Gay Passage

三島由紀夫 『剣』

まず、冒頭のこの文章に痺れた。
 黒胴の漆に、国分家の二葉竜胆の金いろの紋が光っている。
 道場の窓から幅広くさし入る西日のなかに、国分次郎の藍の刺子の稽古着から飛び散る汗は、ちらちらと光って飛ぶ。
 彼の袴の脇からは、若いつややかな琥珀いろの腿がほの見え、それが生動するさまは、全身をおおう防具と稽古着の下に、踊っている若い肉体を偲ばせる。
すべては沈み黒ずんだ藍の、静けさを切り詰めたところに生まれるような動きである。
この輝かしさ! この官能性! そしてこの完璧さ!。これほどまでに研ぎ澄まされた感覚を持った日本語=文体はまったく稀有であり、匂い立つ文章のあまりの美しさに、眩暈すら感じる。耽美とは、こういうものを言うのだろう。
ヘンリー・ジェイムズを、フローベルを、彼らの同国人のように味わえなくても、三島を読めるだけで、幸福な気分にひたれる。
これは、スーザン・ソンタグの示唆のように、内容(解釈)云々ではなくまさしく官能美学(エロティックス)の問題だ。

この三島由紀夫の短編は、大学の剣道部を舞台にした一種の青春ものである。短編とはいえ、三島の美学を端的に表していると思う。長大な『豊饒の海』とはまた違った魅力を放つ作品、そして『憂国』と並んで、僕の愛する「三島の短編」である。

解説で佐伯彰一氏が書いているように、この作品に登場する国分次郎は、三島由紀夫にとって理想のヒーローであり、また理想化された三島の分身だろう。
壬生は現代青年の卑しさをひとつひとつ数え立て、それが一つでも次郎にあてはまるかを考えてみた。お洒落と、簡単な性欲の満足と、反抗的そぶりと、生きる目的の喪失と、それがいずれは、家庭第一主義と、日曜日の芝刈りへのあこがれと、退職金の夢と……そういうものは何一つとして次郎にはあてはまらなかった。
この「美しい微笑み」を持つ先輩国分を崇拝する壬生に、同性愛的感情を見出すのは容易である。そして剣道という「刃先を合わせて対し合う」武道に、何かしらのメタファーを感じることもいまさら言うまでもないだろう。

この若者たちの心理劇が辿りつくのは、もちろん悲劇である。しかしこの悲劇は、まるで推理劇のように最初のほうで示唆されていた。三島のヒーロー国分次郎の「属性」として。
青年の、暴力を伴わない礼儀正しさはいやらしい。それは礼儀を伴わない暴力よりももっと悪い。
そしてもう一つ「彼のヒーロー」には「属性」があった。
強く正しい者になるか、自殺するか、二つに一つなのだ。級友の一人が自殺したときに、彼はその自殺は認めた。ただそれが体も心もひよわかった男で、彼の考えるような強者の自殺でなかったことが残念だったけれども。
はじめてこの文章を読んだとき、僕は、頭の中が真っ白になった。


三島由紀夫「剣」、講談社文庫『剣』所収)


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