BEYOND THIS POINT
ARE MONSTERS
BOOK REVIEW


デビルマン
永井豪&ダイナミックプロ


講談社漫画文庫


悪魔の正体は人間だ!
人間の強い願望が自身の体細胞を変化させた!
現代社会の不満が増大した結果…そのやり場のない不満を別生物になることでみたそうとしたのだ!
その種の人間は悪魔になる以前に処分が必要!
殺せ!
現代社会に不満をもつ者を殺せ!
悪魔の因子を抹殺すれば悪魔は消える!

第4巻p.254-255 雷沼教授のセリフ

漫画版デビルマンは、僕にとって、最も影響を受けた「本」に他ならない。その後体験したドストエフスキーニーチェの思想、あるいはストラヴィンスキーシェーンベルクの音楽によりも、遥かにインパクトがあったはずだ。ひさしぶりに読み返してみて、改めてそのことを確信した。
何よりその圧倒的な迫力。デーモンと人間との合体、シレーヌVSデビルマン、そして最終戦争。この壮絶な戦いにまず少年の目は奪われる。
さらに永井豪特有のエロティシズム。しかもここにはTV版と違い(あるいはキューティ・ハニーと違い)不動明と飛鳥了のゲイ・エロティシズムまで加わっている!!! 
そしてシュールな姿形のデーモンたち。ストレートでちょっとオタクな友人はシレーヌ(多分一番人気?)に萌えているらしいけど(笑)、僕個人は「サイコ・ジェニー」のキャラが最高だと思う。

この「デビルマン体験」に匹敵するのは、シューマンの「クライスレリアーナ」を聴いたときか、あるいは、初めてのゲイセックスと同じくらい強烈な体験だったかもしれない。
わたしの心に、殺す風が
 遠くの国から吹いてくる。
なんだろう、あの思いでの青い丘は、
 あの塔は、あの農園は?

あれは失われたやすらぎの国、
 それがくっきり光って見える。
幸せな道を歩いていった。 
 わたしは二度と帰れない。

A・E・ハウスマン 「シュロップシャーの若者」
マーガレット・ミラー『殺す風』(創元推理文庫)より

この壮大な物語、ハードな黙示録をどれほど多く語っても語り尽くせるものではなく、却って自分の役不足を思わずにはいられない。苛立ちすら感じてしまう。「デビルマン」は、読むたびに何か新しい発見がある。新たな視点を与えてくれる。
よってここでは、このデビルマンを読んで最近考えたことを自由に書いてみたい。

この作品で最も衝撃的だったのは、人間の恐ろしさである。たとえジンメンがサッちゃんを食べたり、デーモンによってススムくんが殺されたりしても、最終巻での暴徒と化した人間たちが、悪魔狩り=人間狩りを行い牧村家を襲うシーンほど恐ろしく絶望的な光景は見られない。足元を掬われるような価値観の倒立は、こここにある。

つまり人間が(あるいは集団が)他者を「悪魔」と命名した瞬間に、「人間」は、神以上のオールマイティさと悪魔以上の邪悪さを獲得する。「命名」は自分と他者を区別し、差別する。「勝手な命名」は「敵意」のしるしである。
このことは、別にデビルマンを読まなくても歴史を降り返れば明らかであろう。ある人種や民族、宗派宗教、身分に対し、どれほどの暴力があったことか。このデビルマンにも登場したアドルフ・ヒトラーが、ユダヤ人や同性愛者、ジプシー等を抹殺しようと、どれほど「悪魔的な知恵」を働かせたか。

もちろんこういった残虐なことをするのは、ヒトラーなどの特別な人間に限らない。ただ「人間」は「人間」に対して、それほど残酷なことはできないだけだ。「人間」が「悪魔的」になれるのは、デビルマンにもあるように、相手を「悪魔的」な扱いで「命名」したときである。逆にいえば、人間が残虐な行いを欲望したとき、他者を「命名」するプロセスが発生する。「免罪符」は、いとも容易く発行される。
悪魔特捜隊だと
ばかめ、人間などに悪魔と人間の見わけなどつくものか!
一六世紀のキリスト教徒のように針でからだをつっつこうとでもいうのか
それとも手足をしばって水の中に投げ込むのか
九百万人もの無実の人間を惨殺したおろかさをくりかえすがいい…

第4巻p.236-237 飛鳥了のセリフ

このことはマンガや過去の歴史だけに止まらないことは、最近の出来事を見てもわかるだろう。しかし、たとえ殺戮や破壊に至らなくても、 「他者」を「勝手に命名」し、カテゴライズ化&ラベリングする傲慢さに、排他的思考、悪魔的思考が潜んでいることを、いったいどれくらい多くの人が自覚しているのだろうか。

ナチスはユダヤ人や同性愛者、政治犯に対し、どのようなネガティブな「イメージ」と、ネガティブな「名前」、ネガティブな「しるし」を与え、虐殺していったのだろう……一般のドイツ国民を煽動させるために、「被-命名者」に対し、侮蔑と憎悪を擦りこませるために、。

とはいえ、「命名」に近い作業は、「悪魔的思考」とは別に数多くの人が日常的に行っている。その一つは(「悪魔」で思い出したが)、「親」の「子供」に対する名前付けだろう。
しかしこの場合でも、まともな親なら、自分の子供に、否定的ニュアンスのある「名前」「文字」を避けるのが普通だろう。ある親が自分たちの子供に対し、一風変わった名前の命名に挑戦することあっても、それは、彼らの子供に対する愛情と希望から生まれたもの、考えに考えを重ねた「命名」に違いないからだ。


「命名」についての個人的な疑問は、
吉見俊哉編 『カルチュラル・スタディーズ』にも書きました。




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