Gay Passage

アンドリュー・ホラーラン 『静かな吊環、そして円環』
一人称の「ぼく」が自分の生活を振りかえる。友人コスモとの出会い、そして別れについて。人生の一場面を、さりげなく、静かに語る。まるでレイモンド・カーヴァーあたりのミニマリズム系作家の短篇を読んでいるようだ。等身大の人物の等身大の日常生活を。美化もしない、卑下もしない、もちろん正当化もしない。
 コスモは男性の肉体が好きだった。それはぼくも同じだった。フィラデルフィアにいたときよりずっと、僕はバーやビーチやジムの中毒になっていた。(中略)鍛え上げられた彼の体は、息を呑むほど美しかった。ビーチで彼の裸体を見るたび、ぼくはいつもはっとした。

ここには、めくるめく冒険はない。ただ「ぼく」はゲイで、友人はエイズで死んだということ。
街は生きている。だがマンハッタンの、ひとつの細胞が、死んでしまった。この都市が巨大な蜂の巣だとすると、ひとつの房が無人になってしまった。ぼくらはあまりにも死亡広告に慣れすぎ、それは文学のひとつのジャンルにさえなっている。それに三十人目の友人の死は、初めてのそれより衝撃が少ないのはいなめない。最初のショック、混乱、非難、感覚の鈍化、そんな段階を過ぎていっても、消えないことがひとつある。これからも死の知らせを受けつづけなかればいけないということだ。それには決して終わりはない。
そして、これまでもさりげなく登場した「円( Circle )」のイメージが「ぼく」に到来する。「ジャングルの獣」のように、「回転するねじ」のように、「過去の感覚」のように。
だがコスモは人生を愛していた。自分の肉体をたいせつにしていた。まだ三五歳だった。仕事でも成功していた。まだまだ未来にたくさんの希望を抱いていた。コスモは自分自身も、セックスも、人生も、嫌悪してはいなかった。彼の死が、何らかの教訓を残すことはない。ぼくらはそのことで、生き方を改めたり、賢くなったり、希望を持ったりすることはまったくない。彼の死は、現在進行形の莫大な無駄死にのひとつ、それでしかない。ただみじめで、汚いだけ。
「ぼく」は自分たちが「円( Circle )」を、ただぐるぐると回っていることを知る。自分たちはどこにもたどりつかない。鞍馬の練習をしている青年を見て「ぼく」は思う。
それは進歩の観念のように直線的ではなく、まるで永劫回帰のような円環だ。ホラーランは三島由紀夫を読んだことがあるのだろうか。


アンドリュー・ホラーラン『静かな吊環、そして円環』
Andrew Holleran / Circles from "Ground zero"
(栗原知代訳、徳間書店季刊 SF adventure 冬季号「特集恋する男たち」所収)


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クリストファー・デイヴィス 『ボーイズ・イン・ザ・バー』
「高校のときに、そういうのを”四つのF”っていってたんだ。相手を見つけて(Find'em)、感じて(Feel'em)、ファック(Fuck'em)して、忘れちまう(Forget'em)ってね」
「でも、こいつの場合は、相手を見つけて、ファックされる方だぜ」とテリー。
「当たってる、当たってる!」と別のやつが言った。
「どうして、ゲイだからっていって、ベッドの中ばかりを話題にしなくちゃいけないんだい?」と僕は訊ねた。「奥さんとどんなふうにセックスをするかなんて話を、ストレートの男はけっしてしないだろ」
「でも、おれたちはストレートじゃない」とピーター。「そこがゲイであるってことのいちばんすげぇところさ。セックスについて、堅苦しくしなくてもいいってところがな」
「ゲイであることからセックスを除いたら、何も残らないよ」別の誰かが言った。
「その通り」とピーター。「さっきも言ったように、イッちまったら、おん出すってこと!」
「実際に寝てみなけりゃ、どんな男かわからない」テリーが誰かの言葉を引き合いに出した。
「そんなことばかり言って、本当に好きな人ができたら、なんて言うつもりなのさ」とぼくはピーターに言ってやった。
「いかにも、ロマンティストのジーンらしいな」と誰かが言った。
「愛だの恋だのが、なんだってぇの」とピーター。「おれには巨根のプエルトリカンの少年が一人いりゃ、それでいい」
バーでの彼らの会話は、下品で素敵だ。ここには、愉しい、気の利いたユーモアがいっぱいある。仲間とバーに集まって、猥雑な話題でわいわい騒げるということは、本当に素敵なことなのだ。それは、自分がまだ、そして仲間の一人一人が「元気」であることを確認できる切実な作業でもあるからだ。
一人にさせてほしいだけさ、とこの前ぼくに言った男は、その四ヶ月後にエイズで亡くなった。
この作品は、1987年に発表された。この状況下では、彼らの他愛もない下ネタは、重苦しく悲劇的な現実をなんとか逸らす必死のユーモアである。死の恐怖から逃れるためには、虚勢と軽い嘘で乗りきるしかない。それが彼らの流儀であり、僕たちの了解事項だ。
「踊りに飽きると、よくここに上がってきてセックスをしたんだ」とぼくは言った。「暑くて、汗だくになると、ここに上がってくるんだ。そして、同じように涼んでいるやつを見つけて三十分くらいプレイする。それからまた、下へ戻って踊ったもんさ。時々、その場でお互いに好きになっちゃうと、部屋へ連れて帰る時間が惜しいもんだから、二人でこの先のサウナへしけこんだってわけ」
もう、以前のようなことはありえない。クールな語り手「ぼく」は昔を懐かしむ。威勢の良いピーターも実はロマンティックなやつだった。
ぼくは面食らって、その場から離れようとする。だが、彼はぼくの手首を掴むと「行かないでくれ」と涙声で言う。ぼくは向き直って、まず彼の手を取り、それをいったん放してから彼の体に両腕を回して、しっかりと抱きしめる。ぼくは自分の目に涙がこみ上げるのをこらえることができない。
彼らは心の琴線に触れるような、人間的なひとときを初めて持つ。
そして、
「ぼく、死ぬのが怖いんだ」少し間をおいて、ぼくは言う。
「おれだって」とピーター。
ふたりはハッテン場の公園に落ちているコンドームを見つけ、そこに「時代のしるし」を感じる。


クリストファー・デイヴィス『ボーイズ・イン・ザ・バー』
Christopher Davis / The Boys in the Bar"
(福田廣司訳、早川書房 ミステリマガジンNo.427 1991年11月号所収)
クリストファー・デイヴィスは他にデビュー作『ジョセフとその恋人』 Joseph and the Old Man と『ぼくと彼が幸せだった頃』 Valley of the Shadow が福田廣司氏の訳で早川書房から出ている。
彼はエイズ問題を中心に捉えている作家で、映画『フィラデルフィア』のノベラゼーションも手がけている。

『ぼくと彼が幸せだった頃』にはクラシック音楽がふんだんに登場し、そのリリックな文体と相俟って実に印象的なシーンに溢れている。非常に胸を打たれる。
彼は死ぬ数週間前、シューマンの『子供の情景』を何度も何度もぼくに弾いてくれとせがんだ。今でもよくぼくはその曲を自分自身のために弾いては、彼のことを考える。いつのまにかぼくにとってその曲は、単にぼくの子供の頃の情景ではなくて、ぼくの全生涯の情景となってしまった。

『ぼくと彼が幸せだった頃』p.99


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