モダン・マナーズ
MODERN MANNERS
自分流に生きるための常識を超えた処方箋

P.J.オローク / P.J.O'ROURKE
渋谷太郎訳 / JICC



デートの費用については、第九章で述べた理由によって、原則的にはすべての男性が負担することになっている。(中略) そんな贈り物を受け取ったりしたら売春行為と区別がつかなくなるのでは、と悩む人がいるかもしれないが、そんな心配はご無用。なぜって、この二つのあいだにはもともと何の区別も存在していないからだ。

世紀末のデート

この本は副題にあるように<自分流に生きるための常識を超えた処方箋>として、様々な状況(会話、デート、セックス、ドラッグ、職場、服装…etc)における「マナー」を「品の良い(悪い)ブラックユーモア」で綴っている。

原著の出版は1983年、翻訳は1991年。同時代の諷刺、というにはいささかタイムラグがあるけど、強烈な諷刺それ自体はまったく色褪せていない。日本で言えば、ビートたけしや爆笑問題あたりに近いかな。その理知的かつ邪悪な筆致は、まさに現代版『悪魔の辞典』に相応しい。

決して攻撃的に、ヒステリックに「対象」をなぎ倒すような文章ではなく、クールに冷笑を誘っている。つまり、ある意味、非常に始末の悪い文体なのだ。
もう一つ、若者の突飛な服装は、人種差別への闘いを後押ししてくれるという、意外な効果をもたらしてくれる。白人中産階級の子供がアッと驚くような、そしておとなの神経を逆なでするような服を着ていたら、その土地の警官や無教養な南部人にとってはまたとない攻撃目標になる。となると、それまで迫害の対象とされてきた黒人やヒスパニック系、ユダヤ系住民への差別行動も、その分迫力が薄れてくるのは理の当然というものだろう。

未成年、精神病患者、ロック・バンドのメンバーの服装

もっとも、そんな邪悪な文体だからこそ、読んでいて面白い。そのシニシズムこそ、自分の感性を小気味良くくすぐってくれる。実に痛快だ。
これに比べると、ボブ・グリーンのエッセイなんて、野暮ったくて、しかも偉そうで、なんだか「天声人語」と同じくらいつまらない。

オロークはカウンター・カルチャーの心情を持ち合わせているが、基本的に保守的信条の持ち主で、多分、支持政党は共和党だろう。

もちろん、こういう「悪魔の辞典タイプ」の本だから、いわゆる「差別ネタ」ともとれる文章がある。外国人やフェミニスト、多種多様なマイノリティへの言及。もちろんゲイも例外ではなく、その「登場回数」は多いほうだ。
異性の服を身につける行為の究極のパターンと言えば、同性愛の男性がヘテロセクシュアルの男性のジーンズとワークシャツと安全靴を身につけることだろう。もっとも、この点についてはストレートな女性たちから抗議の声もあがっていて、彼らに言わせれば、性差別を撤廃させた功績はもっぱら女性軍に属するものであり、ホモセクシュアルなどは何の役にも立っていない。したがって、男性のジーンズとワークシャツと安全靴を身につけることについては、誰よりも、まず自分たちに優先権があるというのだ。

異性の服を身につける
しかし、腹の立つことはない。たしかに彼の筆致は邪悪だけど、いやらしい悪意はまったく感じられない(侮蔑的な言葉を使ってないし、その翻訳も適切だし)。それどころか、うまい! と彼にメールでも書きたくなる。
何度も言うようだけど彼は非常に理知的な人なのだ。理知的な人は、偏狭で狂信的なモラルでもって物事を語らない(断罪しない)。

そして、ジェーン・オースティンからマーロン・ブランド、果てはフランク・ザッパまで、気に利いた引用が、まるでベンヤミン並みにちりばめられているこの本の冒頭を飾るのは、オスカー・ワイルド(とニューマン卿)。彼のこの本におけるスタンスというものがわかるだろう(ちなみにオロークはアイリッシュ系、ジョイス、フラン・オブライエンの国だ)。

スマートに、クールに毒舌を振るうP.J.オロークの文章は、ネット上のテキスト系サイトがもっと注目してよいはずだ。
この世界は明日「ゴミの惑星」になったとしても、何の不思議もない。僕たちにできるのは「終わりへの旅(トリップ)」の途中で出会う人に、少しでもさわやかな印象を与えること、それ以外にない、と筆者は声を大にして言いたいのである。

序文「マナーが必要なわけ」





クラシック名盤ほめ殺し

鈴木淳史 / 洋泉社



いちおう僕もクラヲタと言ってもいいのかな。しかも(多分)一番始末の悪い円盤拝聴タイプ。音楽の専門家でもなく、着飾ってコンサートにいくわけでもなく、薄暗い部屋に閉じこもってひたすらCDを聴く。基本のレコ芸あたりはすみずみまでチェックして、CDショップも最低週一回は訪れ、マニアっぽい曲、演奏を漁って悦にひたる。そして不健康な生活習慣は不健康な感性を刺激して、独特の刺々しさを全身から発散し、それがギクシャクとした人間関係に……。 まあ、自己省察は元旦にでもまとめてやって(笑)。

この本はすれっからしのクラヲタがニヤニヤしながら読むべきクラシックCDガイドである(あ、別に「折り目正しい」クラシックファンにもお奨めですよ、選曲、CDのチョイスはなかなか良いと思うし)。いちおう「天使」と「悪魔」が音盤を肴にする趣向。
天使:老舗ドイツ・ブラモフォン・レーベルが久方ぶりの若手独逸人指揮者として鳴り物入りでCDデビューさせしも古の話、今は単なるイロモノに成りしティーレマン君、その凋落ぶりはシノーポリも凌がん。
悪魔:イロモノのどこが悪かりき? イロモノこそ真理在り。イロモノを見ずして、世界は把握できざるものと心得よ。

ティーレマンを論じて満天下のヒュウマニストに告ぐ──

悪魔: 今回はちょっと趣向を変えて、ブルックナーの交響曲をいかに下品に演奏することができるか、その勇気ある演奏家の熟達な技量を競っていただきましょう。
天使:私はバルビローリ盤を推薦します。冷静沈着さとスケール感が求められがちなブルックナー演奏において、バルビローリは自分の感情の趣くままに爆発し、熱気と強引な芸能的速度変化、つまりアゴーギクで下品なまでに聴き手を魅了いたします。
悪魔:フルトヴェングラーやテンシュテットの解釈と違いがないんじゃありませんか。

ブル八下品演奏対決──

なかなか邪悪な筆致で楽しませてくれる。ネタも新鮮。シュルヘンがどうの、サロネンがどうの、アルゲリッチがハハハ、マゼールがああして、バーンスタインがこうして……とワイドショーノリで楽しませてくれる。ところどころにクラヲタの急所と言うか、性感帯と言うか、つまり「教養のニヲイ」を振り撒き、そっちの「満足」も手抜かりはない。

あと、これは何もクラシック音楽に限らないけど、こういったくだけた調子の本にありがちな、僕個人の気になる点(快-不快)──クラシック系ならチャイコフスキーの項をまず見てチェック、わかるでしょう?──はなくて(あ、ハーディングのところは僕もそう思うしね)、逆上することもなく(笑)、とても気持ち良く読めた。




デビルマン解体新書

原作 永井豪&ダイナミックプロ / 編 赤星政尚
講談社



かく東方の情操は、本質的に「人間的なもの」への嫌悪から出発している。それからして必然的に、一方では「人間的でないもの」への崇拝へ導かれる。

荻原朔太郎『社会と文明』(講談社文芸文庫『虚妄の正義』)

原作が思想的思索的な影響を大いに与えたとするならば、TVアニメーション版はヴィジュアル的、感覚的な嗜好を決定づけたと言ってもよい。僕のマニエリスム絵画やシュルレアリスム芸術への偏愛は、この「デビルマン」という優れたアニメーションの影響抜きには考えられない。

この本は、原作とTV版両方についての豊富な資料&薀蓄が網羅されており(原作者永井豪へのインタビューもある)、デビルマンファンなら手元に置いておいて損はないだろう。特にTV版については、すいぶんとマニアックなネタ(楽屋オチとか)が披露される。
原作については
以前書いたので、ここではTV版について。

TV版デビルマン全39話の中で、僕のベスト5は、
  1. 『闇に住む妖獣ジェニー』
  2. 『妖獣ケネトス、謎のネックレス』
  3. 『妖獣ガンデエ、眼が歩く』
  4. 『妖獣エバイン、千本の腕』
  5. 『妖獣ファイゼル、影に狂う』
なんといってもサイコ・ジェニーである。原作でもグロテスクなんだがキュートなんだか曰く言い難いその特異なキャラクターに大いに魅了されたが、TV版でもジェニーは独特の「造形美」を放っている。内容的にも、くすんだ色調/映像、メランコリックな幻想シーンが素晴らしく印象的で、そこには、(子供向きとは思えない)不穏な妖しい雰囲気が漂っている。見応え十分な傑作だ。

ケネトスはその容赦のない残酷さ。だってコイツは人間の生首を傷つけ弄ぶサディスティックな変質者(獣)なんだもん。ギリシャ神話にでも登場しそうな造形のケネトスが、(当然身動きの出来ない)生首をいたぶるシーンはすごく好きだ。エレガントかつクール、人体破損の快楽をまざまざと見せつけてくれる。そして「ケネトスの闇」に浮かぶ無数の生首の映像感覚にも圧倒された。

「眼」はやっぱり気味が悪い。丸尾末広のマンガでもそうだけど、眼球ネタは生理的にゾクゾクくる。このガンデエのエピソードも「眼」にまつわる展開。不気味な眼差しを湛えながら自在に憑依する「眼」。特に目玉焼きに「眼」が浮かぶ映像は今でも鮮烈に覚えている。そういえばマーガレット・ミラーの『眼の壁』でも「眼」に取り囲まれ、邪な「眼差し」を浴びるヒロインの恐怖が見事に描かれていた。
ここでは一つ目の3妖獣のデザインも秀逸だ。

エバインのエピソードはまさにシュルレアリスム的である。鏡というなんとも魅力的な世界──そこは冥界でもある──、何千本の「手」が蠢きまとわりつくイメージ。鏡を小道具に使った作品には──マグリットやダリの絵画は言うに及ばず、キャロルの『鏡の国のアリス』、マーガレット・ミラーの『鉄の門』『狙った獣』『谷の向こうの家』等──、妙に惹かれところがある。それはこんなところ↓にあるのかもしれない。
禁忌を破り、あえて見ようとする者の前に立ちはだかるのが、鏡に他ならない。

谷川渥『鏡と皮膚』(ポーラ文化研究所)

シュルレアリスムと言えば、妖将軍ムザンのエピソードもパラレル・ワールド的な展開でかなり印象的だった。

『妖獣ファイゼル、影に狂う』はなんといってもその悪意あるストーリー。これはビジュアル的な面よりも思想的な影響が大。まさにツボにはまった作品だ。
「影よ落ちろ、影よ走れ、人の心を飾るうわべの知性、見せかけの教養とやらをひっぺがせ! 万物の霊長といばっていても、一皮むけば高級なサルしかないことを、骨の髄までたたきこんでやりなさい!」
という含蓄のある素晴らしいセリフ! そうなんだよ、人間なんて所詮「高級なサル」でしかないんだ(まあ、そんなのネットの匿名掲示板を見ればわかるって)。妖獣ファイゼルは、そんな人間の本性を剥き出しにし、ウルトラセブン『狙われた街』のメトロン星人にも似たやり方で人間界を翻弄する。ここでの「影」には、エドガー・アラン・ポウの『ウィリアム・ウィルソン』やオスカー・ワイルドの『ドリアングレイの肖像』に通じるものがある。
秀逸なのは、「ファイゼルの影」の影響を受けなかったアルファンヌのキャラ。オチとしてはアルファンヌが最初から知性と教養がない最初から狂った人物だったから、というとびきりのもの。ララのキャラともどもTV版デビルマンにおける愛すべき人物=逸脱人である。




さよならソクラテス

池田晶子 著 / 新潮社


ソクラテス しかし、僕が哲学、普遍的人格なら、なにも僕を使って対話篇書くこともないんじゃないか。僕についての論文なり、普遍の哲学論文書いてもいいんじゃないか。「ソクラテス=プラトンにおける帰納的推理とイデア認識の可能性について」とかなんとか。
池田某 くそ面白くもない。
ソクラテス 僕もそう思う。
池田某 思うでしょ?
ソクラテス 思うよ。
池田某 いつまでもそんなことやってるから、哲学はバカにされることになるんです。
ソクラテス おそらくな。
池田某 なんで帰納法的推理とイデア認識が、学校の中でだけ通用することなんですか。哲学の始まりは、日常のここでしょう。哲学と日常が別のものだなんて思っているのは、哲学をわかっていないか、日常をわかってない、つまり両方ともわかっていないということです。

「ソクラテス、著者と語る」p.217-218

『帰ってきたソクラテス』『悪妻に訊け』に続く痛快無比の対話術。ソクラテス&クサンペッチの最強コンビが、現代日本に生息する<ソフィストども>にチャチをいれ、バッサリと切り捨てる。まったく向かうとこ敵なしだ。
なによりソクラテス/プラトン流の明快かつ明快、どこまでもいっても明快な「言説」が唱える「ごくあたりまえの」真善美は、実に颯爽としていて、まっこと魂に沁み渡る。
難しくないものを難しく考えるほど、難しくなることはないからね。

「女に哲学ができるのか」p.173

で、ここで俎上に挙げられた<ソフィストたち>は……ベストセラー作家、新保守主義者、がん患者、心理学者、フェミニスト、脳生理学者、さらにインターネット推進委員長などなど。

もちろんソクラテスは──著者である池田晶子は、これら様々な<ソフィストたち>を前にして、真理を語る(騙る)ことに一切躊躇しない。それゆえ、その「真理」がときに非情に思えるかもしれないし、そのズケズケとした言いまわしに反感を覚えるかもしれない(そして実際に「民主制アテナイ」でソクラテスは処刑されたのだった)。
しかしそれこそが、自分の無知を知ること(無知の知)への第一歩であることは言うまでもないだろう。
ソクラテス ほらほら、君、そうはっきりものを言うから、逆恨みされるんだよ。
プラトン いーや、私は切れた、私は言ってやる。これは私のためじゃない、人類を災いから救い、英知と平和に導くためだ。理想の底力を見せてやる。
いいか、よく聞け。(アメリカ)合衆国の美わしき民主主義、その信念は、<全ての人は平等な存在として作られた>、ここにあるそうだな。対して私の理想国家は、<人間は平等でないという前提の下に考えられた>と。
その、通りだ。人間は、決して、平等ではないのだ。これは信念ではない、明白な事実だ。
(中略)
低劣なものは高潔なものより上にはない、これは道理だ。高潔なものは低劣なものの上に立つ、これが、王だ。王は低劣なものを高潔たらしめるべく教育する、これが統治だ、哲人政治だ。現世的快楽を至上の価値とする低劣な魂たちは、民主主義を賛美する。しかし、低劣の平等を実現した結果が、当の秩序なき国家ではないのか。魂の国家は、民主主義など断じて認めん!

「理想を知らずに国家を語るな」p.192

ちなみにこの本の出版は1997年。通常、こういった時事問題を扱った本はそれなりに「過去」になってしまうものであるが、ところがどっこい、この本の場合はぜんぜんそんな感じはしない。プラトンの対話篇を読めばわかるように、ちょっとばかし「知恵をつけた」<ソフィスト>の「やり方」は、古代ギリシアも現代日本もさほど変わりない。<ソフィスト>が細分化され、それぞれ別の名前で呼ばれているだけだ。だからそれら現代の似非言論人=ソフィストに立ち向かう戦略もさほど変わりない。
うーん、やっぱり2500年も生き長らえてきたソクラテス/プラトンの「やり方」には見習うところがあるね。そして無論、池田晶子にも。

それとこの本の最後「ソクラテス、著者と語る」で、プラトンの対話篇の「仕掛け」の妙を、著者である池田氏がソクラテスとの「対話」で述べていることはとても興味深い。つまり、”書き手としての「私」は、あなた(ソクラテス)の「私」を書くということによって存在せしめるというまさにそのことによって、あなたの「私」とは違うものです””あなたの「私」も私の「私」も、その内容においては同じものと言ってもよい。でも書く「私」と書かれる「私」とは、その形式において違うものです”、と。ここから絶対的一人称は、裏返しの絶対的三人称であり、弁証法という内容は、形式としては対話体になることが導かれている。