ライプニッツ
なぜ私は世界にひとりしかいないのか
山内志朗 著 / NTT出版
すべてのモナドは個別的実体だ。<自分>の肉体は、無数のモナドから構成され、しかも常に多数のモナドが出たり入ったりする集合体だ。ただし、意識に対応するモナド(ライプニッツはそれを「支配的モナド」と呼ぶ)だけは、出ていったりしない。支配的モナドとは、要するに<自分>というモナドのことだ。肉体という衣装を取り払った、裸の<自分>のことだ。
p.100
うーん、ライプニッツって「電波」だなあ、と関心した。無論「電波」は褒め言葉だ。僕は、この「シリーズ・哲学のエッセンス」は、他に「入門書」が見当たらない、ちょっとマイナーな哲学者をチョイスして読んでいるのだが、どれも切り口が斬新で楽しめる。そう、楽しめるのだ。その大胆不敵な思考に魅了された。
たしかに、ライプニッツの三大思想──モナドの思想、予定調和説、最善説──なんかの、”さわり”を読むと、荒唐無稽な「形而上学的なお伽噺」に思えるが、それは、それ。「無機物」を「眠れるモナド」と定義づけるところはなかなか魅力的な「お伽噺」だ。
ライプニッツは、生命を持つものすべて、昆虫どころか、植物、バクテリアをも含むものとして、「モナド」という概念を提出している。そして、動物どころか、植物にも表象と欲求を認めている。岩のように、一見すると生命なきもののように見えるものにも、生命、それどころか、「心」を認めようとする発想だ。
p.24
そしてライプニッツは、デカルトと違い、「意識していない/思考していない」状態の<私>にも、表象を認めている。つまり眠っていても気絶していても、そこには「微小表象」が生じていて、<自分>の同一性は保たれている、というわけ。
ライプニッツというと、微分に代表されるようになんか「数学的」なカタいイメージがあったのだが、「窓のないモナド」「孤独なモナド」「夢見るモナド」といった発想は、とてもロマンティックな、ある意味文学的な感じさえした。
感情に単位や尺度がないというのは、どういうことか。まず、感情は、私秘的なもので、他者が検証したり、訂正したりできるものではない。「私はAさんが好きだ」と訴える人物に向かって、「あなたの語り方は間違っている、あなたはBさんが好きなはずだ」と訂正する資格を有する人間は存在しない。
さらにまた、感情や痛みは、夜空の星雲と違って、複数の人間が一緒に観察できるものでもないし、観察できる唯一の人物(観察者、経験者)も、他の感情──自分のものであろうと、他人のものであろうと──と比較することができない。
p.71
この本では、副題にあるように、「なぜ私は世界にひとりしかいないのか」という「問い」が通奏低音のように響いている。しかし、この「答え」は……正面からは「答えられない」。なぜならば、「<自分>とは謎(enigma)である」からだ。重要なのは、謎を生きること。精神分析のような「思い上がった態度」は必要ない──そのような人の「秘密」を分かったような、暴くような態度を取ることこそ心底軽蔑されるべきだ。ましてや、「秘密」を「告白」させ、ギリシャ悲劇に強引にパラフレーズさせるなんてのは、犯罪行為にも等しい。愚劣だ。下劣だ。卑劣だ。
「あなたの語り方は間違っている、あなたはBさんが好きなはずだ」と訂正する資格を有する人間は存在しない。
哲学的問いは、ほとんどすべてが<謎>の形式になっている。答えを得て、分かったという人間は、その問いをまったく理解していないことが判明するだけだ。<謎>は<謎>のままであり続けるべきだ。<自分>が<謎>ではなく、<謎>が解明されてしまうのは、<謎>を問う人間が存在しなくなったときである。
p.109