最初、この作品を読んだときは「?」だった。難解なわけではない(と思う)。題名のとおりゲイセックスがかなり詳細に描写されているラブ・コメディ。語り手である「ぼく」は二人の男と付き合い、その様子を語っている。
ジャックはぼくの両足を肩にかつぎ、手の指先に唾をたらすと、それをぼくのアヌスのまわりや、ペニスの先に塗りたくった。ジャックはいきなり中に入ってきて、ぼくのアヌスの筋肉が弛緩するまで、亀頭だけを中に入れたまま静止し、それから一センチくらいずつねじ込んできた。ジャックのペニスは全長二十五センチ、太さ五センチ弱といったところだった。
朝には、シャワーを浴びながら立ったままファックし、その後、たいていリヴィングルームのカーペットの上で、後背位(ドッグスタイル)でやった。
でもそれだけ? と言うのもゲイリー・インディアナは
一筋縄ではいかないテクストを書く作家、そんな風に思っていた。
まあ、ひねりと言えば、彼のセックス・フレンドであるジャックは彼をファックするだけ。つまりトップオンリィの男。もう一人のディーンはセックスに奥手で、絶対に「ぼく」とセックスをしない。しかもディーンは多重人格のような<仮面>を被っているようだ。でも、この設定は何のため?
しかし良く読むと、何となくレトリックが潜んでいるような、別の解釈を可能にするような曖昧な表現が目に付く。
以下は僕の気になったところと個人的な解釈である。
まず冒頭「それは戦前のことだった」。この「戦前」っていつのことだろう。最初は第二次世界大戦のことだと思っていたのだが、そんな昔だったらこの作品に書かれているように「ディスコ」に遊びに行くようなことはしていないだろうし、何より会話に固有名詞「クリントイーストウッド」が出てきて、これは最近の出来事なんだなと想像できる。
というと湾岸戦争? でも、だったらそう書くよなあ。
ここで閃いたんだけど、まずゲイリー・インディアナはいわゆる「ハイ・リスク」の作家だ。そう思うと、この作品でのあまりに具体的なセックス──「ぼく」の付き合っているジャックは、絶対にファックをさせない。そしてもう一人はセックスを躊躇している。
……そう、この「戦前」てもしかして「エイズ・パニック」の「戦前」ではないだろうか。ジャックがアナルセックスをさせないのは、ファックするより、されるほうが断然HIVに感染する確率が高い(と思われていた)からではないか。
そう読んでいくと、「ぼく」とジャックの最後のセックス──「ぼく」は烈しく出血し、ジャックのペニスは、そして二人は血だらけになる──が象徴しているもが何となく理解できる。
血がジャックのペニスの血管にあふれるのが感じられ、僕はどん欲に堅くなったペニスを突き、それから再び抜いた。(中略)ぼくは便通をもよおし、中にあったすべてがめった打ちにあい、糞と血と苦痛と化したように感じた。ついに、かれの精液がまるで手あたり次第に打たれたレーザー光線のように、ぼくの中で噴出した。その奔流はぼくの内臓の壁と突き破った。(中略)
ベッドは湿っていた。ジャックが明かりをつけると、ベッドは血で赤く染まり、ぼくらも血だらけだった。
そしてこれは「戦前」の出来事である。
一方俳優志望のディーンは肉体交渉を何故か避けている。彼とのセックスは「戦後」を待たなければならない。そのとき二人はセックスをする。空き地で、互いに相手を認識せずに……。
ゲイリー・インディアナ『ソドミー』
Gary Indiana / Sodomy(越川芳明訳、白水社『マリアの死』所収)