ヨーロッパの誘惑

海野弘 著 / 丸善ライブラリー



この時代のヨーロッパ、と言ったら、この人だ。 「男子専科」──台湾のゲイ雑誌みたいな書名だが、正統派ファッション雑誌(休刊)──に連載されたエッセイをまとめたもので、19世紀末から20世紀初頭(中心は1920年代)のヨーロッパの魅力について、著者ならではのトリビアな知識が綴られる。

話題はファッション/風俗から文学、芸術、映画、ミステリと多岐に渡る。もともとが雑誌の連載なので、気軽に、そして楽しく読めるのは言うまでもない。しかし、その平易で軽妙な語り口の中に、鋭い洞察が光る。
コクトーは、自らの滑稽さを映す鏡を持っているかいないかで軽妙と軽薄を区別する。軽く生き、その軽く生きている自分を映す鏡を持っているのが、詩人の軽妙さなのだ。そのような鏡を持たず、自由にふるまっているようで、実は、体制に順応しているにすぎない生きかたは軽薄なのだ。

p.76
中でも「サイクリング史」に興味を惹いた。自転車の誕生から、ヨーロッパ各地に生まれた「自転車クラブ」、女性の自転車乗り、さらには「健康好き」ナチスによる「ドイツ・サイクリストの日」制定──ナチ政権下のドイツでは鍵十字の自転車用アクセサリーが販売され、タイヤの文様も鍵十字。黒いユニホームを着たサイクリストの大集団がベルリンを走ったという──等など。ジェームズ・マクガーン曰く、自転車は「メンタリティの乗物」なのだ。

また、この本の魅力でぜひ書いておきたいのは、本文もさることながら、添えられた写真やポスターにとても味があることだ。ブーランジェ家に集まったアメリカの音楽家たちの写真、ジャン・デュナンのジャポニスム的絵画、1920年30年代の旅行ガイドのパンフレット、そして当時のポスターの数々。
とくにエドワード・ペンフィールドによる自転車のポスター(前述の「サイクリング史」のところに掲載)がなかなか魅力的だった。無論モデルは男性で、ハンサム、肉体派。



レヴィナス入門

熊野純彦 著 / ちくま新書



生きているかぎり、いつでも(私ではなく)他者が死んでゆく。他者のみが死につづけてゆく以上、(レヴィナスが繰りかえし強調するとおり)私はつねに「生き延びた者」でありつづける。そのつど死者は、その他者ではなかった可能性があり、私であった可能性がある。この私が生きのこることに、最終的には根拠などありえようもない。<私>はただ生き延びて、この場所を、たぶん他者が占めていたかもしれない場所を占めている。

p.200
昨夜、NHKの『映像の世紀』を観た後、再読した。読みながら、オリヴィエ・メシアンの『世の終わりのための四重奏曲』(英題 "Quartet for the End of Time" )のことが過り、聴いた。

この本は、独自の視点でレヴィナスの思想の核心を照射する素晴らしい本である。が、「入門」と謳っているわりに、個人的にはかなり手強かったことは正直に書いておきたい。もともと現象学は──笠井潔の矢吹駆シリーズのファンにもかかわらず──どうも馴染めず、またハイデガーの術語にもついていけないので、当たり前と言えば当たり前なのだが、それにしてもレヴィナスの提示する概念はかなり難しく一筋縄ではいかない。

しかし、レヴィナスの思想を「理解したい」という願望は常にある。そのために、レヴィナスを理解したいために、苦手なフッサールやハイデガーをなんとか「片付けたい」くらいだ。
何故ならば、この本を読んで、レヴィナスの「ある種の感覚」に衝撃を受け、そして共感したからだ。

それは以下の言葉から読み取れる感覚である。著者は、冒頭の引用に続けて、レヴィナスの言葉をしたためる。
「私は他者が死ぬことについて有罪である」
「生き延びた者としての咎において、他者の死は私のことがらである」
エマニュエル・レヴィナスは周知の通り、第二次世界大戦中、ユダヤ人でありながら、「フランス軍所属」であったため、アウシュヴィッツ等の絶滅収容所ではなく、通常の捕虜収容所に送られ、生き延びることができた。このことをもって、レヴィナスが自分の生への「負い目」を思想化したと考えるのは短絡すぎるかもしれないが、しかし何かしらの契機になったのは間違いないだろう。精緻を極める「他者論」やハイデガーへの批判、独特の「身体論」は、確かに非常に難解にもかかわらず、どこか、感覚的に、わかるような気がする。

それは自分が同性愛者で、もし、「時間」と「場所」が、「いま・ここ」でなかったならば、こういったWebサイトに文章を書くどころか、基本的な自由や生存さえも「享受」できないことを知っているからだ。

ナチス・ドイツはユダヤ人と同様に同性愛者も絶滅収容所に送り虐殺した。スウェーデンでは、精神科医の提言によって同性愛者の去勢が実施された。現在でも日本に程近いマレーシアでは、同性愛者を「犯罪者」にしたてあげ、逮捕・抑圧している(しかし日本の知識人と呼ばれる人たちは、ブッシュ大統領やシャロン首相の所業に対しては<逐一、情熱的に>糾弾しているが、マレーシアのマハティールらが率先して行っている同性愛者抑圧には無関心を装っている)。

こういうことを思いながら、レヴィナスの「他者論」の部分を読んでみると、難解ではあるが、感覚的に「わかる」ような気がしてくる。『全体性と無限』から著者が引用したところを、ここでも引用してみたい。
世界の組織のなかでは、他者は無きにひとしい。 だが、他者は私に闘いを挑むことができる、つまり他者を打つ力にたいして、抵抗力によってではなく、その反応の予見不可能性そのものによって対抗しうる。他者が私に対抗するのは、より大きな力によってではない。すなわち、算定不可能であり、したがって全体の一部分をなすかのようなエネルギーによってではなく、この全体にたいする他者の存在の超越そのものによってなのである。この超越はなんらかの権力の最上級ではなく、まさしく他者が超越することの無限性である。この無限が、殺人よりも強く、他者の顔においてすでにわれわれに抵抗している。この無限こそが他者の顔であり、根源的な表出であり、《なんじ殺すなかれ》という最初のことばなのである。

p.145
他者を殺すとは──と熊野氏は述べる──他者をもはや他者ではないもの、たんなる<もの>とすることである。
僕はこの<もの>をもう少し具体的な別の言葉で置き換えたい。ナチスならば<劣等民族>と、精神分析ならば<異常者/病者>と、マレーシアなら<犯罪者>と「他者」にレッテルを貼った言葉に。
「私には<他者>を殺すことができないという倫理的不可能性のうちに、<他者>の例外的な現前が書きこまれている。<他者>は、さまざまな権力のおわりを告げている」

p.146




人間の顔をした野蛮

ベルナール=アンリ・レヴィ 著 / 西永良成訳、早川書房



社会主義は、ものを約束するときには嘘をつき、ものを解読するときには誤り、そしてみずからそう名乗っているところの未来においての選択ではないし、またありえないとも言った。だが、私は今、それにこうつけ加えたい。つまり、そうした間違いをおかしながら、社会主義はまた、それなりの具体的な効果を産み出すのであり、たとえ人間たちに幸福をもたらすことができないとしても、幸福をもたらすことができるのだとあくまでも人々に信じさせることによって、不幸をもたらすことができるのだ。この罠はまた、破局にもなりうるのだ。

p.147-148
「マルクスは死んだ」と高らかに宣言したフランスの新哲学派たち。この本は、かつて新哲学派の法王と呼ばれたベルナール=アンリ・レヴィのマニフェストとも言うべきもので、1977年に出版されベストセラーになったという。いやあ、確かにそのアジテートな文体は凄い。ロラン・バルトもレヴィの「エクリチュール」に魅せられたという。内容は、マルクス主義/社会主義に対する激烈な攻撃。いやあ、熱い。
今、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲を聴きながら、このレビューを書いているが、僕もレヴィの文体に影響を受け、ホットになりそうだ。

新哲学派(ヌーヴォー・フィロゾフ)の人物たち── レヴィ、アンドレ・グリュックスマン、フランソワーズ・ポール=レヴィ、ランドロー、ジャンベ、ジャン=マリ・ブノアなど。彼らには、ある種の共通したバックボーンがある。
彼らの多くは、1968年のフランス五月革命において学生として参加、もしくは政治に目覚める。その後、毛沢東主義を掲げた極左運動に加わるが、「文革」の失敗、ソ連による東欧民主化弾圧(プラハの春など)、カンボジア虐殺事件にみられる第三世界のマルクス主義やユーロ・コミュニズムの欺瞞に対する幻滅、そして決定的とも言えるソルジャニーツィン『収容所群島』のショック。
彼らの怒りはマルクス主義、そしてそれを掲げた「革命」と向かい、厳しい批判を浴びせる……。

そういったことを念頭に置きながら、この本を読んで思ったのは、その激烈な文体も含め、どこか笠井潔の一連の仕事との近似があるのでは、ということだ(レヴィも笠井も同じ1948年生まれ。もっとも笠井は『ユートビアの冒険』で、レヴィと一緒にされたくないと書いているが、グリュックスマンのことは評価しているようだ)。

しかもだ。レヴィは、そこかしこでジル・ドゥルーズを<敵>として強く批判するのだが、これってもしかして、ドゥルーズ思想に影響を受けた浅田彰を批判する笠井のスタンスと近くないか、と思わせる。笠井の「ポストモダン」批判は、「ポモ」なんていう痩せ犬の名前みたいな言葉を使ってキャンキャンと外周で吠えたてている連中とは一線を画く、「腰の据わった」説得力のあるものだ。無責任は承知であるが、僕は、ここにある種の「思想対決」を見てしまう。

話題がずれてしまったが、僕がこの本を読んでレヴィに共感を覚えたのは、(かつての)「マルクス主義国家」と「マルクス主義」に、今でも何かしらの幻想を抱いている人たちに対する苛立ちだ。それはレヴィがこの本の序文で書いているように、僕も「左翼」の「モラル」を信じたいからだ。
すなわち、マルクス主義にたいする闘争は、まさしく、間接的には、マルクス主義という、たんに芳香をただよわせるばかりか、その最も絶妙で、最も陰険な是認をももつこの世界にたいする闘争なのだ、と。

p.209-210
ソ連は周知のように、同性愛者を取り締まり、シベリア送りにした。映画監督パラジャーノフもそうだった。しかし、日本のマルクス主義者たちの<セリフ>は何だったのか? パラジャーノフは反体制だったため<無実の罪を着せられ>収容所に送られた──こんな「文言」ではなかったか。彼らマルクス主義者たちは、「罠に嵌められた」パラジャーノフには同情するが、そもそも「同性愛を取り締まる法律/体制」自体に異議を唱えたか? 「追認」していたのではないか。僕はそんな彼らの「人権感覚」は信用できない。

(だからこそ、こういったソ連の同性愛者迫害を知っているから、僕は、あるフリー・ライターがロシアの作家の同性愛問題を「やおい」と呼び茶化したことに、激しい憤りを感じた。「やおい」はそのもの自体が持つ侮蔑性に加え、シリアスな問題を何かしらの意図を持って「すりかえる」ときにも使用されるんだな、と)

「西欧流の人権」なんて存在しない。「人権」は「人権」だ。何処でも普遍的であるから「人権」なのだ。

現在、同性結婚、同性パートナー制を認めているのは、すべて「自由主義諸国」(あるいは「資本主義諸国」)だ。
<資本>の現実とは何であろうか、と彼は問う。肉体から離れ、交換しうるものであるがゆえに普遍的で、自由主義的であるがゆえに一般的なこの現実は、その二次的性質と具体性の過剰のゆえに軽視された、プラトン的諸観念(イデア)の正確な複製でなくして何であろうか?

p.134
そして現在、マレーシアは同性愛者を取り締まっている──アンワル元副首相もその罪で投獄されている。ブッシュ大統領やブレア首相を「犯罪者」呼ばわりする日本の左翼は、いったいマレーシアが国家として犯している人権侵害に対し、どのような声を上げているのか。
マレーシアという「収容所群島」から、第二の、同性愛者の「ソルジャニーツィン」が現われるまで、待たなければならないのだろうか。
私はまた、この資本主義体制が、体制と人間社会のうちで最良のものであるとも、戦争の合図を使用せずに交換するだけで、この体制が相互理解と、「万事がうまくゆく」式の幸福な社会をわれわれのために用意してくれるとも言わなかった。ただ私は、今日の人間の悲劇や苦しみを理解するには、マルクス主義の理論的道具は使いものにならないことを示したかっただけだ。

p.118




動物化するポストモダン
オタクから見た日本社会

東浩紀 著 / 講談社現代新書



東浩紀の『存在論的、郵便的』は本当に素晴らしく、本当にスリリングな本だった。また、通信傍受法に関する見解など、その発言は注目される。しかしこの本のような「オタク」関係になると、僕自身あまり関心がないので、着眼点の斬新さや論の進め方が良かったぐらいしか感想が書けない。
……のだが、この本では、「同性愛」について、個人的にどうしても納得がいかない「書き方」がされていたので、その点についてだけ、異議申立てをしておきたい。

問題の個所は、以下の部分に続く「オタクのセクシュアリティ」についてのところだ。
精神科医の斎藤環は、オタク系文化の図像がさまざまな性倒錯で満たされているにもかかわらず、なぜオタクには現実の倒錯者が少ないのか、という問いを幾度か提起している。男性のオタクたちがロリコンものを好み、女性のオタクたちが男性の同性愛者が登場する「やおい」ものを好むのは八〇年代から有名だが、その一方で、現実の小児性愛者や同性愛者がオタクたちのあいだで決して多くないこともまた知られている。

p.129-130
まず、ここだ。「その一方で、現実の小児性愛者や同性愛者がオタクたちのあいだで決して多くないこと」。この「小児性愛者」と「同性愛者」の「並列」が論理的におかしい。

それは、もし、「男性のオタクはロリコンを好む」とするならば、「ロリコン」を好む主体は<小児愛の男性かもしれないが、一方、「女性のオタクは<男性の同性愛者が登場する「やおい」>を好む」のならば、「やおい」を好む主体は<女性同性愛者>でない、もしくは<女性同性愛者>である必要は、この文脈からからは判断できない

だってそうでしょう。「男性同性愛者」は<男性同性愛作品>を好むだろうし、「女性同性愛者」は<女性同性愛作品>を好むだろう──「性的指向」は「同性」へと向かう。一方「異性愛者」の「性的指向」は「異性」へ向かう。だから、<レズビアン・ポルノ>を見てマスターベーションするのは「同性愛男性」よりも「異性愛男性」と考えるのがシンプルであるし、<ゲイ・コミック>を好むのは「同性愛女性」よりも「異性愛女性」と見るのが、これまたシンプルであろう。よって、この文脈における「やおい」を好む主体/女性は「同性愛者」であるとする判断は不自然だ。
「その一方で、現実の小児性愛者や同性愛者がオタクたちのあいだで決して多くないこと
だとすれば、この文章に見られる「小児愛者」と「同性愛者」を「並列」させて両者を「否定」するやり方はおかしい。もともと「やおい」を好むのは「異性愛者=女性」なのが明らかなのだから。
よって、この段階で、「同性愛者」を「排除」する必然性はない。
よって、これは東の同性愛嫌悪(ホモフォビア)を露骨に示し、「小児愛者」と並列させることによって、不必要に同性愛差別言説を流布させている。
よって、「同性愛を差別的言説投入可能な領域とみる無自覚かつ犯罪的研究者」(大橋洋一)の相貌が暴露される。

しかしこの東の言説が孕んでいるのは、単なる「同性愛差別」だけではない、と僕は思う。論を進めよう。

この文章が<倒錯>しているのは、オタク男性(<主体>)のエロスの<対象>が<小児>であり、オタク女性(<主体>)のエロスの<対象>が<同性愛者>なのに、否定されているのは/排除されているのは、一方では、<小児性愛者>という<主体>なのに対し、もう一方では、<同性愛者>という<対象>だからだ

もし、「論理的」に正しく書くのなら、
1) 「その一方で、現実の<小児>や<同性愛者>がオタクたちのあいだで決して多くないこと
もしくは、
2) 「その一方で、現実の<小児性愛者>や<女性>がオタクたちのあいだで決して多くないこと
になるはずだ。

この東の発言から「論理的に」導かれる(2)の文章に注目したい。 これまでの説明で、東の同性愛嫌悪は明らかだが、さらに彼の「無意識」の言説から暴露されるのは、オタク=男性の<ホモソーシャル性>だ。

ホモソーシャルが孕む問題とは──イヴ・コゾフスキー・セジウィックが指摘したように、男たちの「密接な関係」(絆)をそれを同性愛と解釈されないように、同性愛嫌悪がパラノイア的に強力になり、同時に、彼らの異性愛を証明するために、女性を彼らの「外部」におき、ただの性的対象として見ることだ……必然的に女性蔑視発言が同性愛蔑視発言と一緒になって発語される、いわんや奨励される事態に陥る。

東は、第一章で「だれがオタクでだれがオタクではないのか」という議論に対し、それを<決定>するのは不可能であり、「各人のアイデンティティを賭けた感情的な遣り取りしかででこない」と述べている。しかしそうだろうか。僕には予め<決定>されているように思える。彼らの「ホモソーシャリティ」を完全に「閉じられたもの」にするためには、<オタクの資格>があるのは、<異性愛男性>だけだ。

そうなるとだ。この本は、「オタクから見た日本社会」という、<オタク>が<主体>になっているようであるが、実は、<オタク>の閉鎖性、<ホモソーシャリティ>を研究するための格好の<対象/客体>ではないか、と僕は思う。「オタク」が「日本社会の問題点」を探るのではなく、「日本社会」は「オタクの問題点」を指摘しなければならない

また、セジウッィクの理論で、「同性愛と解釈されないように」という部分に僕は注意を促しておきたい。「イケてないオタク」がセジウッィクが想定している「男たちの密接な関係」(絆)とは微妙にズレている気がするからだ。僕は「同性愛と解釈されないように」ではなく、(オタクの)「同性愛と<似た立場>を連想されないように」としておきたい。

次に行こう。
彼らは10代の頃から膨大なオタク系性表現に曝されているため、いつのまにか、少女のイラストを見、猫耳を見、メイド服を見ると性器的に興奮するように訓練されてしまっているのだ。しかしそのような興奮は、本質的に神経の問題であり、訓練を積めばだれでも掴めるものでしかない。それに対して、小児性愛や同性愛、特定の服装へのフェティシズムを自らのセクシュアリティとして引き受けるという決断には、またまったく異なった契機が必要とされる。(略)だからこそ彼らは、前に述べた二次創作への態度と同じく、一方でいくらでも倒錯的なイメージを消費しながら、他方では現実の倒錯に対して驚くほど保守的であるという奇妙な二面性をもっているのである。

p.131
ここで東浩紀は、重大の混同をしている。もし彼が、「同性愛を差別的言説投入可能な領域とみる無自覚かつ犯罪的研究者」ではないのならば、セクシュアリティに関して基本的な知識すら持っていないと言える。

「同性愛」は「性的指向(オリエンテーション)」だ。それに対し、SMや特定の服装への偏愛は「性的嗜好(フェティッシュ)」だ。「異性愛」が、SMやスカトロジーと同レベルではないように、「同性愛」も、それは「性的指向(オリエンテーション)」の一つである──「同性愛」や「両性愛」は「異性愛」と同レベルで語られるべきものだ。

だから、よくよく考えれば、(少女のイラストを見て興奮する)「そのような興奮は、本質的に神経の問題であり、訓練を積めばだれでも掴めるものでしかない」というのは、かなり苦しい弁明でしかない。
だってそうでしょう。
じゃあ、僕は、「少女のイラスト」を見て「興奮する訓練」をすれば、「異性愛男性オタク」のように、エロゲーでヌけるのか?
ということになる。違うだろう。それは「訓練」ではなくて「発見」だ。三島由紀夫の『仮面の告白』で、主人公が「聖セバスチャン」を見て「自分のセクシュアリティ」を発見するように、ある「図像」に興奮する、しない、は「発見」であろう。

では何故、東は、こんな「間違い」──だと信じたい──をしたのか。それは、「強制異性愛」もしくは「異性愛中心主義」という「権力体制」に、彼もまた、巻きこまれているからだと思う。
哲学者である彼でさえ無自覚的に「権力」を代弁している事態。こういった「言説」が「発動」される「不可視の権力」とは何だろう。

ここで想定して欲しいのは、キリスト教における「神と悪魔」の二項対立である。キリスト教は、「神」を称えるために、<最初から>、「悪魔」を設定した。この「悪魔の発明」は、ある意味非常に「合理主義」に基づくものだと思う。もちろん、だからこそ、「悪魔」の存在を否定すれば、「神」の存在さえも否定しなければならない、というジレンマにも陥る。
ゆえに「悪魔」は、必ずどこかで「存在」していなければならない──「悪魔」を貶めることによって、「神」を称えるために、そして「悪魔」の「存在」が「神」を「存在」せしめるために……。

僕が言いたいのがわかるだろうか。異性愛者の、生殖とは無縁の、「ヴァギナ-ペニス間セックス」(以下<V-P・SEX>と呼ぶ)が、生殖とは「無縁である」以上、一つの、「変態的」な「性幻想」に過ぎないのにもかかわらず、特権的な地位を占めるのは、同性愛他の「性幻想」を「悪魔的な地位」に置くからだと考えられないだろうか。

だからこそ、異性愛者にとって、「性倒錯」は、<絶対に>、必要不可欠のものだ──「性倒錯」の「発明」は「合理主義」に基づくものだ──と言える。
なぜなら、自分たちのそのために、異性愛者は、「同性愛」を「発明」し、他の「性倒錯」もカテゴライズした。

もっともこんなことは、フーコーやバトラーがいくらでも論じていることだ。僕はここに、「オタク」が占める「位置」を示してみたい。
オタクはどうしてそれほど同性愛者を排除するのか、何を恐れているのか、という観点からだ。

それは、先に「論理的におかしい」と指摘した「その一方で、現実の小児性愛者や同性愛者がオタクたちのあいだで決して多くないこと」という「言説」に立ち戻りたい。

東がしきりに書いている、「同性愛は倒錯である」というコンスタティヴなものとしての発言は、僕自身、同性愛者として、パフォーマティヴなものとして受け入れても構わない。しかし、この同性愛者自身が、<倒錯>をパフォーマティヴに自分のセクシュアリティとして受け入れこと自体に、東は危惧を抱いているのではないか。それが僕の結論だ。

しかしそれを否定するかのように、「実際の」という巧妙なレトリックが入りこむ。では、「実際の」小児性愛者と「実際<ではない>」小児性愛者の「区別」はなんだろう。それは、「実際に」行動を起すか、そうでないかの違いでしかない。「実際に」性行動を起すゲイ男性に対し、「実際に」性行動を起さない──あるいは、「隠し通す」のが、そしてゲイであることを「否定する」のが「クローゼット・ゲイ」である。しかし、同性愛者であることには「変わりはない」。

とすればだ。同様に、オタク──ロリコン画像に萌えるが実際の行動に起さない男性で、自分の小児性愛を「隠し」、それを「否定」する男性は、事実上「クローゼット・ペドフィリア」と呼んで差し支えない、のではないだろうか。

同性愛者の<パフォーマティヴ>が、オタク男性の<パフォーマティヴ>を導いてしまう。

だから、東は、論理矛盾、基本的なセクシュアリティの誤謬に目をつむってでも、「同性愛者」を「オタク」から「排除」する。オタクが「クローゼット・ペドフィリア」であることを、「同性愛の連想」から暴かれないために。
同性愛者は、異性愛者から言われるように、<倒錯>かもしれない。しかし、日本では、それは<犯罪>ではない。しかし<小児愛>はどうであろうか──「実際の小児性愛」は<犯罪>である。

(実際の行動を起さない)クローゼット・ゲイが「倒錯者の予備軍」であるならば、(二次元で萌えている)オタク男性=クローゼット・ペドフィリアは「犯罪者の予備軍」なのではないだろうか。
そして「日本社会」は、オタクの問題点を「分析」し、クローゼット・ペドフィリアとしてのオタクを「監視」するようになるだろう。

そのことに<意識的>であるから、同性愛者を貶める言説を繰り返すのではないか──彼らはオレたちとは違うと、潜在的な、しかしいつ「パフォーマティヴ」に変転するかもしれない「小児愛指向」を暴かれないために。

東が、通信傍受法や児童ポルノ改変に反対している理由、そしてデリダから、「ミクロな権力関係」「監視と処罰」に対抗する「フーコーの思想」に関心がシフトしている理由を、僕は「彼のホモフォビアな言説」に求める。

だからこそ、オタクは、フーコーを、必死になって、読まなければならないのだろう。



脱構築

守中高明 著 / 岩波書店



この(ソシュールの)条りを引きつつデリダは、「ロゴスに関する近代的学問がその自律性と科学性に近づこうとするまさにその瞬間」に行われる「異端糾問」の身振りをそこに見て取っている。『一般言語学講義』のソシュールにとって、エクリチュールは何よりもまず抑圧すべき危険な技術であり、問題なのは、エクリチュールにより「およそ最も深刻で危険で恒常的な汚染に対抗して、言語の内的体系をその概念の純粋性において保護しまた復元すること」なのである。

p.15
ジャック・デリダは、同性愛について、まったくと言ってよいほど言及していない。これは自身ゲイであったフーコーは当然としても、そこかしこで同性愛について言及するドゥルーズあたりとは著しい違いを見せている。しかし、にもかかわらず、僕は、フーコーやドゥルーズよりもデリダの「方法」が、同性愛を差別しようとする<自覚的、無自覚的な>言説に対し、その対抗手段として非常に有効であると思っている。

その最良の成果が、ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』(竹村和子訳、青土社)であり、これは僕のバイブルの一つとも言えるものだ。
そして、バトラーが『ジェンダー・トラブル』で多大に負っている/見事に活用している思考の形態、思考の方法、思考の運動の一つが、デリダによる「脱構築」の「技法」である。「脱構築」とは──非常にシンプルな説明を本書の「はじめに」から引用すれば、
或る「構造」を見出すこと、と同時に、その「構造」を作り上げている諸要素、そこから借りた手立ての数々によって当の「構造」を「転覆」させること──それも、みずからの「挫折」を糧として、それなしには決して現われることのできない「痕跡」や「かけら」を露出させるために……。
(中略)
われわれはやがて、この運動する思考が、さまざまな領域で現実にむけて新たな光を照射し、のみならず新しい現実を作り出す力として、そして時には闘いの武器として働くのを見ることになるだろう。
また本文中からは、
さまざまな「構造」(「あらゆる種類の、言語学的、<ロゴス中心主義的>、<フォーネー(音声)中心主義的>、社会制度的、政治的、文化的な、そしてとりわけ何よりもまず哲学的な構造」)に働きかけ、いわばそれらを引き受けつつそれらを侵犯するような「両義的」身振りによって、一つの「総体」がいかに「構築」されているかを明らかにすること──それが「脱構築」という否定にも肯定にも属さない作業の意味するところだと言ってよい。

p.7
「脱構築」は、その効果において価値中立的なものではいさささかもなく、明らかに諸「構造」への暴力的な介入であり、転覆的な力の発動なのである。

p.9
本書は、まず何より韜晦(に思える)デリダの思想をわかりやすく解説し、「脱構築」を、単なる「技法」を超えて、様々な現代の諸問題に実践的に介入する手立てを示してくれる。
……そう思って読んでいたのだが、後半に至ってその思いが吹っ飛んだ

それは、著者が、日本の植民地支配や「南京虐殺」、「従軍慰安婦」の説明にあたり、フロイトらの「精神分析」をなんの留保もなく、まるで「正義の理論」のごとく「使用」しているからだ。

どうしてこういう問題を提示/深化するのに、精神分析でなければならないんだ? それは自分が「相手(他者)」より「倫理的に上等」だと確信/過信したからこそ、相手を分析対象=異常者と見なす/見下す、権力者の言説=精神分析の利用を「思いついた」のではないか。ここで「精神分析」を引っ張り出すことによって、これら真摯な問題が──歴史修正主義者たちによって──「脱構築」されてしまうのが、わからないのだろうか。「大日本帝国」の「伝統」の「創設」(かつて一度も存在しなかった過去を創り出すこと)は、その「ミメーシスは、それこそ精神分析の「フィクション」と同等ではないか。

著者が問題にする、「誇り」を持てる「日本人」「健全なナショナリズム」は、それこそ「異性愛中心主義」「男性中心主義」(要するに「ファルス中心主義」だ)を完全な規範として「健全/異常」に線を引く、精神分析のやり方と同じ穴のムジナではないのか──「反動勢力」を「病者」や「狂者」と「診断」すれば、こと足りるのか?

なにが「喪の作業」だ。守中がドイツを例に出し「ナチズムのすべての犠牲者たち、国家社会主義の殺戮の対象となった夥しい死がある」と書くとき、いったいナチスによって殺戮された同性愛者のことは念頭に置いているのだろうか。そして、その同性愛者のことを、「精神分析」がどれほど差別的な言説を投入し、「異常者」に仕立て上げているのか、わかっているのか?
エリティエは同様の議論を、レヴィ=ストロースの文化人類学の観点から展開していて、この点について自然に逆らうようなことをすれば、重大な心的結果があらわれてくると述べている。実際このような主張は成功をおさめ、その結果、フランスの国民議会が最終的にこの法案を通したとき、ゲイやレズビアンの養子縁組の権利ははっきりと否定され、自然にも文化的にも反するそのような環境で生まれ育った子供たちは、精神病になると危惧された。
エティエが引いてきたのは、レヴィ=ストロースの著作のなかに見られる概念──あらゆる文化的な理解可能性の根底にある「象徴的」なものの概念──である。ジャック=アラン・ミレールもこれに賛同して、同性愛者たちに対しては、彼らの関係には承認を与えるべきだが、彼らに、婚姻と同様の法的措置を適用することはできないと言う。というのも、夫婦関係の忠誠は「女性的なものの存在」によって保証されており、ゲイ男性には、彼らの関係を繋ぎとめておくこの重要な素質が欠けていると見うけられるからだという。
性的差異の教理を利用したこれらのさまざまな政治的立場──そのあるものはレヴィ=ストロースから、あるものはラカンから引いてきている──は理論の誤用であり、もし性的差異が真に空虚で形式的な差異として守られるなら、それは、それについてどのような既存の社会的定式にも同一化することはできないはずだと主張することもできるだろう。

ジュディス・バトラー他『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』(竹村和子+村山敏勝訳、青土社)p.198
デリダの解説に必ず記されている彼の生い立ちの問題──クレミュー法による「市民権付与」とヴィシー政権による「市民権剥奪」──やアルジェ議員にもなったエドゥアール・ドリュモンによる反ユダヤ主義パンフレット『ユダヤ的フランス人』の流通は、そのまま、現在の同性愛者の置かれている立場、「精神分析」による差別的言説の流布に相当する。

東浩紀──『動物化するポストモダン』で精神科医の差別的な言説を間に受けて、同性愛者を何度も何度も何度も「倒錯者」呼ばわりする──といい、守中高明といい、どうして「差別知」=「精神分析」をそんなに盲目的に信頼してしまうのだろう。批判精神というものはないのだろか。同性愛者を「倒錯者」としてカテゴライズして、差別を助長している「精神分析」に対し、「同性愛者」側の異議申立ては、どうして耳に入らないんだ──これほど「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」の「証言」には真摯に耳を傾けているのにだ……それともそれはただ単に「自分の美しい態度」、つまりある種の「ナルシズム」に酔っているのか。

結局、彼らのようなマイノリティではない──ユダヤ人ではない、女性ではない、同性愛者ではない──「異性愛男性」は、最初から「脱構築」に「賭ける必要」なんかないのではないか。

脱構築は、そしてデリダの思想は、「お坊ちゃん」の「玩具」ではない──こういう<切実に>「使う必要のない人たち」が気取って、ファッションとして使うから、デリダが軽く見られるのではないか? 

これを書きながら、あるドラマのセリフを思い出した……「同情するなら金おくれ」。これに対する「応答」を真摯に思考したことがあるのか?