ルイジ・ノーノ:力と光の波のように (1971-72)
Luigi Nono (1924 - 1990)
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- 力と光の波のように (1971-72)
- 苦悩に満ちながらも清朗な波…(1976)
- コントラプント・ディアレティコ・アラ・メント(1968)
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Slavka Takova(Sp)他
マウリツィオ・ポリーニ(P)
バイエルン放送交響楽団
指揮 クラウディオ・アバド
recording 1973,77 / DG
急進的左翼で「在り続けた」イタリアの作曲家ルイジ・ノーノ。彼は、当時のソ連──(ガキでもわかる)社会主義リアリズムを押し付けたソ連──が糾弾した「前衛(アヴァンギャルド)芸術」の先端を突っ走っていった。
政治的前衛という立場と音楽的前衛という立場を同等に置き、ノーノは革命的な政治/音楽の究極を目指したのだった。
『力と光の波のように』はソプラノ、ピアノ、管弦楽とテープの為の音楽で、チリの革命家ルシアノ・クルツの死に捧げられた詩をベースにしている。マグネティック・テープの音響が、信号のような独特のサウンドを通低させ、そこにライヴ──すなわちソプラノの絶叫、破壊的なピアノ、激烈なオーケストラが加わる。
テープと<ライヴ>は密接に絡み合い、空虚な空間を過去(テープ)と現在(ライヴ)で充満させ、そして<生きるための>未来へと爆発させる。
今日、社会的な潜勢力が存在するとすれば、それはそれ自体の無力さの果てまで行くのではなければならず、法権利を維持したり措定したりする意思の一切を忌避し、主権を構成している暴力と法権利の間、生ける者と言語活動の間も結びつきを至るところで粉砕するものでなければならない。
ジョルジュ・アガンベン「政治についての覚え書き」
高桑和巳訳『人権の彼方に』(以文社)より
『苦悩に満ちながらも晴朗な波…』もテープとライヴの「対話」である。ただし演奏者はピアニストただ一人。ポリーニに捧げれられたこの曲は、同時期に作曲者とピアニストを襲った不幸に影響されている。苦悩の記憶(テープ)と「いま、ここに」ある存在(ライヴ)。
ピアノの音響は極限にまで開拓される。それはエレクトロニックによって激しく振動(運動)し合い、増幅される。極度の緊張感とともに、劇的な対話が展開される。しかし、やがて、その振動は、清朗な波の地平へと、静かに回収されていく。
『コントラプント・ディアレティコ・アラ・メント』はまさに実験的なサウンド。近未来的とでも形容したい斬新な、しかしときに神経を逆撫でするような響き。人によっては気味が悪いと思うかもしれない。しかしそのある意味ビザールなサウンドを構成するのは、剥き出しの人間の声、声、声。それら多種多様な声が電気的に変換され、合成され、どぎつく響く。テクストはマルコムXに関するものやベトナム反戦パンフレットから取ったものだ。
この「サウンド」に近い「音」というと、ウルトラセブンに登場した宇宙人の声──例えばクール星人、チブル星人、ゴース星人──そんな感じなのだ。60年代SF的感覚とでも言ったら良いだろうか。「音楽」というよりも「音響」そのものの面白さ(工夫)に非常に惹かれる。
正直に言えは、真摯な感情表現から生まれた『力と光の波のように』よりも、音楽的には『コントラプント・ディアレティコ・アラ・メント』のほうが僕は好きだったりする。
浅田彰【音楽・政治・哲学──ノーノをめぐって】
http://www.criticalspace.org/special/asada/ic027.html