思い出せる限り遠い昔、まだ精神が官能を左右しない年頃においてさえ、私は男性が好きだったという形跡がある。
私は常に「強い性」、男性を愛してきた。それを「美しい性」と呼ぶのが正当だと私は思う。稀なものを犯罪とばかりに糾弾し、人の性向を無理にも矯正しようとする社会が、私の災厄の源だった。
詩人の「白書」はこういう書き出しで始まる。彼の「体験」は、ある意味、多くの同性愛の男性の「体験」とさほど変わらないはずだ。数々のロマンティックな出会い、肉体的なふれあい、情熱と倦怠、そして悲劇と省察。だから大いに共感が持てると思う。
アルフレッドの肉体は私にとって、どこにでもいるような青年の強力砲を備えた若い肉体というより、むしろ、私の夢がとらえた肉体だった。完璧な肉体。船が網具を装備するように筋肉を装備し、四肢は一つの房毛を中心に星と広がるかのようである。女は偽り装うように作られているが、男の中心では、唯一嘘をつき得ないものが身を起こす。
--p.39
ただ、この本の書き手は「詩人」であり、もしかすると「天使」だったのかも。赤裸々でありながら、なんとも美しく印象的な文章。そして逞しくも美しい男たち…ダルジェロス、アルフレッド、「パ・ド・シャンス」、ギュスターブ。
この作品も、他のコクトーの作品同様、詩的なイメージに溢れている。しかもそれらは多分にエロティシズムを喚起する(この本の体裁も、コクトーのエロティックなドローイングを多数掲載している。ペニスは勢い良く勃起し、精液は飛び散る、)。
太陽は自分の役を心得ている昔なじみの恋人である。まず太陽の力強い手が体の至るところに押しつけられる。人は抱きしめられ、がっしりとつかまれ、仰向けに引っくり返される。そして、不意に我に返って私は茫然とすることがあった。下腹に宿り木の珠のように白い液が溢れている。
--p.76
しかし、詩人はやはり人間で、僕たちと同じ悩みを持っていた。
「神父様、私を愛して下さいますか」と私は訊ねた。「愛しておりますとも」(中略)「では申しますが、私は幸福です。ただ、教会にも世間の人にも非難されるような類の幸福なのです。というのは、私を幸福にしてくれるのは友情で、友情とは私にとってはいかなる限界も持たないものだからです」
(中略)「『過度の友情』という言い逃れの手は知っています。でも誰が騙されるでしょう。神が私をご覧です。この坂をどこまで下れば罪なのか、一センチ単位で計れるものでしょうか」
「我が子よ」とX神父は玄関で言った。「天国の私の場を危うくするだけのことなら大したことはありません。神の慈愛は人の想像を超えるものと信じておりますのでね。」
時代はまだ──フランスでさえも──ある愛を罪と見なして、抑圧していた。
神の傑作には謎の歯車があるが、その一つを社会は何かの間違いと見なすので、このような人間が生きることを許さないのである
白蟻の理想はロシアの理想同様、複数を照準と定めている以上、その最高次の一形態を取る単数を断罪するのは、実にもっともなことである。(中略)
社会の悪徳が、私が自己を撓めぬことを悪徳とする。私は身を退く。フランスでは、カンバセレスの素行とナポレオン法典の長命のため、この悪徳によって徒刑場送りになることはない。しかし私は、大目に見ようという扱いは承服できないのだ。それは、愛と自由に対する私の愛を傷つける。
この強い確固とした意思の表明は、軽妙洒脱と思われている詩人のイメージを少なからず変えるだろう。
彼はとても男らしく、そして人間らしかった。
ジャン・コクトー『白書』
Jean Cocteau / Le Livre Blanc(山上昌子訳、求龍堂)