梅沢葉子、山形浩生訳 思潮社 |
コクトーはパーティでこんな芸を披露した。横になって服を脱ぐだけでオルガズムに達する。当時彼は五十代だったが、そういう芸ができた。横になると、彼のコックがピクピク動きだして、手を使わずに果てる。映画で使う彼のトリックだった。
──本文68ページより まず帯の文句がそそる 「バロウズと夕食を共にする不穏な紳士淑女たち→アンディ・ウォーホール、スーザン・ソンタグ、テネシー・ウィリアムズ、アレン・ギンズバーグ、テリー・サザーン、C・イシャーウッド、S・ロトランジェ、ルー・リード、リチャード・ヘル、パティ・スミス、デボラ・リーなどなど」 うーん。なんてゴージャスなメンバーだろう。もちろんほとんどの人物が同性愛者あることは当然としても、一癖も二癖もありそうな連中ばかり。彼らの会話が面白くないわけがない。飛び交う毒舌もサイコーだ。 この本は題名通り、ウィリアム・バロウズとの夕食の記録を編集したもので、なによりその気安い雰囲気が身上。例えばこんなふう ●スーザン・ソンタグ、スチュアート・マイヤー、ジェラード・マンガンとの夕食便宜上、話題はいくつかのテーマに分かれている。例えば「書くことについて」「女について」「男について」「ドラッグについて」「サイキック・セックスについて」等。 どこから読んでも面白いし、どの話題でも硬軟交えた絶妙な受け答えが楽しめる。 まあ、バロウズファンなら「書くことについて」は必読だろうし、ゲイにとってはもちろん「男について」が必読! と言いたいところだが、実はほとんどのテーマで彼らはセックスの話しをしている。思弁的なセックス感から、下世話な猥談まで。 セックスは夢の中で満足させるっことができる自然の欲求だ。セックスする時、相手になりたい、相手と一体化したいという願望がどれくらいあるだろうか? ホモセクシャルの場合、相手になるということは二人の関係に極めて大切なことだ。 そういえば、プラトン編集の『饗宴』でも話題は愛=セックス(しかも男同士の)中心だったので、猥談こそ正式なディナーの話題に相応しいと言えるだろう。 最後に。山形浩生氏による訳者のあとがきも、本文に登場するツワモノに負けず劣らず抜群に面白かった。彼の裁判が心配だけど。>がんばってくださいね。 |
河出文庫
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男色の場合、この連絡の役をつとめるのは、先生のおっしゃるA感覚となりましょう。つまり夢の懸橋としてのAなのですね。──そして、それへの外延としては、無機質なものへの憧憬、乃至は相当度の衝撃としてのノスタルジーがみいだされるでしょう。これは存在としての個性をおおう処の翳り、見えざる隈です。詩人の直感がそこを捉えないわけがありません。
──本文232ページより これはシュールレアリスムだろうか、それともポエムだろうか。それはタルホの文章を読んだときにいつも感じる不思議な感覚である。 「夢の懸橋のしてのA」 「A感覚にはつばさがある」 「A感覚はよりいっそう肉体の辺域に在り、且つそこはオフリミッツで、排泄行為に関する滑稽譚の陰におおわれている」 一般に最も卑しいと見なされるセックス、性器、排泄に関するタルホの書いた言葉。なんて優美な文(ふみ)だろう。 もちろんこれら下半身に関するイメージは最初から卑しいものであったわけではないだろう。いつのまにか卑しいものとされ、侮蔑され、定着してしまった「知識」のひとつにすぎない。 ここに何か陰謀めいたものが感じられないだろうか。そう、つまりA感覚に対立する粗野で好戦的な感覚──すなわちP感覚の策略である。 同性愛で問題となり得るのは、同感覚のダブルになるという事ですね。異性的合致は、相手の感覚にたいする盲目感を残します。これはどんな注意深さも役に立たないでしょう。それにくらべると、同性愛の方は、はるかに同情的、共鳴的な悩ましさになる……事は精神的興味に移るわけです。同性感覚の重複する、更に妖しい世界として何事かが展けてくるわけです。つまり複数的興味といったらいいかと思うのですけど── P感覚(そこから派生するV感覚も含めて)は、父権制と手を組んで西欧世界を制覇してしまった。P感覚の勝利は必然的にA感覚の守護者である男性同性愛者の迫害に繋がる。 その思想は、もともと善か悪かの短絡的な二元論から逃れていた八百万の神様を戴くジパングまで席巻してしまう…。 世の中が窮屈になったのはP感覚の独善性からくるものなのかもしれない。相手の感覚にたいする盲目感を想像力で補おうとしない独善性、非寛容。そしてそれは、もともとP感覚の「犠牲者たち」まで洗脳し、今では彼/彼女たち(うーん、P感覚)が、より強行で徹底したP感覚の尖兵になっているのかもしれない。 怒号と憤怒の渦巻くP感覚の文章で、相手を挑発揶揄し、やり込める攻撃的な「セクシャリティ論」。P感覚の限度を「身体でもって」感じ取れない分だけ余計に先鋭になってしまうのだろうか。 こんなときタルホの穏やかで、優美で、おかしみのある、愛らしいA感覚の文章がなんだかとても気持ち良い。 タルホの浮遊するポエティックな文(ふみ)が行き過ぎたP感覚のアンチ・テーゼ(これもP感覚の領域言語かな)になればいいのだけれども……。 そもそもA感覚は最初から心を高揚する飛行機であり軽気球だった。 |