ポストコロニアル理論に接続する田尻芳樹の『空虚な中心の旅──脱構築批評』だ。

これは使える──と読みながら、ひとりごちだった(「アレ」を批判するときには、これだな、と)。

もともと、”ゲイに理解がある”サブ・カルチャー分析ともいうべき「カルチュラル・スタディーズ」には、その方法論には少しも”面倒くさい”ことなどなく、むしろ多いに関心があったのだが、ポストコロニアル理論はちょっと敬遠していた。なぜかというと、ポストコロニアル理論の「三人のスター」に対し、個人的に、敬遠していたからだ。
すなわち、エドワード・サイードは、パレスチナのサバルタンとも言うべき同性愛者について無視・無関心。ホミ・バーバは、使用ツールが精神分析。ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァクは、バトラー以上に文章が読みづらい(笑)。

しかし、ポストコロニアル理論は「使える」。『悲しきシェイクスピア──ポストコロニアル批評』を読みながら、欧米/植民地という図式が、鮮やかに異性愛/同性愛という、やはり非対称な関係を彷彿させる。実践例で紹介されるアルバート・ウェントの小説『オーラ』の「読み」は、まさに「目からウロコ」だった(そう、前述した「アレ」は「やおい」のことで、ジェンダー/セクシュアリティ理論を使用するよりも、ポストコロニアル理論での「批判」のほうが効果的なのではないか、と思った)。

また、スピヴァクが採用する「戦略的本質主義」は、クイアー理論がどうも微温的ユートピア的に思えてしまう僕にとっては、とても「使える」ものだと感じた。やはり、僕には、「ゲイ主体」の「ゲイ・スタディーズ」の方が、クイアー理論よりも「性に合っている」。現実に差別が存在するのに、机上の脱構築では、実質的な問題は「果てしなく先送り」されるだけだ。
だから言う、川原泉の差別マンガは絶対に許せない。



神の証明
なぜ宗教は成り立つか


落合仁司 著 / 講談社現代新書



無限集合はその真部分集合と対等になる。これは有限集合では決して起こりえない無限集合だけの特質である。アリストテレス以来の無限論は、無限のこの特質を忌避する余り、全体としての無限、無限集合を考えることを拒否したのであった。これに対してカントールは、無限のこの特質を現実的無限、無限集合を論理の対象とする限り不可避の帰結として受け入れた。しかしカントールにしてなお、自らの証明した無限のこの特質を前にして、「私は見た。しかし信じられない」と言わざるをえなかった。無限はその全体と部分が一致しうること、無限のこの特質は、それほどまでに僕たち有限者の論理から隔絶しているのである。

129-130
スッゲー興奮させられた。でも、これ、題名が「<神>の証明」となっていて、もちろん全く正しいのであるが、宗教プロパーの本だと思われて──それもまた事実でもあるのだが──あまり宗教に関心がない人に敬遠されたら残念だな。

何と言っても、この本の「神サマ」は19世紀の数学者ゲオルグ・カントールであるし、そして、私たち人間は「有限(者)」であり、その私たち有限者の「他者」である「神」は「無限(者)」である、という「設定」で論が進められるのだから。つまりこの本では、「有限」と「無限」の「論理学」が一貫して「問題」とされているのだ。

もちろん、この「論理学」が「神学」に対応しているのは言うまでもない。あるいは「神学」の「論理学化」と言えるかもしれない。だから「神の受肉」(内在化)という無限者が有限者であるという「論理矛盾」、「人間の神化」(超越化)という有限者が無限者であるという「背理」が、ここでは「信仰の問題」よりも、いかに合理的/知性的に証明されうるのか、ということが主要なプレゼンになる。
こういった数学でもって展開される神学を「数理神学」という。
数理神学あるいは神の集合論は、ほとんど全ての宗教が許容する神は無限であるという命題から出発して、特定の地域や伝統に依存しない普遍的な神の構造を明らかにする試みに他ならない。その際使用する方法は唯一、論理のみである。
(中略)
この意味において神学と数学は全く同類である。そこでひとたび神を無限集合に対応させれば、神の論理すなわち神学は無限集合の論理すなわち集合論に置き換えられるのである。

159-160
ただ、この本で中心的に検討される「神学」は、東方キリスト教、すなわちギリシャ正教に代表される「オーソドックス」である。なぜ「正教」か。それは、西方の「蛮族」に浸透したカトリックと違って、「正教」は人類最高の知的文化が栄えたギリシア文化圏に伝教したからだ。ギリシアの教養(合理的)世界に対し、一介のユダヤの猟師(ペテロ)が言う「大工の倅(イエス)が神になったという非合理」を、どう「説明」しなければならないのか。教父たちは、知的な異教徒、そしてギリシア哲学と常に鋭い緊張関係に立たねばならなかった。したがって、ギリシア教父たちの「教説」は、必然的に「哲学的/論理学的」になる。議論は、「知性」に対し「開かれて」いた。

とくに三一説は興味深い。これは西方カトリックの三位一体説に対応するのだが、微妙に、とくに「聖霊」の扱いが違う。この微妙な違いが、現在からすると、「大どんでん返し」になる。ここにイスラームも絡んでくる。しかもこの微妙な「差異」によって、多神教と一神教という区別さえも──理論上──無効になってしまうのだ。
そもそも三一論とは、その本質において一なる神がその実存において三なる神である。すなわち神は一かつ三であるという命題である。三一論においては、神の本質における一元性と実存における多元性、一神論と多神論が同時に引きうけられているのである。なるほど三と多は違う。しかしたとえば聖霊は、一つの実存とされているが、一人一人の人間に対して個別に臨在するのであって、この一人一人の人間に対して個別に臨在する聖霊の仕方をその実存としてそれぞれに区別すれば、聖霊の実存はそれが臨在する人間の数だけ多数になろう。三一神論は容易に多一神論に拡張しうるのである。キリスト教わけても東方正教は、一神教と多神教を同時に引き受ける多一神教に他ならない。

47-48
そしてマックス・ウェーバーも「夢想だにしなかった」考察によって、西欧・東亜の世俗化と欧亜の宗教化が鮮やかに説明される。ある宗教の「成功/失敗」とはどういう「事態」なのか。



ブーレーズは語る
身振りのエクリチュール


ピエール・ブーレーズ/セシル・ジリー 著 / 笠羽映子 訳、青土社



音楽には、決して書かれなかったし、決して書かれないであろうパラメーターが沢山あるのです。ひとつのスコアとは、簡単に言えば、音高、リズム、ダイナミックの価などの領域における一定の数量の明細書です。それらの厳密に記された量的諸関係は、演奏家の動作によって変更されます。ひとつのアクセントやフレージングや音色を強調したり、演奏会場の音響に合わせたりして、演奏家は書かれた図式を歪め、絶えずスコアのデータに微細な変更を加えていきます。

p.87
ピエール・ブーレーズの対談集。1997年から2001年にかけて行われたラジオ放送用の対談がもとになっている。1997年というと、もうすでにドイツ・グラモフォンの──ということはクラシック音楽業界の──人気アーティストになっており、その存在は、マニア好みの前衛作曲家というよりも、ポスト・カラヤンとも言うべき華麗な指揮者のものであった。

この対談集でも、「理論家」としての挑発的なアジテーションよりも、「ビジネスライク」というか、スター指揮者のサービス精神旺盛な「身振り」が窺える。読んでいてとても面白い。理解しやすい。様々なエピソード──バイロイトのこと、IRCAM のこと──が興味深く、少しも飽きさせない。一気に読んでしまった。さすがだな。
ヴァーグナーの管弦楽の透明性は、私にとって、作曲家が援用しているものの、彼の書法の本質を成してはいない、厚みのある効果と同じくらい重要です。また、後者が細部において含みを持つ綿密さを正当に評価すべきです。言わば、「ミニアチュア」と「全体のプラン」を両立させることこそが、非常に難しいのです。

p.44
ブーレーズはワーグナーへの賛辞を惜しまない。メンデルスゾーンやブラームス、リストへも言及している。中でも意外だったのは、リストについては、後期の「渋い」楽曲よりも、初期の華麗な作品を評価していること。いや、意外でも何でもないか。今『レポン』や『シュル・アンシーズ』を聴いているが、よく考えると、この煌びやかな「音色」は、なるほど、リストのヴィルティオジックなピアノ書法にも通じるのかもしれない。

また、アメリカでの経験も率直に話す。アメリカのシステムは、国家の助成を受けているBBC等とは違い、オーケストラは個人の寄付と興行収入に全面的に依存しているという。
(音楽家のオーディションの)決定という点で、私が導入した唯一の事柄は、私の合衆国での経験から来ています。音楽監督──EICの場合、私がその任にあった総裁(プレジデント)──が決定権を握る票を持つのです。オーディションの審査団は発言権を持ち、提供を求められた意見の総計として重要な役割を果たしますが、決定権は総裁だけにあるのです。総裁が選抜の最終的な責任を引き受けるわけです。

p.102
なるほど。オーケストラは「企業」のようなもので、何より株主=個人の寄付に気を使い、ボトムライン=興行収入が重要。そして音楽監督はCEOのようなものか。ブーレーズは独り善がりの「芸術家」とは、やはり違う。さすがだな。



知とは何か
三つの対話


P.K.ファイヤアーベント 著 / 村上陽一郎 訳、新曜社



B  知識は増え、内容は増え、そして患者は死ぬ。科学的医者やその無教養な追随者、そして科学哲学者が「人間的」であるよりも「科学的」であることを選ぶからだ。これこそ僕が、根本的な問題(認識論や方法論も含む)は、その解決のためには専門家(医者や科学哲学者その他諸々の)からそれらを奪い返し、市民の手に委ねよう、と提案している理由の一つなのだ。専門家には助言者の役割を果たしてもらう。彼らに意見を訊くこともよい、しかし最終決定は彼らにまかせるな。認識論の代わりに市民に主導権を、これが僕のスローガンさ。
(中略)

A  (素人に決定を委ねることは)そんなの混乱を惹き起こすだけだよ。

B  そうさね、それが君たちの言い分だってことは僕も知っている。というのも、君たちは、偽りの口実と偽りの約束によって大衆から盗み出した、心と懐具合とに及ぼす権力を捨てたくないからだ。

p.220
多元主義、相対主義を主張するポール・ファイヤアーベントの刺激的な問題提起。対話形式による三つのテクスト──「知とは何か」「科学とは何か」「智慧とな何か」は、それぞれ「知」「科学」「智慧」それ自体を成り立たせている「認識論」「方法論」を脱構築する。
もっとも脱構築というと、韜晦で、迂遠で、ちょっとおフランス風の「洗練さ」をイメージしてしまうが、ファイヤアーベントの場合は、ストレートかつ暴力的に「権威」を「骨抜き」にしている。アナーキニズムすれすれの議論と言ってもよいかもしれない。何より著者の主張は明晰かつ過激だ。ファイヤアーベントは、合理主義者を──そして批判的合理主義者をも──徹底的に憎んでいる。
B  交通規則は抑圧かい?

A  そういうわけではないが、でも……

B  でも交通規則は守られなければならないし、それを犯したものを処理する誰かが必要だ。君はすべての人を徳目のゾンビに仕立てようとしている。判らないかい、そうした威儀・威厳をもたらすような教育はあり得べき最も強圧的な道具となるものだということが。それは徳目に合わない人間のあらゆる部分を抹殺しようとし、また、善と悪との間で選択の余地を持った存在ではなく、常に正しいことをするだけのコンピュータに人間を改造しようとしていることになる。真なる人間を殺し、理念のお化けに置き換えようとすることになる。今日知られている如何なる教育もこの種の影響力を持っている。だからいつもわれわれは警察力を必要としてきたんだ。君の考えているような教育というのは、人間の行動を規制はするが、人間の精神には手をつけない外的な制限に替えて、人間のあらゆる部分に足枷を付けるような洗脳式の手続きを採用することと同じだ。どっちが自由にとって害が大きいかは一目瞭然ではないか。

p.148-149
文章は──対話という形式のため──平易かつ澱みない。そしてプラトンの作品同様、著者の主張がダイナミックに緊張感を持って展開される。読んでいて、とても興奮させられた。論調は過激で挑発的なものであるが、読後は存外に清々しい。

こういうところが、ジジェクとは違う。ファイヤアーベント同様「挑発的」なことを述べるジジェクではあるが、ファイヤアーベントと比べると、何だか、ただのハッタリと「知ったかぶりラカン理論」で言い包める「小心さ」を、どうしても感じてしまう。
やっぱりジジェクは「ラカン派」という「学派」の「ぬるま湯」に浸っている人物だ。そこにマルクス主義ゆずりの「党派観念」が結びついた最悪の「組み合わせ」だ。
A  人類の偉大な指導者たちに対して、君はあまり敬意を払わんようだね。

B  そうさね、指導者になることを望む人間や、そうした「指導者」なるものを産出するような「学派」の形成を許すような人物には、敬意は払わんね。それどころか、人類のいわゆる「教育家」と言われる人々の多くはね、権力に飢えた犯罪人だと僕は思うよ。自分が愚劣であることに満足できず、他人の精神まで愚劣にしようと権力を振るい、精神の奴隷の数を増やそうと権力を行使するのに労を厭わなかった連中だ。人々が自分自身で歩むことのできる力を強めてやろうとする代わりに、連中は人々の弱さを、学ぼうとする望みを、信頼を利用したんだ。連中の愚にもつかない幻想の生き証人に仕立てようとしてね。教師たるものの第一の義務は、何か自分の気に入った話を魅力的に語るときに、まず聞き手に対して、素直に受け入れてはいけない、と警告を発することなんだ。

p.223-224

特記しておくべきことは、この本でファイヤアーベントは、精神分析(&マルクス主義)を批判するカール・ポパーの「方法論」を批判している──あるいは、その「やり方」をシニカルに見ている──ことだ。ポパーは「科学」と「似非科学」の差を、「反証可能性」の<ある/なし>で決定しようとした。
そこに──そのポパーの「方法論」に、ファイヤアーベントは限界を見る。
レッシングの哲学は、一つの生き方だった。(中略) これに反してポパー主義者は、彼らが「観念」と呼ぶものに自らを縛り付け、科学についてのいくつかの誤解に満ちたスローガンの奴隷に成り下がっている。これは、最悪の類の党派哲学なんだ、人間の自由な思考を麻痺させ奴隷化する、狭量でもの知らずのイデオロギーなんだ。

p.157

ただ僕の場合は、ちょっと違う意見を持っている。ポパーの「方法」に限界を見るのではなくて、ポパーの「やり方」では、まったく「物足りない」と思っているのだ。なぜなら、これでは、精神分析=最悪のイデオロギーが行ってきた「患者殺し」という「犯罪行為」がスッポリと抜け落ちてしまうからだ。

そして僕が危惧するのは、「方法論」に拘り過ぎると、精神分析を美化する「歴史修正主義者」を野放しにしてしまう──勢い付かせてしまうことだ。

例えば、精神分析を擁護する「歴史修正主義者」は、精神分析を批判するフーコーやドゥルーズの「方法」に「寄生」し、精神分析の「方法」はフーコーやドゥルーズの「方法」と「似ている」とほざく。
いったい、「方法」が「似ている」からといって、それが何だというんだ? 
それによって「罪」が逃れられるのか?。「差別行為」が帳消しになるのか?
どこまで下劣なんだ。だったら、なぜ、ドゥルーズらの「効果」と精神分析の「効果」は180度違うんだ? フーコーやドゥルーズは、精神分析が犯してきた同性愛者に対する「差別」を「解放」したのではないのか?

僕は精神分析の、「偽りの口実と偽りの約束によって大衆から盗み出した、心と懐具合とに及ぼした権力」と「人間のあらゆる部分に足枷を付けるような洗脳式の手続き」を、絶対に許すことはできない。そして、このことは、決して忘れてはならない「歴史」だ。
A  キリストは、自分を楽しませるために、道を説いたんじゃない。

B  ある意味ではそうだったんじゃないか。確かなことは、彼は自分の意志に反することをやったわけではない、ということだ。彼はある種の生の形を考え出した、彼はそれを広めようとした、ある程度の躊躇はあったものの、結局彼は人々に自分に関心を持つように強制した。彼は一つの歴史的なプロセスの引き金を引いた。そのプロセスのなかでは、さる異端審問官がその霊魂に「責任」をもとうとしたおかげで、何百万という人が拷問され、殺され、小さな子供たちまで焚殺された……

A  異端審問をキリストの責任にはできないよ。

B  そんなことはないさ。新しい理念や新しい生の形を広めようとする教師たちが理解しておかなければならないことが二つあるんだ。第一は、そうした理念は、内部に安全弁がついていない限り、誤用されることがある、という点なんだ。ヴァルテールのそれには安全弁があったけれども、ニーチェのそれにはなかった。だからニーチェはナチに利用されたがヴォルテールはそれを免れた。第二には、そうした理念に含まれる「メッセージ」は、ある条件の下では助けとなるものでも、別の条件では致命的になり得るということなんだ……

p.104-105




ウィトゲンシュタイン


A.C.グレーリング 著 / 岩坂彰 訳、講談社選書メチエ



規則が言語共同体内の一致によって成り立ち、共同体の習慣の外にあるものによっては規定されないとすれば、私的言語を用いると推定される人──つまり規則に従っているのか、そう信じているだけなのか判断できない人──が抱える問題を、全体としての共同体も抱えることになる。
共同体は、自身が規則に従っているかどうかわかるだろうか。ウィトゲンシュタインの解答は、共同体自身にはわからない、である。彼がこう認めるというところに問題の核心がある。

p.206
いくつもあるウィトゲンシュタインの概説書の一つであるが、著者の狙いは二つある。一つは、専門家でない人々にウィトゲンシュタイン思想の概略を知ってもらうこと。よって、その文章は明快で非常にわかりやすい。
もう一つは、ウィトゲンシュタインの思想を現代の分析哲学のなかに位置付けること。そのため、ときにウィトゲンシュタインの考えに関して批判的な「読み」もなされている。しかし、そのことによって、かえって、ウィトゲンシュタインの思想が捉えやすくなっているのも確かだ。
翻訳ものであるが、文章がとても読みやすいのも吉。

とくに個人的に興味を惹いたのは、『確実性の問題』の「問題」にフォーカスが当っているところ。「疑い」という「言語ゲーム」についてだ。
疑いはそれ自体、ひとつの言語ゲームのなかでのみ起こりうるとウィトゲンシュタインは言う。自分が手をもっているかどうかに関する疑いが理解されるべきものであるならば、そのときには「手」や、それを「もっている」ことの意味を理解していなければならない。しかし、理解はそれを可能にする言語ゲームに基づいて成り立つものであるから、その理解そのものがそのような問いを無意味なものにしてしまう。というのは、そのような問いを立てることは、使われている言葉に意味があるという条件そのものを脅かすからである。

p.178
これは、「正当な疑いが意味をもてるのは、それ自体は疑いの対象とならない枠組みによる文脈のなかでのみ」可能だということである。「疑いというゲーム自体は、確実なものを前提にしている」のである。

ここからグレーリングは、ウィトゲンシュタインに「相対主義」を見る。著者によると、この「相対主義的な見方」は文化人類学者がウィトゲンシュタインに興味を抱いている理由のひとつだという。もちろん、ウィトゲンシュタインの「相対主義」は、文化的相対主義のそれではなく、「認識論上の」相対主義のほうである。
世界についての考え方はどれも高度に理論化され、それ自体解釈を必要とするようなものであり、そうした異質な世界観──異質な概念図式、つまりウィトゲンシュタインならば「生活の形式」と呼んだであろうもの──を理解しようとする試みは、どうしてもその異質な概念や信念、あるいは習慣を自分たちの言葉に解釈することで進められる。それがわたしたちの立場からすれば、異質な世界観に意味を与えられる唯一の方法なのである。

p.196-197
「再解釈」することは、結局、<わたしたち>の真理、<わたしたち>の実在、<わたしたち>の倫理を(再)認識することである。<わたしたち>は、結局、<かれら>を理解できない。
意味と理解は生活の形式の共有に基づいており、またライオンや中国人がそれぞれ異なったしかたでかかわり合っている二つの生活の形式は、わたしたちの生活の形式とまったく違うものであるから、わたしたちはかれらを理解できない──かれらのものの見方に手が届かないし、かれらもまたわたしたちのものの見方に触れることができないのである。

p.198
「正当な疑いが意味をもてるのは、それ自体は疑いの対象とならない枠組みによる文脈のなかでのみ」ということと、「再・解釈」の「問題」について、ある論説を参照したい。小谷真理による『テクノゴシックの血脈』(現代思想1995年2月号)である。
問題は一点のみ。萩尾望都の『ポーの一族』を分析しているところで「やおいカルチャー」云々と書いているところだ。小谷は萩尾望都のマンガが、大人/子供、少年/少女という二項対立を無効にしていると評価している。しかし、
……女性作家たちが、少年同士、あるいは男同士の恋愛を描くことは頻繁に見られる現象になったが、<ポーの一族>はアメリカの女性SF作家アーシュラ・K・ル=グウィンの手になる長編SF『闇の左手』同様、先駆的なものなのである。つまり、ここで提示されている吸血鬼像とは、大人になることを拒否し、伝統的な少女的(女性的)役割を拒否し、より自由な「少年」の姿を取りながら、対等な精神的な繋がりを達成できるような存在ではなかろうか。大人、子供、男、女……通常の社会的役割をどれも逸脱してしまうエドガーのありようは、西欧の「吸血鬼」自体からもその怪物性を剥奪する。吸血鬼という怪物でありながら、人間性に執着するエドガーは、七十年代を生きる女性にとって、性的カテゴリーを拒否しユートピア幻想を提示しながら、その一方で逸脱者たちの疎外感を浮き彫りにする。
しかし、この文章に書かれている「差別性」に、どうして小谷は気がつかないのだろう。<ポーの一族>が、なぜ「疑いの対象」にならないのだろう。それは小谷が、「他人の痛み」を決して理解できない「規則に従って」いるからだ。同性愛を「ネガティヴな比喩」で表現しても構わないという「実践」に対して、それを「疑うフレーム」を、まったく、持ち合わせていないからだ。

どうして「吸血鬼」が「同性愛」のメタファーになるのか。そして「怪物性を剥奪する」ためには、まず「怪物であるという前提」が<ある>ことを、なぜ「問題」にしないのか。そして「その一方で逸脱者たちの疎外感を浮き彫りにする」とあるが、どうして、「逸脱者たちの疎外感」を理解できるのか──それは「逸脱者=他者」ではなくて、<わたしの>疎外感ではないのか。
「逸脱に憧れる」ことと「逸脱者として差別される」ことは、まったく、異なる「経験」だ。

ここには、異性愛者の都合で同性愛を一方的に「再・解釈」しているヘテロセクシズムが歴然としてある。異性愛/同性愛という「二項対立」は、決して、無効にされていない。それどころか、強化されている。すなわち、正常/異常、人間/怪物、幸福/不幸、規範/逸脱、現実/ユートピアという「二項対立」にだ。

もし、<ポーの一族>が「やおい」であるとするならば、そこには、同性愛者は不幸でなければならないこと/怪物であること、と見なす「規則に従っている」ことを「問題」にしなければならない。その(差別の)表象=再現(リ・プレゼント)を「問題」にしなければならない。したがって、「評価軸」は、立場によって、相対主義足らざるを得ない。