ぼくの本のなかには、ミシェル・フーコーに認められていないものもありますよ。『犬たち』というサドマゾ小説は、彼に楽しんでもらおうとして書いたものですが、うまく行かなかったようです。ひとことの感想も言ってくれませんでね。この程度の本では、彼自身がもっているサドマゾ的なパワーにとてもおよばないと思ったんでしょう。
あとがき、著者インタビューより
ふうん、フーコーはこの本を歓ばなかったのか。じゃあ、ロラン・バルトは悦んだかも。
だってこの小説、いちおうSM小説なんだけど、マスターとスレイブ間のハードでパワフルで政治的な物語というよりも、スレイブの「ぼく」が、なんだか「政治的な物語」にお尻を向けるような不作法な人物に設定されていし、なによりこの「ぼく」は、ミシュレやプルーストの「わたし」と同じ「覗き屋」だし。つまり「ぼく」って、いろんな意味でニュートラルなんだよね。
とはいえ、このシューマンの音楽にも似た、唐突で斑気な転調と不必要に「女=クララ」が介入してくるギベールの小説を、「僕たち」が愉しめないことはない。なんと言っても、えげつないくらい過激な性描写に、僕たちの血液は身体の真中に集中する。
「むこうを向くんだ」彼はそう言って、ぼくの尻を片手で開きながら、黒くて長くて熱いペニスをいっきょに押しこんだ。オイルでべとべとしたゴムが腸のなかへ入ってくるのがわかる。火傷しそうに熱い。「このつぎには、こいつに熱いハシシのジャムか、冷たいメントールでも塗って、すこしアヌスをうっとりさせてやろう」と言って、首につないだ紐を下に引っぱり、ぼくをうずくまらせた。
p.24
まず、男と女のセックスを「ぼく」が覗き見する。そしてその男と「ぼく」のSMプレイ。その後、女とヤった男と「ぼく」のセックス、さらに今度は「ぼく」がマスターになってのSMプレイ。途中、複数のハンサムの青年たちの「乱交のような」シーンも挿入される。
これって、小説としたら脈絡がなく不自然な展開だけど、これがブラウン管やスクリーンで見るポルノグラフィーだったら、こういったのもアリじゃないかと思う。映像化するとしたら、スタジオは Falcon Studio や Mustang よりも、ストーリー重視の All Worlds Video に向いているかも。
なんだか、この作品って、(皆さんも経験あると思いますが、笑)ポルノビデオを見ながらセックスをしたり、マスターベーションをしている「自分」を想像させる。そういえばこの作品の中にも、意味深な裏箔のある「鏡」(スクリーン)が登場するし。
まあ、断言出来るのは、ギベールの作品はダントツにレベルの高い「ポルノグラフィー」であると言う事だ、なまっちょろい「文学(物語)」なんて目じゃないくらいに。
エルヴェ・ギベール『犬たち』
Les Chiens / Hervé Guibert(佐宗鈴夫訳、集英社)