靴を脱げ、おまえは長い旅路を歩いてきた。いま、おまえが立っているのは聖なる土地だ、さあ、神の到来を民衆に知らせよ
アーノルド・シェーンベルク作曲、歌劇『モーゼとアーロン』より
アリゾナの砂漠を奇怪な怪物たちが通り過ぎる。デイヴィッドソンが目撃した怪物たちは、奇妙な音楽
(はっきりとしたメロディーはなく、独特の不協和音を響かせていた。まるで新ウィーン楽派の音楽のように)を鳴らしながら、踊っていた。
それは一種の祝祭であった。怪物たちは、彼らの「息子」を迎えに行く悦びに興奮していたのだ。
彼らの息子とは、ルーシーとユージーン夫妻の子供アーロン。アーロンは実は怪物たちとルーシーが交わってできた子供であった。やがて怪物たちはユージーンの家に辿りつく。「継父」ユージーンに虐待されてきたアーロンには、怪物たちが「優しい本当の父親」であることがすぐにわかり、彼らについて行く。
しかし怪物たち(あるいは「天使の一家」)の出現によって、保守的な田舎町は大きく動揺する。町の住民は「悪魔狩り」をすべく団結し決起する……。
この作品では、怪物たち(または「悪魔」)──もちろんそれは人間側の「一方的な見方」によるのだが──の描写が実にヴィヴィットで生き生きとしており、鮮明鮮烈な映像を喚起させる。
まるで……
マックス・エルンストの描くクリーチャーを見ているような、いや、マックス・エルンストがクールすぎるなら、
エルンスト・フックスの描く生々しい異形の者を(『一角獣の結婚』、『アンチ・ラオコーン』)、さらに、静止している絵画では物足りなかったら、
H・R・ギーガーの「動いている」モンスターを……見ているかのようだ。バーカーの想像力、その表現力はまったくもって素晴らしい!
そしてそのバーカーの想像力は、今ある世界観、現在流通している常識を倒立させ、まったく新たな「神話」を提示する。彼によると、男のあばら骨から女が造られたのではない、女は最初から存在していた。男こそ、女とそして女と共存していた悪魔によって「遊び友達」として作られたのだ。
しかし、
なんという大きな過ち、天地が引っくり返るような大誤算であったことか。ほんの数十億年のうちに、最悪のものが最良のものを根だやしにしてしまったのである。女は奴隷にされ、悪魔は殺されるか、地の底に追いやられた。
p.241-242
好戦的な人間たち(男たち)は、自分たちこそが万物の霊長だと思いこみ、我が物顔で地球を支配し、最初から地球に存在していた本当の「父親たち」(悪魔)を攻撃し、滅ぼそうとする。(このあたりの展開はウルトラセブンの『ノンマルトの使者』に通じるものがある)
だから怪物(悪魔)狩りを行う田舎町の住民がやたらと「男らしさ」にこだわるマッチョ志向であるのも頷ける。
「男じゃないと思われること以外に恐れることはないんだ、諸君」
p.240
バーカーの筆致はコミカルだが、そこには煽動と群集心理が見事に描かれる。そしてその蒙昧な「男らしさ」(「無知」と言ってもいい)こそが、世界を野蛮な状態に置いているのだ。
一方、ルーシーと悪魔たちによって生まれたアーロン少年。彼は継父ユージーンに
「あのくそガキは男じゃねえ、おまえが男じゃねえようにな」「半分も男じゃねえ。あいつがデカくなってやれそうなことといったら、スカした靴をはいて香水を売り歩くことだけだ」と、一般に流通している「男らしさ」を満たしていないため、激しく面罵される。
しかしアーロンこそ、ヘブライ語の「気高きもの」の意味に相応しい「新しい男の子」であった。生き残った悪魔のグループが、アーロンのような
「男らしくない」男の子を人類に潜入させることによって、支配者民族(人類)を優しく穏やかにしようとしていたのだ。
アーロンは、悪魔たち(父親)に囲まれていると、母親の乳首を吸ったときよりも幸福を覚えていた。しかし人間の継父はそんなアーロンを許せなかった。アーロンが本当の自分の姿に「変身」(=カミング・アウト)したとき、人間の父親ユージーンは息子アーロンに銃を向ける。
おまえたちは、砂漠では不屈の者ばかりだった。おまえたちは、きっと目的を遂行するだろう。神と一つになるがよい
『モーゼとアーロン』より
アーノルド・シェーンベルク『モーゼとアーロン』
ピエール・ブーレーズ指揮、BBC交響楽団
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