「高校のときに、そういうのを”四つのF”っていってたんだ。相手を見つけて(Find'em)、感じて(Feel'em)、ファック(Fuck'em)して、忘れちまう(Forget'em)ってね」
「でも、こいつの場合は、相手を見つけて、ファックされる方だぜ」とテリー。
「当たってる、当たってる!」と別のやつが言った。
「どうして、ゲイだからっていって、ベッドの中ばかりを話題にしなくちゃいけないんだい?」と僕は訊ねた。「奥さんとどんなふうにセックスをするかなんて話を、ストレートの男はけっしてしないだろ」
「でも、おれたちはストレートじゃない」とピーター。「そこがゲイであるってことのいちばんすげぇところさ。セックスについて、堅苦しくしなくてもいいってところがな」
「ゲイであることからセックスを除いたら、何も残らないよ」別の誰かが言った。
「その通り」とピーター。「さっきも言ったように、イッちまったら、おん出すってこと!」
「実際に寝てみなけりゃ、どんな男かわからない」テリーが誰かの言葉を引き合いに出した。
「そんなことばかり言って、本当に好きな人ができたら、なんて言うつもりなのさ」とぼくはピーターに言ってやった。
「いかにも、ロマンティストのジーンらしいな」と誰かが言った。
「愛だの恋だのが、なんだってぇの」とピーター。「おれには巨根のプエルトリカンの少年が一人いりゃ、それでいい」
バーでの彼らの会話は、
下品で素敵だ。ここには、愉しい、気の利いたユーモアがいっぱいある。仲間とバーに集まって、猥雑な話題でわいわい騒げるということは、本当に素敵なことなのだ。それは、自分がまだ、そして仲間の一人一人が「元気」であることを確認できる切実な作業でもあるからだ。
一人にさせてほしいだけさ、とこの前ぼくに言った男は、その四ヶ月後にエイズで亡くなった。
この作品は、1987年に発表された。この状況下では、彼らの他愛もない下ネタは、重苦しく悲劇的な現実をなんとか逸らす必死のユーモアである。死の恐怖から逃れるためには、虚勢と軽い嘘で乗りきるしかない。それが彼らの流儀であり、僕たちの了解事項だ。
「踊りに飽きると、よくここに上がってきてセックスをしたんだ」とぼくは言った。「暑くて、汗だくになると、ここに上がってくるんだ。そして、同じように涼んでいるやつを見つけて三十分くらいプレイする。それからまた、下へ戻って踊ったもんさ。時々、その場でお互いに好きになっちゃうと、部屋へ連れて帰る時間が惜しいもんだから、二人でこの先のサウナへしけこんだってわけ」
もう、以前のようなことはありえない。クールな語り手「ぼく」は昔を懐かしむ。威勢の良いピーターも実はロマンティックなやつだった。
ぼくは面食らって、その場から離れようとする。だが、彼はぼくの手首を掴むと「行かないでくれ」と涙声で言う。ぼくは向き直って、まず彼の手を取り、それをいったん放してから彼の体に両腕を回して、しっかりと抱きしめる。ぼくは自分の目に涙がこみ上げるのをこらえることができない。
彼らは心の琴線に触れるような、人間的なひとときを初めて持つ。
そして、
「ぼく、死ぬのが怖いんだ」少し間をおいて、ぼくは言う。
「おれだって」とピーター。
ふたりはハッテン場の公園に落ちているコンドームを見つけ、そこに「時代のしるし」を感じる。
クリストファー・デイヴィス『ボーイズ・イン・ザ・バー』
Christopher Davis / The Boys in the Bar"(福田廣司訳、早川書房 ミステリマガジンNo.427 1991年11月号所収)
クリストファー・デイヴィスは他にデビュー作『ジョセフとその恋人』
Joseph and the Old Man と『ぼくと彼が幸せだった頃』
Valley of the Shadow が福田廣司氏の訳で早川書房から出ている。
彼はエイズ問題を中心に捉えている作家で、映画『フィラデルフィア』のノベラゼーションも手がけている。
『ぼくと彼が幸せだった頃』にはクラシック音楽がふんだんに登場し、そのリリックな文体と相俟って実に印象的なシーンに溢れている。非常に胸を打たれる。
彼は死ぬ数週間前、シューマンの『子供の情景』を何度も何度もぼくに弾いてくれとせがんだ。今でもよくぼくはその曲を自分自身のために弾いては、彼のことを考える。いつのまにかぼくにとってその曲は、単にぼくの子供の頃の情景ではなくて、ぼくの全生涯の情景となってしまった。
『ぼくと彼が幸せだった頃』p.99