パイドロス
美について

プラトン 著、藤沢令夫 訳
岩波文庫



それは、ものの名前を制定した古人たちもまた、狂気(マニアー)というものを、恥ずべきものとも、非難すべきものとも、考えていなかったということである。
(中略)
神から授けられる狂気は、人間から生まれる正気の分別よりも立派なものであるということを、古人はまさしく証言しているのである。

p.53-54
ある夏の日の昼下がり、アテナイの郊外にあるイリソス川のほとりで行われた二人きりの対話。話題は美と恋(エロース)について──美しい自然に囲まれた舞台設定はそのテーマを見事に際立たせる。
エロスがテーマであっても『饗宴』のようなドギツさはなく、プラトニック・ラブの本質が燦然と輝くばかりに描かれる。とくに翼を持つ魂のイメージ──翼を持つ馭者が翼を持つ二頭立ての馬の手綱を操るイメージ──はあまりにも美しく、その飛翔する想像力には、まったく痺れてしまう。まさに宇宙的な広がりを見せ、イデアへの憧憬を募らせる。

ハンサム・ガイ、パイドロスを悩ましていたのは弁論家リュシアスのパラドックスであった。リュシアスは、恋する者よりも恋していない者に身をまかすべきだ、と、つまり恋愛は有害であると主張していた。その弁論家特有の巧妙な「テクスト」を読むだけで、パイドロスはリュシアスの詭弁に洗脳されそうになる。
無論、そんなことはあってはならない、とばかりに恋愛の達人ソクラテスは、リュシアスの「テクスト」に挑む。

この作品で面白いのは、実際にリュシアスが登場して対話を行うのではなく、リュシアスの「テクスト」について吟味をするという、まるでロラン・バルトのような「読み」(弁論術)をソクラテスがすることだ。まずはその「テクスト」の文体や構成を精緻に調べる。それから「内容」について反論するという変則的な「対決」が行われる。

内容的には、リュシアスの主張する「恋している者は狂気に獲り付かれている」ということに対し、ソクラテスは「狂気」こそが素晴らしいもので、神による贈り物であることを証明する方法を取っていく。

こういった中でプラトンの天才が伺えるのは、一見無関係のような弁論術と恋(エロス)がある時点で結びつくという「はなれわざ」を見せていることだ。すなわちここで翼のある馬(ペガサス)を乗りこなす馭者のイメージ=翼を持つ魂のイメージが天空(イデア)から地上へと降臨する。
それでは、そもそも弁論術とは、これを全体としてみるならば、言論による魂の誘導であるとはいえるのではないだろうか。

p.96
さすがプラトン。他にも、蝉はムーサの誕生に歓んだあまり食べることや飲むことも忘れて歌い続けた人たちが変身したものであるとか、魂が天球の外側に立ち世界を観照するとかいった、忘れ難いイメージが炸裂する。

しかしなんと言っても、この作品のテーマである美と恋(エロス)を翼のある魂のイメージと結びつけた以下の言説が最高であろう。つまり、
魂の翼を潤すためには、恋人(美少年)が放出する美の微粒子が必要なのだ、ということ。


Project Gutenberg による英文テクスト
Plato "Phaedrus"



饗宴
愛について

プラトン 著、森進一 訳
新潮文庫



また、さらにもっと一人前の男になった時には、彼らが愛をそそぐ相手は、少年たちなのだ。そして結婚とか、子供をつくることとかには、本来、心を傾かせもしません。ただ世の習慣に強いられて、やむなくそうするだけのことです。むしろ彼らの心の満足は、独身のままで、男同士で、一緒に暮らしを送るということにある。要するに、男性であったものの半身にあたる男は、少年を愛するものか、それにこたえる少年か、とにかくそのいずれかになるというわけです。

p.52
言わずと知れた、エロスの秘伝書。これはアポロドーロスの取材により明らかになったもので、当時のセレブがアガトン家に集い、愛の奥義をプレゼンした秘密のパーティのドキュメント。テーマは、後年プラトニック・ラヴと呼ばれる男同士の愛。
もちろん饗宴(パーティ)は、メンズ・オンリーだ。

パイドロスのプレゼン
パウサニアースのプレゼン
エリュクシマコスのプレゼン
アリストパネスのプレゼン
アガトンのプレゼン
ソクラテスのプレゼン(ディオティーマからの伝聞より)
ハプニング。酩酊のアルキビアデースのカミングアウト

やがて夜もふけ、エリュクシマコス、パイドロスらは帰宅し、アリストデーモスは寝こんでしまった。しかしアガトン、アリストパネス、ソクラテスは明け方になっても大酒を飲み、語り合っていたということだ。

---- B.C.416,posted by アポロドーロス
『饗宴』の最後で、ソクラテスとアガトンとアリストパネスの三人だけが残って向かいあって座っているとき──悲劇性を喜劇を同じように一身に保つ真の作家について議論している三人のうえに、プラトンが夜明けとともにふり注いでいるのは、彼の対話の醒めた光でなくてなんであろう。その対話のなかで、悲劇性と喜劇性の手前、つまり両者の弁証法以前の純粋な演劇言語がたち現われるのである。

ヴァルター・ベンヤミン『ドイツ悲哀劇の根源』(岡部仁訳、講談社文芸文庫 p.178)



Project Gutenberg による英文テクスト
Plato "Symposium"



イオン
『イリアス』について

プラトン 著、森進一 訳
プラトン全集10 岩波書店



つまり、もしこの対話の中心に、その暗号として入れ子状に置かれているプラトンの対話篇『イオン』が、決定的にひとつの本来的な「対話」でないとしたら、それはおそらく、いかなる対話についても、それが本来的な対話であるか否か、決定され得ない、ということなのだ。

ジャン=リュック・ナンシー『声の分割』(加藤恵介訳、松籟社)

のっけから、ソクラテスはイオンに絡んでくる。その態度はどこかケンカ腰で、プラトンの筆致もかなり辛辣だ。多分、イオンがソクラテス=プラトン好みの美青年でなかったからかもしれないが、原因はそれだけではないだろう。そこには、思想対決……というよりも、もっと卑近な理由が横たわっているような感じがする。

では、イオンとはどういう青年なのか。彼は植民市エピダウロスの人間で、この植民市は、ときにアテナイに忠誠を尽くしたり、ときにスパルタに尽くしたりと、そのときどきの優勢な方の側につく。要するにエピダウロスは、自我独立というよりも、大国の顔色を窺っている風見鶏のような小都市(国家)なのだ。
無論プラトンのことだから、この設定自体(イオンの出自に)、イオンのポリシーのなさを暗示しているのだろう。

そして彼の職業は吟誦詩人で、ホメロスについてはかなり詳しいと豪語している。つまり彼は「ホメロス・オタク」であると自称しているのだが、肝心な点は、彼は、ホメロス以外、例えばヘシオドスや他の抒情詩人に関しては、とりたてて知識がないことを、平然と、恥ずかしげもなく言い放つことにある。そのくせホメロスに関しては一言ありそうなことを無邪気に誇示する。
(ちなみに『イリアス』のスペキュタクラーなストーリーは、今でいえば『エヴァンゲリオン』並みに当時の若者の心を捉えていただろう)

このことにカチンときたのが、真のオタク──あるいは旧世代のオタク──であるプラトン。オタク的教養もなく生半可な知識で、無邪気に知ったかぶりをしているイオンが気に食わないのか、ソクラテスを介して様々な追求がイオンに対して行われる。
(さらにイオンが実際の経験もないくせに「将軍」としても優れているとほざいたとき、従軍経験者であるソクラテスにバジっと面罵される)

まあ、たいてい、オタク同士の「見栄の張り合い」は犬も食わないが、そこはプラトン。意地悪な筆致で、とことん手を緩めず、最後にはイオンの職業、すなわち吟誦詩人の秘めたる実状まで暴き立てる。
つまり吟誦詩人が巧みにホメロスを吟遊できるのは、ホメロスについて無知であるからこそなのだということ──うーん、キツイぜ、プラトン。
それというのも、君が、ホメロスについて口にするさまざまな言葉を語るのは、技術によってでも知識によってでもなく、むしろ神の特別の恩恵をうけて、つまり霊感に占有されることによってだからなのだ。それはちょうど、コリュバンテスの信徒たちが彼らのとり憑かれている神に関係のある詩句だけは、鋭敏に感覚し、その詩句に合うように、踊る身振りにも語る言葉にも窮することはないが、それ以外の詩句には無頓着であるのと、事情は同じなのだ。

p.136
コリュバンテス教というのは、言ってみればカルトのようなものであって一時的な流行にすぎない。ここでプラトンは、なぜ吟誦詩人が「もてはやされる」のかを、非常に巧な「比喩」(磁石の比喩)によって語る。

それによれば、まず神々から「狂気」が「詩人」に与えられる。それが吟誦する「吟誦詩人」にのりうつる(伝染する)。そこからさらに「聴衆」へと「狂気」がのりうつっていく──さながら磁石(マグネシアの石)に引き付けられる(惹き付けられる)指輪や鉄片が、次々に繋がっていき、「鎖状」なるように。この比喩、最高だ!

ここでプラトンが物凄いのは、気に食わない吟誦詩人イオンに対する当てつけにだけ終わらず、「詩人そのもの」までも批判するに至ってしまったことだ。この「詩人批判」は『国家』においてさらに吟味される。

そしてこの「詩人批判(芸術批判)」がときとして問題になり──攻撃されるのだが、それについてジャン=リュック・ナンシーの見解を引いておこう。
しかしそれは単純に他者を哲学者に従属させることを目指すわけでない。それは、より屈折して決定不可能な仕方で、哲学者が他者の領域でより優れていることを、あるいは彼が他者の真理、したがって他者自身がそれに属している真理であることを、示すことを目指すのだが、それはあくまで、この真理が彼の真理である限りにおいてなのである。それゆえ、哲学者もまた、彼が専有するものに、この他者の真理に、そしてこの他なる真理に従属する。

ジャン=リュック・ナンシー『声の分割』p.53



Project Gutenberg による英文テクスト
Plato " Ion "



ヒッピアス(小)
偽りについて

プラトン 著、戸塚七郎 訳
プラトン全集10 岩波書店



たとえ偽りにせよ、口にした悲しい言葉は、それによって悲しみを伝え、われわれに悲しみを注入する。

マルセル・プルースト

この『ヒッピアス(小)』は一等の問題を孕んでいる。それは議論の結末が、故意に悪事を犯す者が「知恵者」である、と導かれてしまったからだ。
言うまでもなくこれは、今までのソクラテスが示してきた(闘ってきた)考え、つまり「自ら進んで悪をなす者はいない」、よって「悪を成すのは無知のためである」ということにまったく反している。
ソクラテス ヒッピアス p.108-109
だからこそ、皮肉なことに──この不本意な結論にもかかわらず──この対話篇がプラトンの真偽問題から免れている。それは、この矛盾したショッキングな結末ゆえ、アンチ・プラトンの立場を取るアリストテレスの格好の批判の的となり、そのアリストテレスの言及により、本作『ヒッピアス(小)』がプラトンの真作であると認められるのだ。

議論は非常にシンプルに進む。テーマは「偽り」(の「意味する」もの)。対決相手はヒッピアス。プロタゴラスやゴルギアスと同じ煽動的なソフィストの一人。しかし解説によると、彼は自称「最高の知者」であるものの、プロタゴラスやゴルギアスと比べ、オリジナルな精神の持ち主ではなかったということだ。

この「オリジナル」ではない、それなのに、ある意味バブリーな人気を誇る「ソフィスト」相手の議論は、もしかするとそれ自体、皮肉で諧謔的な──ときに詭弁のような──内容及び効果を、作者であるプラトンが狙ったのかもしれない……と解される……ようだ。

が、しかし、個人的には、この短い対話篇を読みながら、いつものようにプラトンの巧みな比喩とドラマティックな展開に引き込まれていくうちに、この作品が投げかけている問題の鋭さ、深さ、危うさに気がついた/気づかされた──まさに予言的だ。

プラトンが示したこのパラドックスは、決して諧謔的なものを目指しただけとは片付けられない、それどころか、21世紀のこの現在、不正を「意図的に」働いていることを表明している卑劣な行為/グループが見うけられるからだ。

ある「やおい」関係者は、人権上問題となり回収された差別的な本の一部をWebに転載し、悪意あるコメントを載せた。問題は、「やおい」関係者が、その本が回収されたことを十分理解していたことだ──それをわざわざ表明している。
つまりその「やおい」関係者は、「無知」からくる行為を犯したのでは決してなく、「意図して」他者を傷つけることを最初から狙った「卑劣」な差別行為を働いたのだ。
──彼(ら)は「偽りの行為」によって、同性愛者に対し、悲しみを注入した。
言論を統制する全体主義の国々でも、むろん、ジョークが存在する。権力者の側からは、それはプロパガンダの武器として用いられる。この笑いの犠牲者とされるのは、政治的・社会的な弱者や少数者、さらには敵視されている外国の存在などである。ナチ・ドイツでは、ユダヤ人を誹謗するジョークやスローガンが多く用いられた。

宮田光男『ナチ・ドイツと言語』(岩波新書、p.130)

他者を愚弄し、笑い者にすること──それが「やおい」の世界で称賛される行為(品性)なのだろうか。その「やおい」関係者は何か特別な権力を有しているのだろうか。他の「やおい」関係者や作家は、そのことに<一緒になって>迎合しているのだろうか。
……「妄想」という免罪符の下、侮蔑的な発言(コメント)を発している──注入している──「主体」はいったい何なのか。
ニーチェ風に言えば、そのような奴隷道徳は、そのように奴隷状態で「存在する」ほうが、まったく「存在し」ないよりはましだという沈着な打算にもとづいているのかもしれない。しかしながら、存在するかしないかの選択を強いる条件は、それとは異なる種類の反応を「呼び起こす」。どのような状況の下で、ひとつの法がそれほどまで徹底的に存在についての条件を独占するのだろうか

ジュディス・バトラー「良心がわたしたち皆を主体にする」
現代思想2000/12(井川ちとせ 訳、青土社)

結局、プラトンがこの対話篇で投げ掛けた問題──「偽りの人は能力のある者である」という命題が肯定されてしまう事態は、プラトンの「理想国家」ではない「現実の国家」では、宿命なのだろうか。

だが、不正行為について言えば、その動機となっている品性の不正が大きくなるほど、不正行為もより大きい。それゆえ、外見はごく些細な不正行為が最も重大な不正行為となることもあるのである。

「より大きな不正行為」p.139
アリストテレス『弁論術』(戸塚七郎 訳、岩波文庫)




ティマイオス
自然について

プラトン 著、種村恭子 訳
プラトン全集12 岩波書店



一方、より幼児的な薔薇十字団には、突如として出現しては消滅してしまうヘルメス的な軽捷さと錬金術的組合せの変化を好むメカニズム嗜好がある。

種村季弘『薔薇十字の魔法』(河出文庫)p.35

ポパーなんかは『国家』や『ゴルギアス』あたりの政治的態度に対してプラトンの「いかがわしさ」を表明しているけど、やっぱり「いかがわしい」といったらこの『ティマイオス』でしょう。
プラトンの「神学」というか「宇宙論」というか、まるで「SF(サイエンス・フィクション)」……まあ、よくぞここまで宇宙の生成を「もっともらしく」「いかにもありそうに」「真実らしく」語れるもんだと思う。

そのため、古今の「いかがわしい」研究者の間でこの『ティマイオス』は人気抜群。キリスト教も正統異端を問わず『ティマイオス』を換骨奪胎してきた。 (ちなみにラファエロの有名な『アテネの学堂』でプラトンが抱えているのは『ティマイオス』だ。しかも片手で天上を指差し、本も「垂直」に持っている。これに対しアリストテレスは手も本も「水平」になっている)
魂はプラトンの「世界霊魂」になぞらえて球形と考えられていたが、現代人の夢のなかにも同じシンボルを見ることができる。この古いシンボルの起源をさかのぼれば、すべての「イデア」が貯えられているプラトンの「天外の清浄界」という宇宙空間にまで達するであろう。したがってUFOを、単純に「魂」と解釈して一向にさしつかえない。

G.G.ユング『空飛ぶ円盤』(松代洋一訳、ちくま学芸文庫)p.31
「物語」はとても面白い。何よりとても美しいし、「宗教」と違って、徹底的に理詰めで、数学的な裏付けを何より重視しているし。
いや、発想が違うんだよな。宇宙は美しく善くなければならないから、それを語る「言説」も美しく善くなければならない、そのためには──(イデア界ではない)現実社会では──数学的(幾何学的)でなければならないと。

プラトンによると宇宙(コスモス)は、「製作者」(デーミウールゴス)が、イデアを参考に造ったものだという。重要なのは、宇宙はイデアを「模した」「似像」であること。そのため、その「説明」は、それを語る「筆致」は、「真」ではなくて、「もっともらしい」「真実らしい」という限界を持っていること──これが「聖書」や「聖典」なんかとはっきりと分かつ線を引いている。

(要するに「無矛盾性」を重視しているということだ。なんとなく法月綸太郎の『初期クイーン論』を思い出した。そこからテクネーやミュメーシス、視覚/視点といったプラトン的な考えで「本格ミステリ」を論じることは出来ないだろうか……神埼繁の『プラトンと反遠近法』を読みながらそう思った)

だからこそ、その筆致は異様に整然とした「美」「善」を孕みながら、しかし、道徳や掟を理由もわからないまま強要する宗教的聖典と違い、実に稚気溢れる楽しいものになっている。 まるで子供がプラモデルを組み立てるような感覚で、万物が生成されていくのだ。

その際、数学的な比率によって万物が造られる/万物が説明される/トランスフォームされる。「時間」も人間も人間の臓器も……。つまり生成の「素材」が土、火、空気、水で、それらを「ありそうな言説」に置き換えると、それぞれ、正六面体、正四面体、正八面体、正二十面体になる。その「素材」の振舞いや組合せで様々な事象を説明する。

例えば、身体とともに魂を暖めるものが「酒」。視線を拡張する性質を持ち、見た眼に輝かしく、光ってぎらぎら見えるのは「油の類」。そこから派生して個々の蓖麻子油やオリーブ油が存在する──まるでC言語の「構造体」のような、さらにもっと進んで固有の「イベント」を持っている「オブジェクト」「クラス」を作成しているような感覚に近いものがある。
……『ティマイオス』は「オブジェクト思考」を先取りしてないか?

気に入った例を。もちろん男性器の「振舞い」を説明した部分。
そして、このようなしだいですから、神々が、性交に対する欲望を考案したのも、ちょうどこの時になってのことなのです。
(中略)
だから男の場合、その隠しどころの不従順で我がままなことは、まるで言葉を聴き入れない動物のようなものでして、その狂暴な欲望のために、あらゆるものを征服しようと試みるのです。

p.176

プラトンによると、人間は、男にも女にも動物にも魚類にも変化する。流転する。
……万物はまさに、n sexes。これこそまさに、悦ばしき智慧=Gay Science
こういった宇宙は──理性の似像たる宇宙は、この上もなく偉大で、最善であり、最美であり、まったく完全なものなのだ。