エウテュプロン
敬虔について

プラトン 著、森進一 訳
世界古典文学全集14、筑摩書房



それではいったい、どういうことに関してわたしたちが不一致をみた場合、または、どういう種類の決着にもわたしたちが到達できない場合、わたしたちは、お互いに敵になり、お互いに腹を立てあうのだろうか。
(中略)
つまり、不一致をきたす問題は、正しいことと不正なこと、美しいこと、醜いこと、善いこと、悪いこと、に関してだとしていいかどうか。どうだね、こうした事柄こそ、それがわたしたちの不一致の対象になったり、それについての充分な決着にわたしたちが到着できなかった場合、わたしたちがお互いに敵となるような事柄なのではないだろうか。いやしくもわたしたちが、互いに敵となるような場合があれば、いつでもね。わたしも、君も、その他一切の人人も含めての話だよ。

p.286-287
裁判所へ向かう二人の男──ソクラテスとエウテュプロン。しかし二人の立場は見事に対照的だ。一方は起訴された者として、もう一方は起訴した者として。

言うまでもなく起訴された男はソクラテスで、「善良な自称愛国者」メレトスによって、「青年たちに悪影響を及ぼした」という「不正」により告発された。
何しろ当人(メレトス)の主張によると、青年たちがどんな風にして悪い影響を蒙ったか、また誰が青年たちに悪影響をもたらしたか、それがわかっているというのです。

p.280
「青年たちへの悪影響」という──ひどく曖昧で、抽象的な──申し立ては、現在ならば「子供たちを守るため、セキュリティのため」と言い換えられだろう。被告人ソクラテスも、こういった告発を「心なき人の告訴ともいえない」と認めている。すぐれた農夫がなによりも「若い芽を心配」するのと同じように、「国事の正しい第一歩」とは、まず最初に「青年たちを気遣うこと」なのだから。
そして、彼と同年輩の若者たちに悪影響を与えているようなわたしの愚かさを、しかと見届けたものだから、(メレトスは)わたしを訴えてやろうと、まるで母親のもとへ駆けつけるように、国事の前へ進み出した唯一の人とも思われる。
(中略)
だから、恐らくメレトスにしても、彼も主張しているように、青年の若い芽に悪影響を及ぼしているわたしのようなものを、まず初めにとり除こうとしているのでしょう。

p.280
このソクラテスの話を聞いたエウテュプロンは、危惧を表明する。メレトスの「正しさ」は「反対の結果」をまねくのではないかと。
というのも、彼は、あなたに不正を加えようと試みながら、何のことはない、国家の、それも心臓部に危害を加えかけている、私にはそんな風に思われるのです。

p.280
では、一方、エウテュプロンは、誰を、どんな「不正」で告訴しているのか……彼は、自分の父親を殺人の罪で告発したのだ。エウテュプロンの父親は、召使を殺した「日雇い使用人」を縛りそのまま溝に放置しておいた──取るべく処置をアテネイの指導者に窺うために。しかし、その間、使用人は飢えと寒さで死んでしまった。正義感の強いエウテュプロンは、身内である父親を殺人罪で告訴した。が、そのため、エウテュプロンは父親や家族から非難されることになる……。
ここにはいくつかのジレンマがある。 ここから、何が「敬虔」であり、何が「不敬虔」であるのかという議論に移る。そもそも「敬虔/不敬虔」あるいは「正/不正」とは何であるのか。
そうすると、神々にしてもまた、かりに彼らが、じっさいに君の説通りに、正しいことと不正なことをめぐって仲間争そいをするとすれば、人間の場合と同じことが彼らにもあてはまるのではないだろうか。つまり、お互いに、甲の方は、乙が自分に不正を働いていると主張し、乙は、それを否定しているのではないだろうか。

p.289
もちろん、ここで確認されるのは、不正を働いていながら裁かれないことはありえない、つまり不正は裁かれるものであること。問題は、では、誰が「正義」を所有し、自分の「正しさ」を主張できるのか、ということだ。意見の相違は、敵対する両者が、それぞれに自分の「正しさ」を主張し、相手を「不正」と見なすことに起因する。
むろん論争する者が論争しているのは──それが人間であれ、神々であれ、もっとも神々も論争するとしての話だが──、エウテュプロン、わたしは思うに、なされたる個々の行為にかぎってのことなのです。すなわち、何らかの一つの行為に関して彼らは意見を異にしながら、一方のものは、その行為が正しく為されていると主張し、他方のものは、不正になされていると主張しているのです。

p.289
様々な意見を交わしながら、議論は、結局、自分たちが「敬虔なるもの」についてどれほど「無知」であったのかが明らかになる。だから私たちはもう一度、「敬虔なるもの/そうでないもの」あるいは「正しさ/不正」について──臆断を排除して──考察しなければならない。
何が正しく、また何が美しいのか? われわれは決して正しさや美しさを見ない、むしろ、いつも個々のものを美しいとか正しいとかと呼んでいるにすぎない。

ニーチェ『プラトン対話篇研究序説』(戸塚七郎訳、ちくま学芸文庫)p.64



Project Gutenberg による英文テクスト
Plato "Euthyphro"