JACQUELINE ESS
BOOKS OF BLOOD



ジャクリーン・エス
with 腐肉の晩餐

大久保寛訳 集英社文庫



腐肉の晩餐 Dread

フロイト流の母親への固着はこの問題のこたえにはならない。おれの中にある本当の恐怖は、われわれ人間すべての中にある本当の恐怖は、人格形成以前の問題なんだ。われわれが自分を人間として認識する前に、恐怖はすでに形成しているんだ。子宮の中で、親指の爪ほどの大きさで体を丸めているときから、恐怖を感じているのさ

p.22-23
「恐怖にまさる愉しみはない」という書き出しで始まるこの物語は、人間にとって恐怖とは何であるかを、少しばかり思弁的に、つまり哲学探求したものである。
と言っても別にウィトゲンシュタインのような難解なものではない。そこは我らがバーカー、「針金がぶつぶつあいたような虹彩」を持つ得体の知れない人物クウェード(「ゲイか、フェミニストか、”クジラを救え”キャンペーンの運動員か、それともファシスト的菜食主義者なのか?」)が、えげつない「恐怖に関する実験」をする、というものだ。
彼は、大学生スティーヴ・グレースとシェリル・フロムという二人の「被験者」をサディスティックにいたぶり、彼らの恐怖=トラウマを導き出す。
「われわれはケモノのそばに寄るべきなんだ。スティーブ、そう思わないか? 手を伸ばして撫でてやって、ペットにして、乳をやって……。
「そのケモノっていったいなんだい?」
「真に考察するに値する哲学上のテーマだよ、スティーブ。われわれが恐怖するものだ。よく理解できないために。ドアの向こうの闇だ」
(中略)
「──いずれ、ケモノのほうがわれわれを見つけにくるだろう」

p.16-17
まず、菜食主義者の女性シェリル。彼女は「肉」に関するトラウマがあるのだ。クウェードはそこを突き、シェリルを監禁し、牛肉以外の食物を与えない。最初は抵抗するシェリルだが、飢えには打ち勝てず、やがて腐り蝿がたかっている腐肉を貪り食う。クウェードはその様子を写真に撮り記録しそれをスティーブに見せる。スティーブはクウェードの中に狂気を見るが、彼の実験には否定しがたい快感も感じていた……次の「被験者」にされるとも知らずに……。
次の実験は極限まで押し進められる。「極限にあるのは死だ」
サルトルはかつて、”いかなる人間も自分の死を知ることはできない”と書いた。しかし他人の死を直接知ることは、死にゆく人間がその悲痛な真実を避けようと演じるアクロバティックを見ることは、死とは何かを解く手がかりになるのではないか? そうすれば、ある程度、自分自身の死を余裕を持って迎えられるかもしれない。他人の恐怖をわがことのように体験するのは、例のケモノに触れる最も安全で賢明な方法なのだ。

p.54-55
ここで言及されている「ケモノ」。どうもヘンリー・ジェイムズの小説『密林の獣』のイメージがダブルのだが、どうだろうか。ジェイムズの小説では、「獣」の存在を恐怖する人物が「獣」の到来とともに死ぬ。「獣」は抽象的な観念的な存在であったのだが。

──蛇足ながら、ジェイムズの「獣」は、イヴ・コゾフスキー・セジウィックの卓越した論文『クローゼットのなかの野獣』(『クローゼットの認識論』外岡尚美訳、青土社)によると、「ホモセクシュアル・パニック」を(主人公の「秘密」を、「深淵」を、「奇妙-クイアな自意識」を、「とても名指せない……恐ろしいこと」を、それらすべてにおける「恐怖」を)示したメタファーであった──。

また、この作品では珍しくスーパーナチュラルな要素はない。一種のサイコ・スリラーと言えるだろう。強烈なサスペンス、先の読めない、意外は方向へ転がっていくストーリー展開はルース・レンデル作品のようだ。結末の、悪意のこもった皮肉も実にレンデル風。
しかし飛び散る血の総量、その血の放蕩ぶりはバーカーならではのものである。

そして斧を振り回す道化師のイメージ。道化師は、不気味であり、哀しげでもあり、クイアーでもあり、祝祭的でもある。
道化師は、騒々しく、賑やかに発狂する。江戸川乱歩の『地獄の道化師』、スティーブン・キング『IT』、実在の殺人鬼ジョン・ウェイン・ゲイシー……。あるいは発狂した作曲家ロベルト・シューマンのピアノ曲『謝肉祭』。

バーカーはその著書『クライヴ・バーカーのホラー大全』(日暮雅道訳、東洋書林)「ハーレクインのH」の中で、道化師(ピエロ)に対する彼のオマージュを捧げている。

BACK PAGE / TOP PAGE

地獄の競技会 Hell's Event

擬人的な「地獄」。バーカーの恐るべき想像力は、「地獄」は「場所」(地獄の第九圏)でありながら、しかしそれが何かしら意思を持つ組織体ようなイメージを匂わせる。『銀河鉄道999』、「好奇心という名の星」における「星」が邪な好奇心を持っていたように。
われわれは秩序を代表しているのだ。混沌ではなく。地獄が混沌を代表しているなどどいうのは、天国の悪意に満ちた宣伝にすぎん。

p.102
この作品におけるドロドロの肉体毀損は実にヴィヴィットだ。まさに僕たちの「好奇心」を見事に煽ってくれる。それは「快感」すら味わせてくれる。
しかしこの作品の登場人物たちは、「好奇心」を満たすことは禁じられている。「地獄」を見ること、後ろを振り返えることは死を意味する。それが無類のサスペンスを生む。


ロンドンで開催される中距離走レース。このチャリティ・イベントには<英国一魅力的な黒人>ジョエル・ジョーンズを始め、世界の有力選手が参加する。
しかしこのレースは単なるチャリティ・イベントではなかった。地獄が送りこんだ代表選手と人類を代表する選手が死闘を繰り広げる代理闘争……一世紀に一度、セントポール大聖堂からウェストミンスター宮殿まで行われる、「支配権」をめぐる人類対地獄のゲーム……に他ならなかった。
「地獄」の代表選手が勝てば、世界は破滅する。
選手たちはゴールまで走り続けなければならない。決して後ろを振り返ってはならない。彼らの背後には、「地獄」が、深淵なる口を開けて待っているから。


直接世界を破壊せず、代理を送りこみ、ゲーム=ルール(レース)に賭ける。「地獄」はある意味フェアな存在だ、薄汚い「宣伝活動」をする「天国」よりも。強者の余裕というものだろうか。僕はこのストーリーを読みながら、ウルトラマンの『禁じられた言葉』に登場したメフィラス星人のやり方を思い出した。

また、ゲーム=レースといえば、この作品の実に皮肉な予想外の結末! この「オチ」は見事の一言に尽きる。まさにウィトゲンシュタインの以下の言葉が当てはまる。
哲学のレースで勝つのは、いちばんゆっくり走れる者、つまり、最後にゴールで到着する者である……

永井均『ウィトゲンシュタイン入門』(ちくま新書)より

注目すべきは、「地獄」の側に使える人間(つまりスパイ)、国会議員グレゴリー・バージェスである。英国人なら、そしてゲイなら、この名前からあのガイ・バージェスを思い浮かべるだろう。
映画『アナザー・カントリー』でお馴染みのゲイ・ボーイ(G・B)
ガイ・バージェスは、英国を裏切り、長年ソ連のスパイとして活動し、後にソ連に亡命した人物である(そういえばこのバーカーの作品では女性は全く登場しない、これって些細なことかな?)。

ある人にとっては、地獄/もう一つの国(アナザー・カントリー)こそが、自分たちを受け入れてくれる(と思うざるを得ない)「場所」なのかもしれない。

BACK PAGE / TOP PAGE

ジャクリーン・エス Jacqueline Ess

ジャクリーンはある日、自分の特別な能力を発見する。それは手を触れずに相手の肉体を思うが侭に破壊できるというものであった。無能で御託ばかり並べる精神科医、一見紳士的ながら実は最悪に傲慢な夫、権力を持ち過ぎたある意味憐れな男……彼女はそんな男たちの肉体を破壊していく。
しかし弁護士のヴァッシーだけは違った。彼はジャクリーンを心から愛していた。彼は「愛」を信じていた。彼はジャクリーン・エスを探し求める。


凄絶な殺戮-奇怪にして幻想的なシーン、鮮烈な血-血の海、飛び散る肉片-裂ける皮膚、神経を逆撫でするようなエロティシズム-SM的シチュエーション、破滅的な、つまり真にロマンティックな愛-セックス。スプラッター・ホラー、ここに極まれり。バーカーの作品の中でも「とびきりの」作品だ。

しかしそれだけではない。この作品は、特殊な人間/異能者/異端者=怪物ジャクリーン・エスのアイデンティティを模索する物語になっている。
ジャクリーンは別に望んで特別な能力を手にいれたわけではない。彼女はただ……発見しただけなのだ……自分が他人と違うことを。
だから彼女が男を求めてさ迷うのは、自己を確立するため、自分を発見するために他ならない。
言葉はまだ発せられつづけていた。従順ではない女に、何世代にもわたって浴びせられてきた言葉だった。売女、異端者、あばずれ、メス犬、怪物。
 そうよ、あたしはそれなんだわ。
 そうよ、と彼女は思った。あたしは怪物なんだわ。

p.177

気になるのはジャクリーンによる人体の破壊シーン。破壊されるのはすべて男性の肉体である。そこには、単なる暴力的な人体破損というよりも、もっと解剖学的な個々の人体パーツへの偏愛が感じられないだろうか。
肉塊のような一種の器官=オブジェに変体する男性。そのオブジェは燦然と輝きを放ち、言語道断の痛みと死への快楽をその「全体でもって」感得し、ありとあらゆる体液をエロティックなまでに噴出させる。

このバーカーの強烈無比とも言える人体破損シーンを読んで、まっさきに思い出すのはフランシス・ベイコンの絵画である。人間の肉体を、その人間の存在(感)までをも容赦なくねじり(=turn=)ひねり、人体へのサディズムを遺憾なく発揮した奇跡的なヴィジュアル・アート。変容した肉塊は美しいペニスであり、飛び散る血は快感の発露、赤い精液である。

「彼ら」の作品を読みながら(鑑賞しながら)、感じ取るのは、エレガントな腐臭とロマンティックな狂騒、そして(バーカーの、ベイコンの)読むもの/見るものに向けた共犯的な哄笑である。

『ジェクリーン・エス』のラストシーン。まさにヴィジュアル的である。凄まじい限りの肉体的変容が過剰なまでに描かれる。その二つの身体(ジャクリーンとヴァッシー)は互いに破壊しあい、溶解し、そして一つになり、消滅する。
まさにフランシス・ベイコンの豪奢なスプラッター的絵画を思わせるではないか──あの男同士が絡み合い、セックスをしている-はずの-『二人の人物』を。

それはマーガレット・ミラーの『狙った獣』のラスト「二度と結ばれることのない真っ赤な無限のリボン」と同様、物語が、言語が、「絵画」になる瞬間である。

BACK PAGE / TOP PAGE

父たちの皮膚 The Skins of the Fathers

靴を脱げ、おまえは長い旅路を歩いてきた。いま、おまえが立っているのは聖なる土地だ、さあ、神の到来を民衆に知らせよ

アーノルド・シェーンベルク作曲、歌劇『モーゼとアーロン』より

アリゾナの砂漠を奇怪な怪物たちが通り過ぎる。デイヴィッドソンが目撃した怪物たちは、奇妙な音楽(はっきりとしたメロディーはなく、独特の不協和音を響かせていた。まるで新ウィーン楽派の音楽のように)を鳴らしながら、踊っていた。
それは一種の祝祭であった。怪物たちは、彼らの「息子」を迎えに行く悦びに興奮していたのだ。

彼らの息子とは、ルーシーとユージーン夫妻の子供アーロン。アーロンは実は怪物たちとルーシーが交わってできた子供であった。やがて怪物たちはユージーンの家に辿りつく。「継父」ユージーンに虐待されてきたアーロンには、怪物たちが「優しい本当の父親」であることがすぐにわかり、彼らについて行く。

しかし怪物たち(あるいは「天使の一家」)の出現によって、保守的な田舎町は大きく動揺する。町の住民は「悪魔狩り」をすべく団結し決起する……。


この作品では、怪物たち(または「悪魔」)──もちろんそれは人間側の「一方的な見方」によるのだが──の描写が実にヴィヴィットで生き生きとしており、鮮明鮮烈な映像を喚起させる。
まるで……マックス・エルンストの描くクリーチャーを見ているような、いや、マックス・エルンストがクールすぎるなら、エルンスト・フックスの描く生々しい異形の者を(『一角獣の結婚』、『アンチ・ラオコーン』)、さらに、静止している絵画では物足りなかったら、H・R・ギーガーの「動いている」モンスターを……見ているかのようだ。バーカーの想像力、その表現力はまったくもって素晴らしい!

そしてそのバーカーの想像力は、今ある世界観、現在流通している常識を倒立させ、まったく新たな「神話」を提示する。彼によると、男のあばら骨から女が造られたのではない、女は最初から存在していた。男こそ、女とそして女と共存していた悪魔によって「遊び友達」として作られたのだ。
しかし、
なんという大きな過ち、天地が引っくり返るような大誤算であったことか。ほんの数十億年のうちに、最悪のものが最良のものを根だやしにしてしまったのである。女は奴隷にされ、悪魔は殺されるか、地の底に追いやられた。

p.241-242
好戦的な人間たち(男たち)は、自分たちこそが万物の霊長だと思いこみ、我が物顔で地球を支配し、最初から地球に存在していた本当の「父親たち」(悪魔)を攻撃し、滅ぼそうとする。(このあたりの展開はウルトラセブンの『ノンマルトの使者』に通じるものがある)

だから怪物(悪魔)狩りを行う田舎町の住民がやたらと「男らしさ」にこだわるマッチョ志向であるのも頷ける。
「男じゃないと思われること以外に恐れることはないんだ、諸君」

p.240
バーカーの筆致はコミカルだが、そこには煽動と群集心理が見事に描かれる。そしてその蒙昧な「男らしさ」(「無知」と言ってもいい)こそが、世界を野蛮な状態に置いているのだ。

一方、ルーシーと悪魔たちによって生まれたアーロン少年。彼は継父ユージーンに「あのくそガキは男じゃねえ、おまえが男じゃねえようにな」「半分も男じゃねえ。あいつがデカくなってやれそうなことといったら、スカした靴をはいて香水を売り歩くことだけだ」と、一般に流通している「男らしさ」を満たしていないため、激しく面罵される。

しかしアーロンこそ、ヘブライ語の「気高きもの」の意味に相応しい「新しい男の子」であった。生き残った悪魔のグループが、アーロンのような「男らしくない」男の子を人類に潜入させることによって、支配者民族(人類)を優しく穏やかにしようとしていたのだ。

アーロンは、悪魔たち(父親)に囲まれていると、母親の乳首を吸ったときよりも幸福を覚えていた。しかし人間の継父はそんなアーロンを許せなかった。アーロンが本当の自分の姿に「変身」(=カミング・アウト)したとき、人間の父親ユージーンは息子アーロンに銃を向ける。

おまえたちは、砂漠では不屈の者ばかりだった。おまえたちは、きっと目的を遂行するだろう。神と一つになるがよい

『モーゼとアーロン』より


アーノルド・シェーンベルク『モーゼとアーロン』

ピエール・ブーレーズ指揮、BBC交響楽団
SONY CLASSICAL


BACK PAGE / TOP PAGE



BACK PAGE / TOP PAGE