人権の彼方へ
政治哲学ノート
ジョルジュ・アガンベン 著 / 高桑和巳訳、以文社
住人があらゆる政治的立場を奪われて完全に剥き出しの生へと還元された、という事実自体からして、収容所は、かつて実現されたことのない最も絶対的な生政治的空間でもあり、そこで権力が向き合っているのは、何の媒介もない純粋な生物学的生にほかならない。というわけで収容所は、政治が生政治的になり、ホモ・サケル homo sacer が市民と潜在的に混同されるという点で、政治的空間の範例そのものである。
p.46
イタリアの思想家ジョルジュ・アガンベン(Giorgio Agamben)による論文集。雑誌や新聞に発表された、さほど長くないテクスト群からなるが、一読して、そのキレ/論理の鋭さに痺れた。読後、しばし呆然とさせられることも幾度か。これが、この人の持つ、そして「本当の思想」の持つ強度だろうか。アガンベンは本当に凄い。
読みながらベンヤミンを思い出した。例えばあの『複製技術時代の芸術作品』。芸術のアウラについて様々に論じて……それが政治の耽美主義=ファシズムを「論じていることになり」、文章はフッと終わる……そんな後味なのだ。
実際、アガンベンはベンヤミンに何度も触れその思考と交錯する。
「抑圧されている者たちの伝統がわれわれに教えるのは、われわれの生きている『例外状態』は規範である、ということである。われわれは、この事実に対応する歴史概念に到達しなければならない。」ベンヤミンのこの診断はもう五〇年以上も前のものであるが、まったく今日性を失っていない。
p.14
全体を貫く中心的な議論は、人間の人間としての権利──すなわち「人権」である。絶滅収容所における「例外状態」「剥き出しの生」が現代政治の問題に鮮やかに照射される。ハンナ・アーレントによる全体主義の思考にフーコーの生政治の理論を接続させ、アガンベンは、新たな政治の可能性を示唆する。
したがって、収容所で犯された残虐行為を前にして立てるべき正しい問いとは、人間に対してこれほど残酷な犯罪を遂行することがいったいどのようにして可能だったのか、という偽善的な問いではない。なにより真摯で、とりわけさらに有用なのは、人間がこれほど全面的に、何をされようとそれが犯罪として現れることがないほどに(事実、それほどに一切は本当に可能になっていたのだ)自らの権利と特権を奪われることが可能だったのは、どのような法的手続きおよび政治的装置を手段としてのことだったのか、これを注意深く探求することであろう。
p.46
このアガンベンが提示する「例外状態」、「剥き出しの生」については、西谷修がさらに踏みこんで説明してくれる。
強制収容所は純粋な「例外状態」にある。そこでは、法的な根拠を必要としない剥き出しの権力が、その恣意的な決定を、いっさいの法権利の外に置かれた人びとの上に及ぼす。一方、収容された人びとは、たんに自由や権利を奪われただけでなく、人格さえ剥奪され、もはやいかなる意味でも「主体」ではなくなり、「私」と表明する権能さえ失って、ただ単に生きている──そして死を約束されている──という、「剥き出しの生」の状態に置かれる。
西谷修 解題=「例外状態」と「剥き出しの生」p.157
そしてこの部分──特に「人格さえ剥奪され、もはやいかなる意味でも主体ではなく」という部分──を読んで思い浮べたのは、東浩紀が『動物化するポストモダン』で、同性愛者を「倒錯」と何度も何度も何度も呼び、平然と差別的言説を投入していることだ。
精神科医の斎藤環は、オタク系文化の図像がさまざまな性倒錯で満たされているにもかかわらず、なぜオタクには現実の倒錯者が少ないのか、という問いを幾度か提起している。男性のオタクたちがロリコンものを好み、女性のオタクたちが男性の同性愛者が登場する「やおい」ものを好むのは八〇年代から有名だが、その一方で、現実の小児性愛者や同性愛者がオタクたちのあいだで決して多くないこともまた知られている。
東浩紀『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)p.129-130
いったい何故、「客体」として、この文脈に登場した/登場させられた「同性愛者」が、「倒錯者」呼ばわりされなければならないのだろう。問題は、オタクのペドフィリア(の図像)はずだ。いったい何故、同性愛者は、「倒錯」と呼ばれる「だけ」のために、この本に引き合いに出されなければならないのだろう。
要するに、これは、「オタクの倒錯」を誤魔化すために、同性愛者を引き合いに出した「薄汚い」論法だ。自分たちに向けられる汚辱を引き受ける「勇気」を持たない卑怯者=オタクが、その汚辱を同性愛者に転化していて、安穏としている。
この本を読んで、東には心底失望した。彼はリベラルな思考をする人物だと思っていたが、これでは、大橋洋一の言う「同性愛を差別的言説投入可能な領域とみる無自覚かつ犯罪的研究者」と変わりない。
同性愛者をオタクより下に置き、それによって、相対的にオタクの「倒錯性」を胡散させる。──ちょうど江戸時代の身分制度で、士農工商の下にさらに低い身分を置き、実質的に低い階級の不満を紛らわそうとしたように。東の「思考法」は、部落差別の「根源」と通低する。
さらに東は、「同性愛を自らのセクシュアリティとして引き受けるという決断には、またまったく異なった契機が必要とされる」と書いている。が、その「契機」が「どういうふうに異なった契機」であるのか、具体的には何も記していない。どうして「異性愛者」である東が、「同性愛を受け入れる契機」について利いた風なことを言えるのだ。
彼らは10代の頃から膨大なオタク系性表現に曝されているため、いつのまにか、少女のイラストを見、猫耳を見、メイド服を見ると性器的に興奮するように訓練されてしまっているのだ。しかしそのような興奮は、本質的に神経の問題であり、訓練を積めばだれでも掴めるものでしかない。それに対して、小児性愛や同性愛、特定の服装へのフェティシズムを自らのセクシュアリティとして引き受けるという決断には、またまったく異なった契機が必要とされる。(略)だからこそ彼らは、前に述べた二次創作への態度と同じく、一方でいくらでも倒錯的なイメージを消費しながら、他方では現実の倒錯に対して驚くほど保守的であるという奇妙な二面性をもっているのである。
『動物化するポストモダン』p.131
これはいったい何が言いたいんだ?
「異性愛者」である東は、「異性愛を受け入れる契機」を、多分(同性愛者に対して)もちろん説明できるのだろうが、それが「同性愛を受け入れる契機」をも同性愛者/異性愛者に対して「説明」できると何故豪語できるんだ?
それは、「異性愛」も「同性愛」も特別な契機は「ない」からだろう。「性的指向」は、「選択」ではない。「異性愛者」が「異性愛」に「なる」のだとしたら、同じように、「同性愛者」も「同性愛」に「なる」。そこには「選択」も「契機」も何もない。「なるように、<なる>」だけだ。
しかし問題は、いつだって、「異性愛者」が「同性愛者」を<恣意的に><侮蔑的に>語る、そのメカニズムにおいてだ。
オタク(「やおい」)にとって、同性愛者は決して「主体<ではない>」。それなのに、同性愛者が同性愛を受け入れる契機さえも、その「発言権」は、異性愛者の「臆断」に委ねられる。さらに同性愛者は、異性愛者が<勝手に>「倒錯」としてカテゴライズされた「収容所」に投げ込まれ、与えられた偏見による「生」を「内面化」するよう強制される──「例外状態」に置かれ、「主体」を奪われる。
しかし、こういった東のような<無自覚的、自覚的>差別主義者に抗すべく、アガンペンは、マイノリティに向けて素晴らしいメッセージを投げかけてくれる。
きみたちは、ただきみたちの顔であれ。境界線に向かって行け。自分の固有性、自分の能力の主体であることにとどまってはいけない。それらの下にとどまってはいけない。それらとともに、それらのうちに、それらを超えて、行くのだ。
p.104-105
アンティゴネの手
ニコル・ロロー 著 / 吉武純夫訳、「現代思想1999/8」青土社
悲劇というものは、ある意味をそのままで他所から持ち込むことはしないし、しかしまた、語の中に潜在的に書き込まれていないような意味を作り出すこともしない。そして悲劇というジャンルは、個々の auto-複合語の中で、autos という語の潜在能力によってもたらされる意味上の厚みに頼るものである。
p.132
ソポクレスの悲劇『アンティゴネ』を、その作品の中で使われている「言語現象」に着目した論考。要するに「単語」レベルにおける読解ということだ。したがって、このテクストには横文字/ギリシア語が乱舞する……そんなギリシア語が乱舞する文章なんて……と最初は及び腰だったが、なかなかどうして、ずいぶんと興味深く読ませる。何より、(ギリシア語が読めない僕は、翻訳に頼るしかないのだが)、翻訳では「見えない」この傑作悲劇の構造が、おぼろげながら「見えて」くる、ようだ。
ここで、ギリシア史家の大家ニコル・ロロー (Nicole Loraux)が注目するのは、auto-複合語という「自身」が「再帰」される語の連発。それは autos は「自身」を意味し、この「カテゴリー」は「アイデンティティ(同一性)」と「再帰性」との「間」にあるものだからである。
autadelphos(「自身の兄弟姉妹の」、三回)、autogennetos(「自身で産んだ」)、autognotos(「自身で決めた」)、autoktoneo(「互いに殺し合う」)、autonomos(「自身の思いのままに」)、autopremnos(「根こそぎに」)、autourgos(「自身の仕業で」)、autophoros(「自身で自身を捕らえた」、以上各一回)、autokheir(「自身の手でもって」、五回)
ロローは、auto-複合語をテクスト中から拾い出し、これらの単語が使用された現象を追って行く。彼女が『アンティゴネ』の読解で示唆するのは、「自身が自身に跳返って来ることによる衝撃」と「古代の文法家たちが再帰詞という形で説明しようとした自分自身への作用」だ。中でも重点を置くのは autokheir(「自身の手でもって」)という言葉である。
アンティゴネが市民の良心に対して投げかける問いかけという観点から考えると、彼女の物語は、絶えずまとわりついてくるautokheir (自身の手でもって)という語について一歩一歩進められた考察として読むことができるであろう。あるいはむしろ、絶えずというのは、彼女自身のまさしく自殺の瞬間を除いてのことだと言い添えるべきかも知れない。アンティゴネがautokheir なる者として自殺した、と語られていないのはなぜなのか? (中略)
それは、悲劇というジャンルと、再帰性の文法と、法の言語の間の関係という問題をよりはっきり理解することにもなるであろう。
p.133
そして、そして、「瑣末な単語レベル」に拘った、韜晦なだけの読解だと思っていたが……「家族の係争」が「内紛」へと読まれるに至って、非常なスケールと熱気を帯びたエキサイティングなリーディングになっていく。
ところで、この悲劇におけるekhthroi (「憎き者・敵」)とphiloi (「友・味方」)という語の無数の使用も保証しているように、二人の主人公はそれぞれ全人類を、憎まれるべき人と、愛されるべき人とに分割している。そしてこの悲劇においては、stasis 「内紛」というのは、──この語のみならず、この語が通常表すものもこの作品中に一度も語られていないのだが──家族関係の基本的な一様式であった。
p.141
ロローの主人公としてのアンティゴネに対する態度は、非常にクールである。突き放しているようにさえ思える。多くの──「内容」を重視した読解による──「個人」と「国家」との対立に引裂かれた悲劇のヒロインの問題系とは次元が異なる。「自分自身に対してしかける者の致命的な運動の激化」「auto-複合語の様々な形を駆使して、文法と法学の間を行ったり来たり」しながら最終的に「同一者の同一者に対する悲劇の作用」を見て取る。徹底してハードな「読み」だ。
そういえば、田崎英明が、ニコル・ロローは歴史修正主義への反駁をプラトンやアリストテレスのソフィストへの反駁を参照しながら提出している、と書いていた。「被害者」の「感覚」しかもはや「証拠」がない、アウシュヴィッツの「状況」。そこを突いてくる歴史修正主義。ロロー(やヴィダル・ナケ)は、そういったソフィスト的議論を論駁し注目されているという。
そして、このロローらの「方法」は、個人的にも多いに得るところがある。それは東浩紀にように、一見リベラルを装いながら、同性愛者を「倒錯者」と呼び、差別的な言説を投入している人物がいるからだ。
しかも東の論旨が卑怯なのは、オタクの「倒錯性」を誤魔化すために、同性愛者を「現実の小児愛者」と並列させ、平然と「倒錯者」と何度も何度も何度も言い放っていることだ。まるで「他者」を「倒錯者」と呼ぶことによって、自分たちは「倒錯者<ではない>」と「悪魔祓い」(サユル・フリードレンダー)をしているかのように……どうして「自身」の「倒錯」を「自身」へと「再帰」させないんだ? そこが、卑怯なんだよ。
だから僕は、
児童ポルノ改正に賛成する。いや、賛成せざるを得ないのだ。
なぜなら、(東が同性愛者と並列させて「倒錯」と呼ぶ)「現実の小児性愛者」との違いを示すために。そして(自分たちの「倒錯」を棚において「同性愛者」に「倒錯」を擦りつける)卑怯者の集団=オタクとの違いを、明確に、指し示すためだ。
そして強調しておきたいのは、「現実の同性愛者」と「現実<ではない>同性愛者」の区別に意味がないように、「現実の小児性愛愛者」と「現実<ではない>小児性愛愛者」=「オタク」の区別は無意味だということだ。
イデオロギーとは何か
テリー・イーグルトン 著 / 大橋洋一訳、平凡社ライブラリー
支配的権力は自己を正当化するために、支配的権力になじむ信念や価値観を<促進>し、そのような信念なり価値観を自明のもの、不可避なものにみせかけるべく<自然化>し<普遍化>し、支配的権力に挑戦してくるかもしれない思想を<侮蔑>し、競合する思考形式を、ふつう、なんらかの暗黙の、だが体系的な論理によって<排除>し、そうして支配的権力につごうのよいようなやりかたで社会的現実を<歪曲>する。こうした「神秘化」は、よく知られているように、しばしば社会的葛藤を隠微し抑圧するというかたちをとる。
p.29
"An Introduction"に相応しい「イデオロギー」についての基本中の基本書。イデオロギーという言葉を発案したデステュット・ド・トラシーから、様々なイデオロギー概念を歴史的に追っていく。網羅的であり、注も豊富、索引も「人名」「事項」「文献」の3項目からなり、万全の「入門書」になっている。
しかも原著が91年発行なので、マルクスやレーニンといった古参ばかりでなく、フーコーやデリダ、ド・マン、バルト、アルチュセール、ジジェク、スローターダイクといった「現代思想」の有名人もしばしば顔を出す。何しろイーグルトン自身も、ジジェクの「イデオロギー本」に登場する有名人──言うまでもなくイーグルトンは舌鋒鋭いポストモダン批判者として有名だ──なので、この本自体、様々な思想/概念を紹介しながら、「思想」そのものについて問うていく、ある種の「メタ思想」としての体裁を取っていることになる。
そのことが窺えるのが、個々のイデオロギー概念の紹介に入る前におかれた、第一章「イデオロギーとは何か」と第二章「イデオロギー戦略」である。序奏にしては、かなりのヴォリュームが割かれたこの二つの章でイーグルトンが示唆するのは、まさに「戦略」としての「思想史」である。
イーグルトンは、「禁欲的」に「<いわゆる>イデオロギーについて」だけ紹介していく。そこには、フェミニズムやゲイ・スタディーズ、カラチュラル・スタディーズ、ポスト・コロニアルといった現代的な「社会学」の基本事項には、<一見>、触れられていない。
しかし、それこそが、この本の狙いだろう。すなわち、括弧つきの「フェミニズム」や「ゲイ・スタディーズ」個々の事項に沿った議論をするのではなく、この本全体で追求され、解明していく様々な「概念」や「批評理論」を、それぞれ自分の「懸案」に、移行/置き換え/応用<可能なもの>として、イーグルトンは、提示する。
だからこの本は、ゲイ・スタディーズについて、<一見>何も触れていないのにもかかわらず、僕にとっては、最高の「ゲイ・スタディーズ」の「教科書」になっている(同じく、「フェミニズム」や「ポスト・コロニアル」に関心のある人にも多くの示唆を与えてくれると思う)。
よって、この<イデオロギー>に関する本を読んで、僕は「自分の持っている懸案について」様々なヒントを得ることができた。以下は、そのことについての一部だ。
イデオロギー的にいって、誰も完璧に愚かな繰り人形ではないという証拠に、劣等であると規定されるひとびとは、実際には、おまえたちは劣等であると教えられ、自分から劣等になるよう努力することを余儀なくされたことがあげられよう。女性や植民地主体を抑圧するには、女性であること、植民地の人間であることが低級な生活様式であると定義するだけでは不充分である。彼らには、積極的にこの定義を教えつづけないといけない。そうこうするうちに、この教えを身につけた優秀なる卒業生が生まれ、自分のことを自信をもって低級であることを立証することになろう。考えてみれば、驚くことである。感受性も才能もゆたかで、頭の回転も早い男や女たちが、いつのまにか、自分のことを野蛮で愚かな存在として確信するにいたるのだから。
p.17
このイーグルトンが投げかける議論で、僕が問題にしたいのは、
東浩紀の『動物化するポストモダン』だ。『動物化するポストモダン』で東は、「同性愛者」を何度も、何度も、何度も「倒錯者」と言い放っている。まさに、これこそ「おまえたちは<倒錯>(劣等)であると教えられ、自分から<倒錯>(劣等)になるよう努力することを余儀なくされ」る状況に他ならない。
(しかも東の論旨が卑怯なのは、オタクの「倒錯性」を誤魔化すべく──そのためだけに──「現実の小児愛者」と「並列」させ、「同性愛者」を引き合いに出すことだ。さらに東が参照する「やおい」には、「レイプされてハッピーエンド<イデオロギー>」なるものが流通しているという。こんな馬鹿にしきった「イデオロギー」があるか。心底アタマにきた。どうして「やおい」は「成人指定」にならないんだ。このことは別の機会で取り上げたい)
東は、『動物化するポストモダン』という「本」が、同性愛者を差別し抑圧する「大きな物語」=イデオロギーの装置として「機能」していることを、どれほど認識しているのか? 他者を「ラベリング」する狙いは何なんだ?
しかもだ。東は、「同性愛」を「自らのセクシュアリティとして引き受ける契機」についてまで、触れている。どうして「異性愛者」である東が、「同性愛」を受け入れる「契機」について軽々しく書けるのだ? 自分の書いた文章を「省察」したことがあるのか? 直前の文章で同性愛者を「倒錯」と呼んだ「その意味」を、「その重大さ」を、いったい、理解しているのか?
同性愛者は「<ただ単に>同性愛」であることを「受け入れる」だけでは済まない。「<倒錯としての>同性愛」を「受け入れ」なければならない。東が軽々しく同性愛者を「倒錯」と言い放つ「その重み」を、「その抑圧」を、10代半ばの少年少女が「受け入れ<なければならない>」ことを、いったい、どれほど、わかってるのか?
思春期の同性愛の少年少女の自殺の多さを、いったい、どれほど、理解しているのか?
同性愛者を「倒錯者」と呼ぶことと、ユダヤ人を「劣等民族」と呼ぶこと、従軍慰安婦を「売春婦」と呼ぶことに、いったい、どれほど「差」があると思っているんだ?
「おまえたちは劣等/売春婦/倒錯であると教えられ、自分から劣等/売春婦/倒錯になるよう努力することを余儀なくされること」=「内面化」について、「その受け入れ<難さ>」の「葛藤」をどうして考慮しないんだ?
『動物化するポストモダン』は、立派に、イデオロギー装置=「大きな物語」としての役割を果たしている。それは、東が、同性愛者を何度も何度も何度も「倒錯」と「ラベリング」して(それを「自然化」「普遍化」させるべく差別知=精神分析=支配権力のイデオロギーを引き合いに出し)、「同性愛を引き受ける契機」を<勝手に>軽々しく「解釈/歪曲」しているからだ。
イラスト図解”ポスト”フェミニズム入門
ソフィア・フォカ、レベッカ・ライト 著 / 竹村和子、河野貴代美訳、作品社
フーコーと同様バトラーは、「近親姦の法」は神話的構築物であり、人類学や精神分析の構造主義理論が家父長制を理解し正当化するために使ったものにすぎないと主張した。
またバトラーは、「近親姦の法」が、抑圧的でなく産出的だというフーコーの考えにも賛同する。
したがって「近親姦の法」は、異常な同性愛/正常な異性愛という、二分法的言説を生み出す。
「多様な性実践」p.108
なにより「図解」による「理論の整理」が見事だ。知っているようで、実は良く知らない──知っているのは、多分、「俗流フェミニズム」だろう──「現代思想」としての「フェミニズム理論」を、カタログ的に紹介していく入門書。
もともと、ジュディス・バトラーのところだけを立ち読みしようと思ったのだが、読みながら、ジーンズを履いた「ガブリエル・デストレとその妹」のモデルが、様々に立居振舞い、様々な「理論」をコンパクトに説明していく「その楽しさ(ジュイサンス)」をじっくりと味わいたくなり(また、書店のフェミニズム/セクシュアリティコーナーで長居をする不精髭を生やした「男」というパノプティコン的不安に苛まれて)、このピンク色でカヴァーに女性下着を大胆にあしらった──しかしそれは僕にはただの「記号」でしかない──本を、デヴィッド・ハンプリンの『聖フーコー ゲイの聖人伝に向けて』と一緒にレジに運んだ──書店員が想像するであろう、この客はただ単に「性」に関心(欲望)があるのか、それとも「ゲイ」に関心(自己同一化)があるのかという抑圧的な視線を撹乱し、ジョーン・リヴィエール的「防御」をするために。
実際非常に面白く、とても勉強になった。「ポストフェミニズム」とは、この本の著者によると、1968年のフランスに始まり、現代思想の分析手法(精神分析、ポスト構造主義、ポストモダン、ポストコロニアルなど)を駆使したものである、ということだ。さらに、ここに、大きく二つの流派がある。それが「フェミニズム革命派(FR)」と「サイケポ」だ。
「フェミニズム革命派(FR)」は、「平等」を目指し、フロイト流の精神分析に反対する立場でレズビアンから多くの支持を受ける(これは「同性愛」を異常とみなす「精神分析」の態度からそれに反対するのは当然と言えば当然だろう)。一方「サイケポ」は、「差異」を重んじ、精神分析の手法やデリダの「脱構築」を応用して、女性性を<知的に>書き記す。
それゆえ、こういった先鋭化・深化した「フェミニズム理論」を理解するために、この本では、ラカンやフーコー、デリダの考え方がクローズ・アップされる。また、あまり「フェミニスト」というイメージがないスーザン・ソンタグやハンナ・アーレント、ファジー理論のスーザン・ハック、さらにサイードやヴィトゲンシュタイン(もちろん彼らの似顔絵付きで)なども登場して、さながら現代思想の饗宴という趣きだ。
だから、言うまでもなく、この本で提示される様々な「思想」「理論」は、フェミニズムだけでなく、ゲイ・スタディーズにおいても十分置換可能であり、実際そういった「置換」をしながら、ページを捲っていった。
例えば、この本の中で、サイードの以下の説が紹介される。
「オリエント」は自然なカテゴリーとして存在しているわけではない。それは西洋主体が東洋的対象を知り、支配するときの《オリエンタリズム》という枠組みによって生み出されたものである。
虚構であるにもかかわらず、様々な《オリエント》の説明は、やがて「自然」なものとなり、それを生み出した元の政治的動機を曖昧にしていく。
「オリエンタリズム」p.122-123
これは「西欧主体」を「男」に、「東洋的対象」を「女」に置き換えれば、「フェミニズム」に応用できるし、「異性愛」と「同性愛」に置き換えれば、「ゲイ・スタディーズ」になるだろう、つまり、
「同性愛」は自然なカテゴリーとして存在しているわけではない。それは異性愛主体が同性愛的対象を知り、支配するときの《ホモセクシュアリティ》という枠組みによって生み出されたものである。
虚構であるにもかかわらず、様々な《同性愛》の説明は、やがて「自然」なものとなり、それを生み出した元の政治的動機を曖昧にしていく。
そして、こういった「作業」をしながら、僕は、この本で紹介された「エクリチュール・フェミニン」を提唱したエレーヌ・シクスーの「方法」に興味を惹いた。彼女はデリダの「差延」の思想を取り入れ、「女が別種の経験を表現することで既存の構造を組み替えうる」と主張する。
シクスーは、「彼女自身の身体を書く」テクストのなかで、二分法の閉塞性を打破した。この無制限のテクストの悦びは、ジュイサンス(快楽)と呼ばれる。この語はラカンによって作られ、それに相当する的確な英語はないが、その意味は、性的オーガズムから導き出される究極の快楽である。
「女の快楽」p.56
ここで僕は、シクスーの唱える「女の快楽(ジュイサンス)」に相当する、ゲイ特有の「別種の経験」=「ゲイの快楽(ジュイサンス)」を考えてみた。ただし、その中で真っ先に「外した」のが「アナル・セックス」である。それは「アナル・セックス」が、一般に、ゲイ特有と思われているにもかかわらず、実際には「異性愛者」も「行っている」セックス・ヴァリエーションであり、しかも同性愛のそれは、異性愛のヴァギナ-ペニス間セックスの「パスティーシュ」であるとも「パロディ」であるとも見なされてしまうことが多々あるからだ(しかも、日本では、「やおい」という差別的なポルノグラフィーによる誤解と偏見によって──特に「やおい」作家が好んで描き、「やおい」読者が好んで語る「レイプ・シーン」において──「アナル・セックス」が最悪の形で「利用」されている)。
また、「アナル・セックス」を表現するための語彙にしても、「能動/受動」(英語では、Top/Bottom)という、どうしても「階層的」なイメージ──それは「二分法」に基づいてしまう──を孕むシニフィアンに頼らなければならない。
よって、「ゲイのジュイサンス」を戦略的に──セイディー・ブラントの提唱する「ハイパーテクスト」で──書き記す(エクリチュール)ものとして、僕は、「69」を選ぶ(ただし「69」を「シックス・ナイン」と特権的に発語してはならない。「69」は「シックス・逆シックス」でも「逆ナイン・ナイン」でも良いからだ。「69」は何より視覚に訴える「記号」だ)。
フェラチオをしながら、フェラチオをされているという「69」の機構(エコノミー)は、「ペニスに基づいた男根的権力」を「奪い」ながら、<同時に>、「奪われている」もの、「欠如」を「備給」しながら、<同時に>、(「欠如」に対立する)「快楽」を「与えている」ものとして、「二分法」からの「脱出」を可能にすると思えるからだ。
そこには能動/受動、上/下はない。男根を「もつこと」と男根で「あること」の両義性によって、主人と奴隷の構造は霧散し、主人/主人でもあり奴隷/奴隷でもある「ドラマ」が展開する。そしてそれはプラトン的一体感で充足/安定しているものだ。しかも、ゲイの「69」は、「性的快楽が実際に存在しなくても、女は<仮装>でき」「男はその現存を証明しなければ、不能になる」というガヤトリ・スピヴァクのデリダへの批判を、「勃起」してるかどうか("on"か"off"か)というこれ以上ないシンプル=デジタルな「明証性」によって、十分に交わせることができるだろう。
経験的に「69」の「ジュイサンス」には終わりがない──射精に導かない、射精に向かうためには、もっと強い刺激が必要だ。よってこれは「無制限のテクストの悦び」とアナロジー的に結びつく。そして、このだらだらと「無制限」に続くかのようなテクストは、ヘンリー・ジェイムズやプルーストの文体(エクリチュール)を想起させる。彼らの小説は、まさに「ゲイのジュイサンス」そのものだ。