BEYOND THIS POINT
ARE MONSTERS
BOOK REVIEW


オルガニスト
山之口洋/ 新潮文庫


(四つのデュエットの)ホ短調は、一オクターブにおよぶ山なりの旋律から唐突に始まる。どこかしら不安を内在したこの旋律は、曲中に何回か現われるが、モチーフといえるだろうか。工事現場に置き去られた資材の山か、キリコの描く心象風景の中に佇むマネキンを思わせる。ドイツ語には《das Grauen》という言葉がある。《恐怖》とは少し違う。日常生活のちょっとした隙間に人間を訪れる、あの根源的なものにつながる不安。一日の仕事に擦り減ったようになり、家路に向かうとき、日々の生活のすべて、自分の存在自身がふと意味を失い、見慣れない記号のように見える。家族や友人との関係も、書き割りのように平板な、架空のものに堕ちる。ドイツ人はそのようなとき《das Grauen が通った》と表現する

病膏肓。僕にとって、この本による収穫、というより副作用は、20枚におよぶバッハのオルガン曲CDを購入してしまったことにつきるだろう。このフィクションにちりばめられた卓越した音楽観、音楽論に喚起され、実際音で確認せずにはいられなくなった。

この作品は、第10回日本ファンタジーノベル大賞を受賞した。以前、小沼純一氏のエッセイ(タワーレコード「ミュセ」所収)で触れられていたので気になっていたが、何故か本屋で見かけなかったことと、ファンタジーというジャンルにいまいちピンとこなかったのでこれまで未読だった。この度、めでたく文庫で登場。文庫版は、瀬名秀明の適度な情報と適度な技術語を交えた読み応えのある解説がついているだけでなく、かなりの加筆と、さらには人称(三人称 → 一人称)の変化まであるということだ。

ストーリーはある音楽家の一生。南米に天才的なオルガニストが登場した、彼は何者なのか? という魅力的なプレリュードから、「失われた時を求めて」とも言うべきドイツを舞台にした甘美な青春ストーリー、そして巧妙に仕組まれた殺人を挟んで、ファンタジックなエンディングへと流れ込む。そこでは楽器の "ORGAN" は別な意味の "ORGAN" に変わり、文章も音楽的な変容を遂げる。

その奇抜なエンディングによって、この作品はSF/ファンタジーに分類されるのだろうが、中盤での老オルガニストを狙った殺人では、本格/新本格を思わせる大胆で不可能趣味溢れる殺人(衆人監視の下、演奏中のオルガニストが殺される)が披露される。
音楽による殺人、音楽による動機、音楽の世界による論理/倫理。この部分は、特殊な世界の特殊な犯罪を描いたヴァン・ダインの『僧正殺人事件』を彷彿させるし、また、その大胆極まりない発想とSF的なシチュエーションは京極夏彦の『魍魎の匣』を思わせる。
ここで巧妙なのは、音楽家(芸術家)と刑事に、もう一人の登場人物=音響エンジニアを加え、抽象的な音楽論に対し、実証的な検証でカヴァー/証明するという方法を取ることだ。高踏的な審理問答はサイエンスで裏付けされる。作者のバックグラウンドを考えれば、なるほど、と思う。

全体としては、天才と凡人(ここでの主人公)を配置させ、その凡人(常識)の視点から、天才の狂気と悲劇を描いている。なんとなく『アマデウス』のモーツァルトとサリエリの関係を思い起こさせ、同じ音楽家でありながら、神から与えられた能力の差に愕然とする芸術家の悲哀も感じられる。

ただラストに関しては、個人的には、別な方向に進んで欲しかった気がする。主人公テオは、現世=女(マリーア)よりも彼岸/音楽=男(ヨーゼフ)の下に飛び立ったほうが「ハッピーエンド」だと思うんだけど。そう、思わない? まあ、個人的な趣味ですが(笑)。




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溺れる魚
戸梶圭太/ 新潮文庫


感嘆語をいくつも並べるのはマーガレット・ミラー『まるで天使のような』でやったし、大フォントを使うのはジム・トンプスン『残酷な夜』でやったし、不条理文学の引用はルース・レンデル『ロウフィールド館の惨劇』でやったし、うーん……。

何をしたいのかというと、この戸梶圭太の傑作クライム・ノヴェルが上記の作品同様、どれほど凄く、どれほど素晴らしいものであるのかを「特殊効果」付きで表明したいのであります。(読んだ直後の興奮さめやらぬうちにね)
何かないかな……。

 (=ひらめいた)

それは……「外専」

ごぞんじのように、このサイトでは、管理人の好みにより、取り扱っているものの多くが(ポルノスターからクラシック音楽まで)外国産です。ミステリーも例外ではなく翻訳ミステリー中心。

好みなんだから仕方がない、と言いつつ、ちょっとだけ分析してみると……。
ルックス……たしかにラテン系男子は良い顔してるけど、最近の日本人だって負けるとも劣らずハンサムだ。
カラダ……もちろんマッチョが好きだ。しかしジムに行けば立派な体躯の日本人はザラにいる。

では、決定的に違うのは何だ。
それは……「体臭」

そう、こればっかりは、ちょっとやそっとでは外国人とはタメを張れない。
「匂い」ほど、即座に、ダイレクトに脳に浸透するエレメントはないだろう。つまり「体臭」は「彼」の存在感をこれ以上なく強くアピールし、誘惑し、脳内における「記憶のアーカイヴ」の一番上の引き出しに仕舞われる。それくらい「匂い」は重要なものなのである。

さて、やっと『溺れる魚』の話。この作品も実に魅力的な「体臭」を放っている。外国作家に少しもひけをとらない強烈なやつだ。男たちのニオイ、女たちのニオイ、血のニオイ、セックスのニオイ、反吐のニオイ……。
ストーリーは、女装趣味の万引き刑事(秋吉)と金銭ネコババ刑事(白洲)の二人が、その罪と引き換えに、ある公安刑事(石巻)の行動を探ることを命じられる。石巻刑事は、「ある目的」のため、『クリング・クラング』というゲイやレズビアン、男装者や女装者、様々なアーティストが集まる会員制バーに通っている。彼はこれまでにも警察からマークされていた要注意人物であったが、公安側の圧力によって、警察側の捜査が潰された。今度こそ、警察の意地を見せるチャンスだった。
「あそこは(『クリング・クラング』)客のために数種類の新聞をとっているんだ。読売、毎日、日経、スポーツ新聞、だが朝日新聞はとっていなかった。そこで阿部警部が朝日の勧誘員を装い、強引に店の中へはいって響堂と押し問答した。そして隙を見てカウンターの裏に盗聴器を仕掛けた」
話を聞きながら、白洲は下を向いてクックッと笑い出した。佐山の顔が強ばる。
「何がおかしい」
「いや、日本警察も変わったもんですね」
「何が言いたい」
「よりによってデカが一般市民に朝日新聞を勧めるとはね」

p.57
一方、石巻は、実は、大企業ダイトーを狙った脅迫事件を探っていたのだった。その脅迫とは、企業の役員に珍奇な格好をさせ、繁華街を歩かせるという人を食ったようなものだった。犯人は「溺れる魚」と名乗っている。彼らの真意は何なのか……。

もちろん、これはほんの導入である。ストーリーは軽快にそして絶妙に入り乱れねじくれる。公安、警察、大企業役員、ヤクザ、左翼過激派、それに『クリング・クラング』に集まる個性的な人物たち。
これら独特の匂いを放つ大勢の人物たちを作者は、アリアドネさながら操り、翻弄させる。
ときに過激に、ときにコミカルに、ときに露悪的に、ときにリリカルに、ときに凄まじく暴力的に、と、まるで猫の目のようにグルグルと旋回し変化するその万能の筆致。

特に後半、ほとんどすべての主要登場人物を新宿西口に集結させ、ダンテも真っ青の煉獄(修羅場)を何十ページにも渡って持続させるリーダビリティーにはまったく感服させられた(レンデルの『ロウフィールド館』以来だ)。しかもその場合でさえも、ジム・トンプスン『ポップ1280』にも匹敵するドハデな哄笑とムッとする体臭に圧倒される。
ただ者じゃないぜ、戸梶圭太!


この作品は映画化されて、椎名桔平が白洲役で出演しているようだ。未見だが、浅田彰も少なからず関心を寄せていたようなので、ぜひ見てみたい。
http://www.criticalspace.org/special/asada/i010213a.html




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牛乳アンタッチャブル
戸梶圭太/ 双葉社


例の牛乳食中毒事件を元にした戸梶流「企業小説」……なのかな。いちおう企業小説を読むに相応しい場所、そう、通勤電車の中で読んでいたんだけど、これが可笑しくて可笑しくて、何度「クックックッ」と笑い出したことか。

別に「私に指一本触れたら痴漢と騒ぐわよ」という感じのどう見てもセクシーとは言えない年齢も絶対30超えてる女をせせら笑っていたわけではないし、痴漢に間違えられるのが怖くてバンザイしている小心者のおじさんを見てニヤけていたわけではない(いつも同情してます、はい)。
本当にこの本を読みながら、面白くて可笑しくて、悪意と失意と眠気が渦巻く暗い車中で一人、声を上げて笑いながら楽しい時間を過ごしました。

ストーリーは……「雲印乳業」が引き起こした大量食中毒事件。しかし社長を始め役員、工場の人間たちはどうしようもなくグータラな無能ばかり。そこで人事担当役員の柴田が立ちあがった。彼はこの腐った牛乳と同じように腐った社員どもを駆逐するべく特別調査チーム「クビキリ隊」を結成。会社を立て直すため、問答無用の首切り=解雇を行っていく……。

この特別調査チームの面々が笑っちゃうくらい個性的なメンツばかり。いや、そればかりではなく、首を切られる側の社員も負けず劣らず、したたかでけったいなヤツらばかり。この「クビキリ隊」VS「グータラ社員」の凄まじい仁義なき戦いぶりがなんといっても圧巻だ。人間の醜さを(あるいは弱さを)コミカルなタッチで、しかし容赦なく残酷なまでに眼前に突き付ける。

そしてあの社長だ。実際の事件でも「私は寝ていないんだ」と名言を吐いた「役者=コメディアン」であるが、この小説でも同じセリフを吐いて相当な役者振りを発揮する。
というより、この社長がいつ「私は寝ていないんだ」を発するのか、ドキドキしながら読んでいた。ちょうどルース・レンデルの『わが目の悪魔』で主人公がいつ人間の首を絞めるのか、『ロウフィールド館の惨劇』でいつ文盲の家政婦が一家を皆殺しにするのか、とハラハラドキドキした気分を思い出した。ここはなかなかサスペンスフル。

もっとも前述したように爆笑に次ぐ爆笑で、この小説は一種のコミック・ノヴェルとも言えるのだが、もちろんそれだけではない。ルース・レンデルを引き合いに出したように、時折、暗い爆弾も落とされる。ロベルト・シューマンがショパンの音楽を「花に隠された大砲」と呼んだように、戸梶圭太は、この作品で、コミカルな盾に隠れながら毒のある散弾銃をぶっぱなすのだ。そんな──致命傷にはならないが──チクリと刺す強烈な諷刺に手痛い衝撃を受ける場面もある。

作者が言う「激安人間」がありとあらゆる場所で増殖しているこの日本国。こういう時代には戸梶本でも読んで「痛みの伴う笑い」で気を紛らわすしかない、のかもしれない。




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サド侯爵夫人/わが友ヒットラー
三島由紀夫/ 新潮文庫


日本には「あれは男の描けぬ作家だ」とか、「あれは女の描けぬ作家だ」とかいう月並みな悪口がある。(中略)負けず嫌いの私は、「よし、俺だけは両方描ける作家になってみせるぞ。それも双方百パーセント以上」と意気込んでいた。極度に女くさい作品となれば、女ばかりで芝居を組めばよく、極度に男くさい作品となれば、男ばかり登場させればよい。口で言えば簡単なことだが、劇作法としては至難の方法である。しかしその困難が私を魅した。

自作解題 「一対の作品──『サド侯爵夫人』と『わが友ヒットラー』」

と、三島本人も書いているように、『サド侯爵夫人』は登場人物が全員女である極度に女くさい作品、『わが友ヒットラー』は男ばかりの極度に男くさい作品になっている(とりあえずね)。
戯曲という短編でありながら、とくに『サド侯爵夫人』は三島の作品中でもトップクラスの傑作ではないかと思う。筆が冴え渡っており、読んでいて、それがとても小気味良いのだ。長大な、まるでマーラーの交響曲みたいな『豊饒の海』も決して悪くないが、どうしてもその長さの為、魅惑半分、いらだち半分で、作家(作曲者)への愛情なしにはなかなか読めない(聴けない)きらいがある。しかし、この手頃の長さのドラマは、まったく手放しで楽しめる。


『サド侯爵夫人』

言うまでもなくサドは『悪徳の栄え』なんかを書いたあのサド侯爵である。テーマはその彼の「貞淑な」妻、ルネ・サド侯爵夫人の不可解な心の謎。夫が獄中の間、彼女は夫への貞節を貫きながら、しかし夫が自由の身になった途端、別れてしまうというは何故か、というもの。

まあそういった心理小説風な味わいもさることながら、様々な「属性」を与えれた個性豊かな──というよりアクの強い6人の女たちの丁々発止の遣り取りが、たまらなく面白い。もちろんそこには周到に練られた幾何学的な構成が下地にあってこそで、その面白さの中に、独特の思想や怜悧なアフォリズム、辛辣極まりない社会風刺なんかが見事に込められている。
あの人(サド侯爵)には牙なんぞありません。あるのは鞭とナイフと縄と、古めかしい拷問道具と、いわば人間の発明品ばかり。それは私ども女の化粧道具、鏡と白粉入れと口紅と香水瓶などど、さして変わりはいたしません。それに比べてあなたには生得の牙が備わっておいでになる。その丸い乳房、それが牙なのです。お年にしては衰えをみせないつややかな腿、それが牙なのです。それというのも、あなたのお体は、頭の先から爪先まで、偽善の棘できらきらと鎧われて、近づくものを刺し貫きもすれば、窒息させてしまうこともおできになるのですもの。

p.79-80

そしてその猥雑さ。エロの帝王サド侯爵が登場しなくても、十分にその「閨房哲学」を披露してくれる。例えば直截に「アナルセックス」なんて言うよりも、文学的に以下のように言ったほうがずっとイヤらしく感じる。
あなたのお好きな「あること」ですわ。ひろい庭のまんなかに立ったヴィーナスの彫刻が、正面から朝日に照らされているときは、輝かしい光線は純白の大理石の股の間へまでしみ入ります。では、太陽が半日のあいだ庭をめぐって、森のかなたへ入日になって沈むときに、その光りはヴィーナスのどこを射貫くでしょうか?

p.12-13

『わが友ヒットラー』

完璧な構成美を誇る『サド侯爵夫人』には一歩も二歩も譲るかもしれないが、僕がこっちの「男のドラマ」の方に惹かれてるのは、言うまでもないだろう。
題材は、ヴィスコンティの映画『地獄に堕ちた勇者ども』でお馴染みの、レーム率いる突撃隊粛清までの経緯を扱っている。登場人物は四人。ヒトラー、レーム、社会主義者シュトラッサー、エッセンの財閥クルップ。四人の男たちによる熾烈な政治ゲーム──と言ってもヒトラーは、ここではあくまでも中立的なポジションにいる。結局、ゲームに勝つのは誰なのか?
シュトラッサー
    いつでも(命を)差し上げよう。しかしそれには二つの条件がある。君が私を殺すには、第一、そのとき私が生きていなければならない。第二に、君が生きていなければならない。
レーム
    その前にアドルフに殺られるというわけか。
シュトラッサー
    簡単な数学だ。

p.181
そして、やはり、ここで胸を打つのは、レームのヒトラーと突撃隊(軍隊)に寄せるあまりにもピュアな愛情だ。それが三島に憑依したのか、レームのセリフはあまりにも甘美に響く。スーザン・ソンタグならポルノグラフィックと評するであろう魅惑的な暴力の正しさ、美的な死の夢想──つまりエクスタシーを過剰に感じさせる。
軍隊こそ男の天国ですよ。木の間を洩れる朝日の真鍮いろの光は、そのまま起床を告げる喇叭のかがやきだ。男たちの顔が美しくなるのは軍隊だけです。日朝点呼に居並ぶ若者たちの金髪は朝日に映え、その刃のような青い瞳の光には、一夜を貯えた破壊力が充満している。若い野獣の矜りと神聖さが、朝風に張った厚い胸板に溢れている。磨かれたピストルも長靴も、目ざめた鉄と革の新しい渇きを訴えている。若者たちは一人のこらず、あの英雄的な死の誓いのみが、美と贅沢と、恣な破壊と快楽とを、要求しうることを知っているのです。(中略)
やさしい消燈喇叭、あの金属のなめらかな指は、粗い軍隊毛布を顎まで引き上げて、長い睫をそろえて閉じた若者の瞼を、そっと憂わしく撫でて眠らせます。

p.125-126




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