溺れる魚
戸梶圭太/
新潮文庫
感嘆語をいくつも並べるのはマーガレット・ミラー『まるで天使のような』でやったし、大フォントを使うのはジム・トンプスン『残酷な夜』でやったし、不条理文学の引用はルース・レンデル『ロウフィールド館の惨劇』でやったし、うーん……。
何をしたいのかというと、この戸梶圭太の傑作クライム・ノヴェルが上記の作品同様、どれほど凄く、どれほど素晴らしいものであるのかを「特殊効果」付きで表明したいのであります。(読んだ直後の興奮さめやらぬうちにね)
何かないかな……。
! (=ひらめいた)
それは……
「外専」
ごぞんじのように、このサイトでは、管理人の好みにより、取り扱っているものの多くが(ポルノスターからクラシック音楽まで)外国産です。ミステリーも例外ではなく翻訳ミステリー中心。
好みなんだから仕方がない、と言いつつ、ちょっとだけ分析してみると……。
ルックス……たしかにラテン系男子は良い顔してるけど、最近の日本人だって負けるとも劣らずハンサムだ。
カラダ……もちろんマッチョが好きだ。しかしジムに行けば立派な体躯の日本人はザラにいる。
では、決定的に違うのは何だ。
それは……
「体臭」。
そう、こればっかりは、ちょっとやそっとでは外国人とはタメを張れない。
「匂い」ほど、即座に、ダイレクトに脳に浸透するエレメントはないだろう。つまり「体臭」は「彼」の存在感をこれ以上なく強くアピールし、誘惑し、脳内における「記憶のアーカイヴ」の一番上の引き出しに仕舞われる。それくらい「匂い」は重要なものなのである。
さて、やっと『溺れる魚』の話。この作品も実に魅力的な「体臭」を放っている。外国作家に少しもひけをとらない強烈なやつだ。男たちのニオイ、女たちのニオイ、血のニオイ、セックスのニオイ、反吐のニオイ……。
ストーリーは、女装趣味の万引き刑事(秋吉)と金銭ネコババ刑事(白洲)の二人が、その罪と引き換えに、ある公安刑事(石巻)の行動を探ることを命じられる。石巻刑事は、「ある目的」のため、『クリング・クラング』というゲイやレズビアン、男装者や女装者、様々なアーティストが集まる会員制バーに通っている。彼はこれまでにも警察からマークされていた要注意人物であったが、公安側の圧力によって、警察側の捜査が潰された。今度こそ、警察の意地を見せるチャンスだった。
「あそこは(『クリング・クラング』)客のために数種類の新聞をとっているんだ。読売、毎日、日経、スポーツ新聞、だが朝日新聞はとっていなかった。そこで阿部警部が朝日の勧誘員を装い、強引に店の中へはいって響堂と押し問答した。そして隙を見てカウンターの裏に盗聴器を仕掛けた」
話を聞きながら、白洲は下を向いてクックッと笑い出した。佐山の顔が強ばる。
「何がおかしい」
「いや、日本警察も変わったもんですね」
「何が言いたい」
「よりによってデカが一般市民に朝日新聞を勧めるとはね」
p.57
一方、石巻は、実は、大企業ダイトーを狙った脅迫事件を探っていたのだった。その脅迫とは、企業の役員に珍奇な格好をさせ、繁華街を歩かせるという人を食ったようなものだった。犯人は「溺れる魚」と名乗っている。彼らの真意は何なのか……。
もちろん、これはほんの導入である。ストーリーは軽快にそして絶妙に入り乱れねじくれる。公安、警察、大企業役員、ヤクザ、左翼過激派、それに『クリング・クラング』に集まる個性的な人物たち。
これら独特の匂いを放つ大勢の人物たちを作者は、アリアドネさながら操り、翻弄させる。
ときに過激に、ときにコミカルに、ときに露悪的に、ときにリリカルに、ときに凄まじく暴力的に、と、まるで猫の目のようにグルグルと旋回し変化するその万能の筆致。
特に後半、ほとんどすべての主要登場人物を新宿西口に集結させ、ダンテも真っ青の煉獄(修羅場)を何十ページにも渡って持続させるリーダビリティーにはまったく感服させられた(レンデルの『ロウフィールド館』以来だ)。しかもその場合でさえも、ジム・トンプスン『ポップ1280』にも匹敵するドハデな哄笑とムッとする体臭に圧倒される。
ただ者じゃないぜ、戸梶圭太!
この作品は映画化されて、椎名桔平が白洲役で出演しているようだ。未見だが、浅田彰も少なからず関心を寄せていたようなので、ぜひ見てみたい。
http://www.criticalspace.org/special/asada/i010213a.html