Gay Passage

テネシー・ウィリアムズ 『片腕』
牢に入るまえは自分の不具な体を、こわれてしまったのだから、虐待する以外に手はないと思っていた。この肩輪ものめ、と自分をののしるのが常であった。この体が他人の心をさわがせるなど、彼には不可解であり、嫌悪すべきことであった。しかし最近の手紙の奔流、彼は忘れてしまっていたのに向こうは忘れ得ずして書いた手紙の数々が、自己に対する関心を呼びさましはじめたのだ。オート・エロチックな気持ちが彼の体に花開きはじめた。手の操作にこたえて鼠蹊部にうごめく悲しい喜びを味わった。南部の七月の簡易ベッドに裸身となり、大きな片手がその肉体にわびしく求めるのだ。片手がエロチック・ゾーンを探る、かつて他人の手が、幾百人という他人の手が、一種の飢えをもってからみついたところを。その飢えが今彼にも解りはじめた。遅すぎた。この目ざめは。肉体の虹はなべてサン・ジエゴで切り取られた腕とともに去ったほうがよかったのだ。
片腕のハスラー、オリヴァ・ミラー。かつて彼はライト・ヘビー級のボクサーであった。交通事故で片腕を失うまでは。「敗北」を知った彼は、ハスラーとしてアメリカを放浪する。
ある日、オリヴァは裕福な株式仲買人に買われ、パーティで売春婦(女)と「ブルー・フィルム用の演技」を強要される。オリヴァは女を殴り、株式仲買人を殺してしまう。そして逮捕、死刑を宣告される。
しかしそのことが新聞に載り、かつて彼と夜を過ごした男たちの記憶を呼び覚ます。
彼を知った男たちにとって、彼の姿は容易に心から消えぬ存在となっていた。あの大柄なブロンド、片腕をなくすまではボクサーだったあの青年、それは男たちの願望の衛星たちの中心にある遊星となって軌道を定め、彼らは彼のまわりを回るのであった。その彼がどこかで掴まって、崩壊したという。すると、ある意味では、この崩壊によって彼が彼らのもとに帰って来たのだ。もはやハイウェイや鉄道に沿って遠ざかる存在ではなくなり、片すみに閉じ込められ、死を待つのみものとなったのである。
男たちはオリヴァに手紙を書く。留置場には大量の手紙が届きはじめる。最初はそれらの手紙を無視していたオリヴァだが、やがて手紙を読み出し、そして処刑の二、三週間前になると彼は返事を書きはじめた。
「うん、はっきり君のことはおぼえている。図書館のうしろの公園で会ったっけな、それともグレイハウンド・バス乗り場の便所だったっけ。なにしろ相手が多いから混乱することもあるさ……

「おれは国じゅうを無計画に歩きまわった。ただ立ちどまりたくないというだけのことだった。どの町へ行っても知らぬ客を拾った。その客と経験をしたわけだが、それがおれにとって金と一夜の宿と酒と食物が入るという意味しかなかった。そんなものが相手に意味のあるものとは思ってもみなかったよ。そいつが、君のように、みんなから手紙をもらってみると、意味があったんだな。何百人かの人たちにおれは何か大変な意味をもっていたんだ。こっちは別れたとたんに顔も名前もケロリと忘れていたんだけど。なんだか今まで借りをふやしていたみたいな気持ちだ。金じゃないよ。気持ちのことさ。なかにはズイブン手荒にあつかっちゃった相手がいるんだ。おれに親切にしてくれたのに、こっちはサヨナラも言わないで別れちゃったり、おれにくれたものでもないものを取って来ちゃったりさ。そういう相手がどうしておれをゆるせるものなんだろうなあ。
そして後半、ある青年牧師との最後の「やり取り」の後、オリヴァは電気椅子に向かう……男たちから貰った手紙を持って。
そして刑務所長が死刑室につれに来ると「これを持って行きたい」と言った。手紙の束を死刑室にもって行くさまは子供が人形かオモチャをもって歯医者の診察室に入り、身近にある、愛するものを保護しようとるす図であった。
何度読んでも目頭を熱くさせ、涙を誘うテネシー・ウィリアムズの傑作である。


テネシー・ウィリアムズ「片腕」(志村正雄、河野一郎訳、白水Uブックス『呪い』所収)


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アルフレッド・チェスター 『イシュメイル』
「この世でぼくが愛しているのはフランキーだけさ」
「彼もきみを愛しているのか」
「フランキーは、『きみを愛しているけど、でも』っていうんだ」
「でも、どうしてなんだ」
彼はためらい、肩をすくめ、苦い笑みを浮かべる。「ぼくはプエルトリコ人なんだよ。別にフランキーが悪いわけじゃない。僕は仲間のプエルトリコ人も嫌いさ」
 私はまじまじとアルバムの写真を見つめながら、ほかの男と付き合う気はないか、と尋ねた。探りを入れたのだが、吊り上げたのは大きなドラゴンだった。「ぼくの中には愛がたくさんあるけど、みんなにあげるつもりはないんだ」
たった三日の出来事。ある作家がイシュメイルというプエルトリコ人の青年と出会い、別れるまで。しかしそこに「トム・ソーヤ」と「白鯨」のイメージがダブる。
このストーリーは冒頭に書いてあるように、二度の出会いと一対の結合、光の女王と闇の女王の責め苦を描いた「おとぎ話」である。
でも、ちょっとせつないおとぎ話でもある。
だが、最初のときとは違っていた。私たち二人は、もう無垢ではなく、匿名性も失われている。自分だけの快楽に向かってわがままに突進することもない。私たち(私)は相手を喜ばせようとする。私の体が彼の体を欲しがると同時に、私の心は彼の心を欲しがる。彼の心はフランキーの心を欲しがり、フランキーの心は──誰の心を欲しがるのだろう。私たちと同じベッドに、何人もの男がいて、体を突き動かしている。その男たちは、白熱する肉体だけでなく、恐るべき心のロマンスでもつながっているのである。
この作品を読むと、なんとなく、あくまでなんとなくであるが、男と男の間に「愛」や「心」といった問題が兆した時点でその関係は「不純」なものになってゆくように思える。純粋な「欲望」に身をつやしたその「瞬間」こそが、最も「美しい関係」。
よって一回きりの出会こそが「完璧」なのではないのだろうか、そんなことを感じさせてくれる。

作者のアルフレッド・チェスターは1928年生まれ。ポール・ボウルズ、スーザン・ソンタグらと関係のあったらしい。チェスターについては風間賢二の「タンジールのハンプティ・ダンプティ_アルフレッド・チェスター論」(『快楽読書倶楽部』 )が詳しい。『イシュメイル』は1961年に発表された。


アルフレッド・チェスター『イシュメイル』(宮脇孝雄訳、ハヤカワミステリマガジン No.374,1987)


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