世紀末の群像
イエロー・ブックと世紀末風俗

山田勝 著 / 創元社



黄色を敢えて使用したのはジョージ四世が摂政皇太子として活躍した十九世紀初期の華やかな時代(黄色が隆盛した時代でもある)を甦らせ、モラルと精神主義のために沈滞したヴィクトリア時代の風潮に活を入れることを目的としたのであるが、世紀末の黄色といえばむしろフランスの俗悪大衆小説のカヴァーを連想させる面の方が強く、復古趣味というよりは最新流行のヨーロッパ・デカダンを匂わせることとなった。

p.38
「昔の俗悪雑誌」っていうのは、どうしてこんなにカッコよく魅力的なんだろう。例えば『ブラック・マスク』。小鷹信光編『ブラック・マスクの世界』(国書刊行会)に多数載っている書影の印象的なこと。慎ましく肌を露出した金髪女と銃を持った男のイラストが大半であるが(いまさら「精神分析」を持ち出すのは恥ずかしいのでこれ以上は言わない)、その大胆でワイルドな筆跡が妙に趣きのある「アート」になっている。
また
『Physique Pictorical』。「ゲイ雑誌」の存在が許されなかった時代の「ゲイ・ポルノグラフィー」。現代のポルノを見なれた目には、こんなんじゃぜんぜんヌケないが、その代わりまったくの「アート」として素晴らしい価値を見出せる。

多分両者とも当時の「コード」ギリギリで暴力表現や性表現を行っているのだろう。だからこそ、そこに芸術性を帯びる余地が生まれるのかもしれない。

イギリス世紀末に一世風靡した『イエロー・ブック』は「俗悪雑誌」というよりも、「俗悪」を戦略として引きうけた──偽悪的な雑誌であるが、その志の高さ、美的洗練さ、ダンディーさは他に類がなく、ビアズリーの俗悪なイラストで縁取られたまさしく「芸術品」だ。「現代の雑誌の見苦しさを嘆き、全く新しい、そして価値ある雑誌を出版」しようと集まった人々──文芸担当編集主任ヘンリー・ハーランド、副主任エラ・ダーシー、美術担当主任オーブリー・ビアズリー。あえてオスカー・ワイルドを除外したが、出来たものは「ワイルドの幻影を感じさせるものであった」。

この山田勝による『世紀末の群像』は、イギリス世紀末の象徴的雑誌『イエロー・ブック』を紹介しながら、当時の文化風俗研究を様々に論説する。
何より興味深いのは、オスカー・ワイルドやビアズリーといったスーパー・スターよりも、現在ではほとんど忘れられている群小作家──つまり「脇役」が多く紹介され(小説の粗筋が載っている)、そこから世紀末イギリスの本質がより重層的に浮びあがってくることだ。しかもそれらの小説は案外面白いストーリーを持っている。

とくに「欲望と犯罪」を論じた章では、お馴染みのシャーロック・ホームズ、切り裂きジャックを導きの糸に、『イエロー・ブック』における「犯罪小説」の傾向について書かれており、個人的に興味を引いた。
そしてここでもワイルドの発言が光っている。ワイルドは「毒殺の美学」を説き「血を見る殺人よりも、はるかに美的」という名言を残しているのだが、そういえばクリスティ作品は毒殺が多いし、ジョージ・オーウェルも『イギリス風殺人の衰退』というエッセイで毒殺の意義を説いていた、またグレアム・ヤングという愛すべき毒殺魔がいたし、やっぱり毒殺はイギリスの伝統芸の一つなんだな、と改めて納得がいった。

『イエロー・ブック』では不在のはずのワイルドがそこかしこに現われる。それは『イエロー・ブック』の目指したものが「ダンディズム」だからである。著者によればダンディズムとはある意味「愚か者」の思想態度であり、そしてダンディーこそ真の弱者であるということだ。
新興ブルジョワがその「新興である」という「後ろめたさ」を払拭するために、真面目であることを目指し、その結果、教会権力と結びついた極めて窮屈な精神主義を社会の隅々に強要した。その偽善的な「精神主義」に対し、ダンディーは、真っ向から反旗を翻した。少数の彼らは、大勢を敵に回す危険な賭を行った、独自の美意識を掲げて。その教祖的な存在がオスカー・ワイルドである。
ヴィクトリア時代のブルジョワ思想は真面目を信条とした。従ってダンディーは不真面目を装った。労働の尊厳が叫ばれたために、怠け者を自負した。健康は効果的生産のために欠くことのできない美徳とされたために、不健康を採用した。偽善が罷り通っていたために、偽悪を押し通した。

p.24-25
著者はダンディーの時代錯誤的行動を擁護する。それは安易な生き様への警鐘だからである。さらに、民主主義や社会主義は人類にとっての進歩であることは間違いないが、しかし合議主義・平等主義をたてまえとする民主主義は果たして人間の「美意識」を保つことができるのか、と疑問を投げかける。
民主主義や平等主義を公的に批判するのは恐らく二〇世紀のどの国でもタブーに近いものである。誰もがそのタブーに挑戦できないほと絶大な事実であり、巨大な「権力」となっている。民主主義という「権力」そのものは決して悪いものではない。その権力を不正に利用するのが悪なのである。人間の長い歴史のうちに、苦闘の末に勝ち得た民主主義という遺産を食い潰す輩が結果的に民主主義の持つ「善」を危機に曝していくことになる。

p.34



ローマ人の物語T
ローマは一日にして成らず

塩野七生 著 / 新潮社



それにつけても、現代のわれわれが疑いもせずに最善策と信じている二大政党主義は、信じてよいほど最善の策であろうか。現代では最も長命な組織であるカトリック教会は、典型的な抱きこみ方式を踏襲してきた組織である。

p.185-186
ったく、朝っぱらから単調な政党名の連呼=リズム・オスティナート(しかもオバサンの甲高い声)には、朝勃ちの勢いでもう一発、っていう気を萎えさせる。煩い季節の到来……。
なので、これを期に、そしてこの時期こそ、コーヒーでも飲みながら──そういえば最近の研究によれば、コーヒーは精子の活動を活発にするそうな──古代ローマの一大政治ドラマに思いを馳せるべく、この大作を読もうと決心した。

この本は連作の第一作であるから、前書きで著者は、この連作を「書く」想いとそれを読者が「読む」想いを共有しようと呼びかける。それは「なぜ、ローマ人だけが」と考えること。すなわち
知力では、ギリシア人に劣り、
体力では、ケルト(ガリア)人やゲルマン人に劣り、
技術力では、エトルリア人に劣り、
経済力では、カルタゴ人に劣る
ローマ人が、なぜあれほどの大帝国を築き上げ、絢爛たる文化を隆盛させ、しかもそれを長期に渡って維持することができたのか、と。

もっとも僕は、この部分「だけ」を読んだとき「なぜ、ローマ人が」に対する一つ「仮説」を独自に持っていた。ローマ人が他の民族に勝るもの──それはルックスである。現代においても、イタリアほどハンサムが多い国はいない。よって戦隊の存在感も際立つ。だからこそ、美しい人物にアーティストが刺激を受け、それらを象った作品が量産され(ミケランジェロを見よ)、ルネサンスが栄えた。とくに文学や音楽と違って視覚芸術ではそれが著しい。現代でもイタリアが有数のファッション大国であるのも頷ける。

ま、要するに「萌え」ということだが、口ばかり達者なアーティストよりも、素直に自分の「萌え」を素直に表現したアーティストに僕は惹かれる。ハーブリッツしかり、メイプルソープしかり、ヴィスコンティしかり……。

話がずれてきてしまったが、しかしこの『ローマ人の物語』でも僕の惹かれるところはさほど変わらない。精神的にも肉体的にも美しい男たちのドラマは僕を夢中にさせる。
第1巻であるこの本は、帝政以前のローマであり、必然的に当時の先進地域ギリシアのエピソードも多く登場する。あのペルシア戦争におけるマラトンの戦いやスパルタ軍によるテルモピュレー死守の挿話は、胸躍らせると同時に泣けてくる。
思えば、僕が世界史に興味を持つようになった契機──藤子不二雄のマンガ『T・P(タイムパトロール)ぼん』でも、マラトンの戦いを扱ったエピソードがあり、子供心に感動した覚えがある。

もちろん、言うまでもなくこの本は、単なる歴史物語や講談の類ではない。見事に感動的に語られるドラマから、思索への想いが常に通低している。「なぜ、ローマ人だけが」というモティーフが。
著者はローマの歴史を語りながら、様々な示唆を読者に与えてくれる。本書を読むことによって、確実に多くのことを学べる。例えばローマ人の宗教感について。ディオニッソスによれば、ローマを強大にしたのはその宗教感であった。ローマは異教徒とか異端の概念には無縁で、戦争はしたが、宗教戦争はしなかった。
一神教と多神教のちがいは、ただ単に、信ずる神の数にあるのではない。他者の神を認めるか認めないか、にある。そして他者の神も認めるということは、他者の存在も認めることである。マヌの時代から数えれば二千七百は過ぎているのに、いまだにわれわれは一神教的な金縛りから自由になっていない。

p.46
重要なのは「一神教的な金縛り」から自由になることで、その自由な視点からローマの歴史を見ることである。そしてこの「一神教的な金縛り」とは宗教だけに限らない。つまり、現代の(唯一最高の政体だと信じられている)「民主主義」という「視点」から、ローマの王制や(ローマ独自の、現代アメリカやフランスとは多いに異なる)共和制、帝政を軽々しく判断してはならない、ということだ。

日本は、宗教的な「縛り」からは多分他の国々よりも自由でいられるかもしれない。しかし、「民主制」という──プラトンによれば、取りたてて大したことのない、ただ一つの政体に過ぎない──「縛り」から自由になるのは、案外、難しいと思う。



ギリシア人の教育
教養とは何か

廣川洋一 著 / 岩波新書



さらにまた、[父祖たちの考えでは]数多くの事細かな法律があるということは、その国家の政治が悪いことのほかならぬしるしなのである。なぜなら、かかる国にある人びどは違法から身を守るために、やむを得ず多くの法律をつくらねばならないからだ。
これにたいして、善き政治が与えられている人びとは、彼らの[市にある]歩廊の列柱を法律であふれさす必要はいささかもない。彼らはただ、その魂(精神)のうちに正義を抱きさえすればよいのである。というのも、国家が立派に治められるのは、けっして法律によってではなく、良習・人倫によるものだからだ。

p.172 イソクラテス『アレオパゴス会演説』より
ギリシア人における教育の理念/目的を通して、「真の教養とは何か」を提示する好著。全体は三部に分かれており、序論の「人間教育としての一般教養」、第二部、第三部はプラトンとイソクラテスの教育理念をそれぞれ詳説し比較検討する。

古代ギリシアでは、一般教養(パイデイアー)は、人間としての「善さ」を獲得するために必須の知恵であり、この「教養」のあるなしこそが、人間あるいはギリシア人と他(野獣、バルバロイ)を分け隔だつものであった。ただし、教育の目的は同じでも、具体的な内容、方法的手段にはいくつかの流派めいたものがある。それがこの本で展開される二つの流派、すなわち、幾何学・数学など厳密な学問を修めることに主眼を置くプラトンと、話す能力、文章をつくりなす力に重点を置くイソクラテスの理念の差だ。

この二人の違いは、おおざっぱに言えば、まさに理系と文系で、プラトンが幾何学以外に重視する「音楽(技術)」は実に数的なものであるし、イソクラテスの「法廷演説」はやはり文系のものだと言える。同じく「学校」を作って教育熱心だったプラトンとイソクラテスは、教育方針が違うものの、良きライヴァルであったことが窺える──イソクラテスもソクラテスの影響を受けたそうだ。

プラトンの教育プログラムは『国家』等で広く知られているが、イソクラテスに関してはほとんど知らなかったので、とても興味深かった。なるほど、まさしくプラトンの「カリキュラム」と対照的だ。
しかしイソクラテスは、確かに、同時代のソフィストと同様に弁論・修辞術を重要視したが、彼の理念で際立つのは、その論旨の中に倫理性が強く窺えることだ。利得よりも徳の見地からの立論──イソクラテスの教育・教養は言論の練磨を通しての徳の形成であり、その言論こそが教育的言論、真理のための言論と呼ばれる。「善き言論」は「善き思慮」のしるしである。

人間が端的に人間として善くあること──農民としてでも、技術者としてでも、経済人としてでもない。そういった人間としてのあり方を目指すことこそが、ギリシア人の教養・教育の理念(パイデイアー)なのだ。



経済学者たちの闘い
エコノミックスの考古学

若田部昌澄 著 / 東洋経済新報社



この例(ライオネル・ロビンズへの評価)にあるように、ケインズのすごさは、徹底した理論志向が徹底した実践志向を裏打ちしていることである。「真摯な知性人」であるケインズは、ありもしない空想的な理論から現実にある理論を批判するという、無責任な態度は決してとらなかった。彼はまず従来の理論を限界まで使い、それで駄目ならば新しい理論の構築に向かう。これまでの理論では通用しないと思ったら、別の新しい理論を構築すればよいだけである。『貨幣改革論』では古典派的思考法に基づきながら、そして『貨幣論』ではヴィクセルの議論を若干とり入れながら、ケインズは政策提言にあたって、たとえ不完全かもしれないが常に理論の裏づけを求め続けてきた。

p.238 

最高にエキサイティングだった。今年のベストはもう既に
小泉義之『生殖の哲学』に決めてしまったが、この『経済学者たちの闘い』も、今年読んだ中でベスト級の本だと言いたい(あー、学生の頃、この本を読んでいたら、もっと「経済学」を熱心に勉強したんだけどなあ)。

この本を一言で言えば、「経済学」の復権である。アダム・スミスから現代のアマルティア・セン、ポール・クルーグマンの「理論」を「歴史学的」に紹介しながら、現在の日本及び世界の経済問題を鋭く突く。重要なのは「歴史」に学ぶこと、そして歴史から学ぶ「視点」を養うことだ。「古典」がこれほど示唆に富んでおり、素晴らしい「思想」を有していることに──本当に──感銘を受けた。

「読み物」としても無類に面白い。有名な学者以外にも、ジョン・ローやリチャード・カンティロンといった、ちょっと怪しげな人物のエピソードも実に楽しい。そこから経済学者としてのデイヴィッド・ヒューム、天才の名に相応しいデイヴィッド・リカードウ(ユダヤ人であり、ロスチャイルドと張り合ったという)、ボルボと並ぶ最高のスウェーデン産クヌート・ヴィクセル、そして御大アダム・スミス、シュンペーター、ケインズへと議論が展開していく(マルクスはほとんど言及されない、潔い)。

序論及び第9章「経済学者は冷血動物なのか?──J・S・ミル対反経済学者たち」で、「経済学」に対する「不幸な常識」が示される。 実は僕も学生の頃、経済学の「理論」(ナントカ曲線や方程式)に悩まされ、「経済学」に対してあまり良いイメージを持っていなかった。
だが、この本を読むと、「理論」をきちんと「理解」していないからこそ、安易な情(まさに情報だ)に流されてしまったことを思い知らされる。「理論」あるいは「学」がいかに大切か、そして厳密な理論/学を疎かにした「思いつきの議論」がいかに空疎で「無責任」であるか……それはプラトンによるソフィスト批判でもまったく同様の議論である。蔓延るソフィスト的甘言に対しては、こちらが「知識」を身につけ、抗する他ない。

とくに付け加えておきたいのは、「経済学」を「陰惨な科学」と呼んだ資本主義批判者トマス・カーライルのことだ。カーライルは、「黒人奴隷制」に「賛成」した人物で(アドルフ・ヒトラーもカーライルの「ファン」だった)、「陰惨な科学」という「言葉」は、彼の「黒人問題論」に出てくる。それによると、カーライルは、優れた人種=白人による劣等人種=黒人の支配を「神の意志」として肯定した。
また、それに関連して、ジャマイカの黒人反乱に際し、強硬な弾圧政策を取ったエア総督を擁護したのが、ジョン・ラスキンでありチャールズ・ディケンズといった「文学者」であったことも記憶しておいて良いだろう。

カーライルの「黒人問題論」に異議を唱えたのは、「経済学者」J・S・ミルである。
一八五〇年、カーライルの「黒人問題論」にミルはいち早く反論を寄せている。カーライルのいうのは、神の名を借りた、強者による弱者の支配の復活にすぎない。「もしも神がこのようなものであるならば、その神に抵抗するのが人間の第一の義務である」。

p.153 
このカーライルの「所業」について書かれたデイヴィッド・リーヴィー『陰惨な科学としての経済学の誕生』(David Levy, "How the Dismal Science Got Its Name")は未訳であるが、是非とも翻訳されて欲しい。



エコノミスト・ミシュラン

田中秀臣、野口旭、若田部昌澄 著 / 太田出版



以上のような著者の論法は、世に数多く存在する「ノストラダムス本」を思い起させる。というのは、ノストラダムス本の著者たちが、原本の片言隻句からあらゆる「予言」をこじつけてみせるように、著者は、あらゆる経済現象のなかに、アメリカの狡猾な戦略的意図を嗅ぎとってみせるからである。

p.224 

……というふうに、この本の著者たちは、世に蔓延る「経済学」的迷妄を叩き切る。もう面白いの何の。今一番熱い舌戦が繰り広げられていのは、「経済」においてだろう。
せっかくビジネス・スーツを着て、毎日仕事に出かけているんだから(あるいは将来そうなるのだから)、このエキサイティングな論争に参加……とまではいかなくても「観戦」しない手はない。しかも「経済」の話題だったら、「文学」や「思想」なんかより上司(面接官)の受けは遥かにいいだろうし。
(というより、「差別作家」を非難しない、どころか称揚している「批評家」の存在価値は一体何だ? 何のための「文学」「思想」なんだ? J・S・ミルの「勇気」を見習うべきだ)

この本の構成は、第一部が若い気鋭のエコノミスト/学者による「エコノミスト・ナビゲーション」。ここで現在の経済トレンドをおよそ把握できる。くだけた調子の文章であるが、注は充実していて、もちろん「教科書」としても使用可だ。
第二部は「ブックガイド」。有名な経済書を一刀両断する。重要なのは彼らの使う武器。あたりまえといえばあたりまえであるが、それは「経済学」である。ゆえに返す刀(その批判)で「経済学」の理解がより深まることになる。

いちおう著者たちのスタンスを書いておくと、彼らは「リフレ派」の立場にいる。リフレ派は理論的にはケインズの現代版で、政策的にはまずデフレを克服すべくインフレ・ターゲットを主張している(リフレーションとはデフレーションで下がった物価を戻すこと)。「リフレ」なんていう言葉を使うと新手のイメージがあるが、リフレ派の先駆者には我が高橋是清がいて、昭和恐慌から日本を救った事実は歴史が証明している。つまりリフレ派は由緒正しい学派であり、しかも「経済学」の「学」の部分を決して疎かにしない。

だからリフレ派が、「情」に訴える論壇やノストラダムス的「こじつけ」「陰謀説」に批判……というより、そういったものをバカにしていると同時にそういったものがウケている日本の状況に危機感を抱いているのは、当然であろう。
デフレ=不況は適切な経済政策によって一刻も早く克服しなければならないものなのだ。



マネー敗戦

吉川元忠 著 / 文春新書



貸し手である日本のドル債購入者から見れば、ドルの下落はアメリカという債務者に元利払いの軽減を許したに等しい。プラザ合意の結果は、貸し手から見れば、天から降ってきた徳性令にほかならなかったのである。

p.72-73 

『エコノミスト・ミシュラン』では評判の良くない「マネー敗戦論」であるが、なかなか面白かった。あるいは面白く読まされた、と言うべきか。
確かに、この本では──「敗戦」という題名をより<印象付けるため>にだろうか──戦争のレトリックが多用され、アメリカの「陰謀」がそこかしこに暗示される。そのため、為替変動という政治的な戦略に「負けた」日本が、現在の不況に陥っているのも故ないな、と納得してしまう。つまり、現在の不況こそがある種の敗戦体験と考えればいいのだろう。

そんなことを素直に信じてしまうほど、著者のプレゼンは巧であり、提示される資料も的確である。まず、序論として、ビクトリア時代のイギリスを振り返りながら、「国際収支」について軽くイメージ・トレーニング。このかつてのイギリスにおける「マネー還流」は「歴史的事実」であり、この「事実」を最初にアタマに入れておくことが洗脳……じゃない、著者の主張をより良く「理解」する鍵になる。

そして本論。アメリカVS日本のマネー戦争……勝利は始めからアメリカのものであった、という「物語」に入る。

プレゼンの形態は、1980年から95年までを5年区切りで説明/スライドショーしていく(95年以降もこの本が書かれた時期まで論は続く)。レーガノミックスから85年の「プラザ合意」、日本のバブル経済、バブル崩壊、そしてクリントン政権による日本に敵対的な為替政策あたりの議論を、この5年という区切りで効果的に示す。著者が重要視する出来事は、約5年で変遷する。だからアメリカと日本の見取り図を描くのに、5年区切りはちょうど良いプレゼン・テクニックだと言える。

もちろんこの「敗戦」の20年において、「経済学」側(『エコノミスト・ミシュラン』側)に指摘された、ある種の陰謀論が見え隠れするわけだが、この本はしかし、80年代におけるドイツ・マルクの果たした役割もきちんと論じているのはさすがだと思う。最後のほうで示されるドルからユーロへ目を向けるべきだという金融政策への提言も、違和感なく、スムーズに受け入れられる。上手い。

この本は、現在の日本の不況原因を別な角度から探ったものとしてとても興味深い。というか、これほどまでに「伏線」が張り巡らされていたのに、多くの人が気がつかなかった(何故だろう?)まさに「死角」を突いている。

かつて『インサイダー』誌の高野孟氏は、『国際謀略小説で世界情勢を読む』(別冊宝島「ミステリーの友」所収)で、スパイ・謀略小説の「高い情報性」に注目し、「ただ小説として読むのはもったいない」と書いた。同様に、僕は、このフレデリック・フォーサイスばりのエキサイティングな「経済書」を読みながら、いろいろと勉強になったのはもちろん、「小説」のように楽しんだ、ということを強調しておきたい……。



経済学を知らないエコノミストたち

野口旭 著 / 日本評論社



私見では、「グローバル資本主義」や「市場原理主義」や「グローバル・スタンダード」なる用語は、いずれも分析的意義のない思いつきのスローガンにすぎない。実際それらは、「市場」や「グローバル化」といった言葉が持つ雰囲気を毛嫌いしている人々によって、もっぱら否定的意味合いを込めて用いられている。要するにそれは、反市場主義派=反グローバリズム派の論者が、規制緩和や行政改革あるいは構造改革を唱えてきた人々を揶揄し攻撃するための「合言葉」なのであろう。

p.97-98 

挑発的な書名である。が、内容はいたって真摯な経済学的分析に基づいている。著者は「経済学」の知見によって、トンデモな経済議論を舌鋒鋭く批判する。展開される論戦は素晴らしくホットであり、そこで披露される「経済学」もなかなかエキサイティング。しかも、その論争を楽しみながら、主流経済学(古典派/新古典派、ケインズ派)の理論を学べるというオマケつき。
この本には「リフレ派」という言葉こそ登場しないが、著者の立場は、デフレを克服すべく「インフレ・ターゲット」を主張するリフレ派のものだ。

それにしても、この本を読むと、暗澹たる思いに捕らわれる。マスコミで喧伝される経済議論が、いかに「世間知」という情に基づいた無責任なものであるか、あるいは特定のイデオロギーによる陰謀説めいたものであるか。しかもそれらトンデモ論を披露する方々の肩書きが「エコノミスト」であるという事実(さらに付け加えれば、そういった無責任な「反経済学的」知見は、社会批評や文芸批評なんかの「二次使用」によって益々蔓延っていく。安易な「グローバリズム批判」が好い例だ)。
著者が言うように、医学なき医療は「まじない」であり科学なき工学は「トンデモ」である。「経済学なき経済論議」はいったい何であろう。

確認しておきたいのは、「経済学」、とくに新古典派経済学の「イデオロギー」こそ「厚生主義」であり、「市場」は社会厚生を改善するための「手段」であることだ。

ここ数年話題になった「経済論議」を今一度冷静に、「経済学」の知見で持って振りかえり、そしてそのことによって、現在のエコノミストの発言を──あるいはマスコミの論調を──審査するのは非常に有意義だと思う。だから、そのための「知識」と「センス」を、この本で身に付けたい。