ソドムの市



監督:パゾリーニ

PIER PAOLO PASOLINI

パゾリーニに関しては、四方田犬彦がタワーレコードの"musee"(後に晶文社の単行本『心ときめかす』に載、とても気持の良いエッセイ集です)に書いたマリア・カラスとのエピソードが心ときめかす。オナシスに裏切られたカラスは、まるでオナシスとジャクリーン・ケネディに当て付けるかのように、マスコミが待機している空港でパゾリーニに抱きつき熱狂的なディープキスをする。メディアは「パゾリーニ結婚か」と騒ぎ、パゾリーニのお母さんは「息子にやっとお嫁さんが来る」と喜ぶ。途方に暮れるゲイの映画監督・・・・。
さらに四方田氏が紹介したドミニク・フェルナンデスの『天使の手のなかで』(早川書房)のエピソードもいい。オペラ界のディーバ、マリア・カラスに向って「僕はオペラが大嫌いなんですよ」!?とほざく。
うーん。やっぱりパゾリーニは大物だ。

それで彼の『ソドムの市』だが・・・これは長いこと好きになれなかった(いまでもそう変わらない)。どうしてもあのスカトロジー趣味には、ついて行けず、嫌悪と不快感を感じてしまう──もちろん嫌悪(不快感)を与えるのが目的の一つであることは承知していが、ペンデレツキのトーン・クラスタ音響と同様、不愉快なことは一度「体験」するだけで十分だろう。
もちろんペンデレツキの「音組織」と同様『ソドムの市』の様々なアイディアには感心すべき点も多く、言外の意味やメタファーを探す「遊び」にも事欠かない。(例えば、『カルミナ・ブラーナ』の使用については、クラシック音楽ファンなら周知のように作曲者のカール・オルフはナチに厚遇されていた、とか、クロソウスキー他引用されたテクストの「意図」は何か、とか)まあ大体、すでに解説の類に書かれているが・・・。

そんなときに、このHPのメインコンテンツ(笑)XXX-FILM の Falcon Studio "NO WAY OUT" という作品を見て、びっくりした。この作品こそパゾリーニの『ソドムの市』のパロディーであり、オマージュでもあった。それどころか、パゾリーニの作品をゲイ・ポルノグラフィー(ハード・コア)として「リメイク」することは、最も正統なやり方で、最もパゾリーニを「理解」していることではないかとさえ思ってしまう。

パゾリーニの作品は多くの解説が(本、HP)あるので、ここでは John Rutherford 監督の"NO WAY OUT" を取り上げることによって『ソドムの市』の概略としてみよう。

"NO WAY OUT"は、まず青年達(少年ではない)がいろいろな場所で拉致されるシーンから始まる。青年達はある山荘に連れてこられ、Travis Wade を首領とするある組織の性的奴隷にされる。まず拉致された青年達を前にして、 Travis はここでの「ルール」を言い渡す。最も重要なルールは、命令されたとき以外のセックスは禁止ということだ。
この作品の特徴は、全体がいくつかのセクションに分割されていて、それぞれに意味深なタイトルが付いている。タイトルは、内容(ここではもちろんセックス)に関連がある。さらにファック・シーンの前には、奴隷の青年達及び組織の連中に対し Travis Wade がタイトルに関連のある「小話」をして性的興奮を高める、という「工夫」がしてある。
一例だけ挙げれば、"OBSESSION"という章では、全裸にされた青年達が組織のメンバー(Travis)の前で四つんばいになって尻を高く上げさせられる。組織のメンバーはどの尻が最も魅力的であるかを話合い、"Best Ass" を選ぶ。選ばれた青年は、ナチ風の軍服を着た Jeff Palmer に調教を受ける・・・・・。

こんな風に、"NO WAY OUT"を見ていくと、ポルノグラフィーを見ていることを忘れて、ニヤリとしながら『ソドムの市』との類似点を探してします。もちろんこの作品はポルノとしても秀逸で、「モード」を変えれば実にエロティックで極め付けのセクシャル・ファンタジーを与えてくれる。 Falcon ブランドの名に恥じぬ傑作だ。
「原典」であるパゾリーニの作品との大きな違いは、残虐性、暴力性、それにスカトロジー趣味が極力押さえられている点だろう。これはアメリカのハード・コアに課せられたコードなのでいたしかたない。アウトギリギリまで冒険をした John Rutherford はやはり優れた映像作家だろう。多分彼も映画が好きなんだろうと思う

それにしてもパゾリーニというイタリアの作家には上半身も下半身も支配されてしまったような(降伏か?)、ちょっと居心地の悪さ(良さ?)を感じる。下半身にグッと来ない映画は、少なくともゲイ映画でじゃねえ、なんて思ったりする、最近


*数ヶ月前の STUDIO VOICE 誌に映画『パゾリーニ・スキャンダル』のレビューらしきものが載っていた。レビューアーはまず、「所詮ヘテロには同性愛など理解できない」などと書き始め、新宿で見た同性愛者はみんな「後ろめたそうな」目をしていた、とか言っていた。この人って結局ゲイが自分達ヘテロより才能があったり、楽しい生活をしていることが許せないだけなんじゃないのか? 「後ろめたい」存在にしたがっているだけではないのか?
こういったホモフォビアの内容もそうだが、レビューにも何にもなっていない記事を載せた STUDIO VOICE 誌の編集ってどうなっているんだろう。1999年11月号では、『ポーラX』について、映画と監督の記事だけではなく、メルヴィルの原作にまで取り上げていた「お手軽ではない」レベルの高さに感心していたが・・・・。
その『パゾリーニ・スキャンダル』の記事が載った号から STUDIO VOICE を買うのをヤメた。

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