カルチュラル・スタディーズ

吉見俊哉編/ 講談社選書メチエ



なんとなく流行っていて、なんとなくお洒落な響きのする「カルチュラル・スタディーズ」。どういうものか良くわからないが、ちょっと知ったかぶりが出来るかも、なんていう不純な動機と軽い気持ちで手に取ったのだが、これがなかなか面白かった。
とくに本山譲二氏の第三章「人種・エスニシティ」は、全編これ目からウロコって言う感じで、素晴らしく示唆に富んでおり、ひさしぶりにメモを取りながら読んでいった。

カルチュアル・スタディーズとは、一言でいえば、本書第1部の掲題である「カルチュアル・スタディーズは大衆文化(ポピュラー・カルチャー)を語る」になることらしい。
ただ、このカルチュアル・スタディーズが視座においているものは、これまで社会学あたりでやってきたものとあまり変わらない気がする。既存の呼び名があまりお洒落でなくなったので、新たに「命名」されていると思うのだが……ちょうどハードボイルド小説が流行らなくなってイメージも古臭いので「ノワール」と呼んでいるようなものであろうか>違うか?


それで、 「人種・エスニシティ」では、エドワード・サイード『オリエンタル』の指摘から「認識論の暴力」(G・C・スピヴァック)への異議申立てが示される。これは”西欧が東洋を制御/分析可能な他者である「オリエント」として表象する知の体系”を問題視する。エスニシティ、人種、女性などという概念=言説自体が、そもそも西洋/男性中心的に構築されているからだ(このことは、同性愛が異性愛者によってつくられた一方的な概念であることを導ける)
そこで無視されてきたのは、人種、エスニシティを単純化し、画一的にカテゴリー化した、「知の体系の暴力」である。だからこそ、あらかじめ締め出されている、人種やエスニシティを画一的にカテゴリー化した、そもそもの知の体系の暴力を問題化する必要がある。
さらにフランツ・ファノンによる人種への「命名」問題。フランツ・ファノンはカリブ海出身の思想家、精神科医、革命家で、『黒い皮膚・白い仮面』という著作がある。とくに『黒い皮膚・白い仮面』の中の「黒人の生体験」という論考には非常な興味を覚えた。
この論考でファノンは、あるときパリの街角で「ほら、ニグロ」だと突然「命名」された経験を書いている。この「経験」のせいで、彼は自己を引き裂かれるようなトラウマを体験したそうだ。
このように「黒人の生体験」は、自己の一切の差異を否定され、「ニグロ」であると一方的に他者にカテゴリー化され、そのことで自己を引き裂かれ、黒としてのみ着色される経験であることを物語っている。このファノンの経験は、同時に黒人とは、あくまでも白人の視点によって一方的に名付けられ、構築されることも示している。
この部分、「突然の命名によるトラウマ」や「認識論の暴力」に僕が敏感になるのは、自分が同性愛者であり、突然「ホモ」や「おかま」という言葉で「命名」されることの抑圧を、ファノンと同様に強く感じるからだろう。

このことは、例えば小谷真理氏が書いた『おこげのすすめ』という本の題名にもなってしまった「おこげ」という「おかま」から派生した言葉にも当然不快感を感じる。「おこげ」や「おかま」は同性愛者の「自己の一切の差異を否定」し、何でもかんでもアナルセックスに結びつけようとする「表象する眼差し」に他ならない。
ジェンダーやセクシャリティ問題に精通していると思われるフェミニストの女性が、ゲイの男性に対し、(やおいも含め)抑圧的な言動を取ることに、ある種、絶望的な思いがする。

他の章では「ジェンダーとセクシャリティ」に興味があったが、ただここでは、初心者向けの議論に終始しており、僕にとってはそれほど新味はなかった。ただ「パッシング」については、読みながら、まさしくこれはマーガレット・ミラーの『見知らぬ者の墓』のテーマでもあったことを改めて感じた。マーガレット・ミラーの凄さがここにも顕れている。

「サブカルチャー」の章では、サブカルチュアル・スタイルの特徴を「ブリコラージュ」と呼んだところが面白かった。この言葉はレヴィ=ストロースの『野性の思考』の「ブリコルール(器用仕事人)の実践からきているもので、筆者は、サブカルチャーの若者たち、例として暴走族が、つなぎ服、鉢巻き、独自の漢字表現、右翼的なスローガン、改造バイクなどのさまざまな商品をつなぎ合わせてることで消費社会での「野性の思考」を実践していることを喝破している。
このことはドラッグ・クイーンが破壊的な化粧やきわどい衣装、装飾品を身につけていることと通じるのでは、と思い苦笑してしまった。つまり「彼女たち」も暴走族と同じように「野性の思考」でもって社会に象徴的闘争をしかけているっぽい(笑)。

最後にこの本ではじめて知ったミシェル・ド・セルトーの含蓄のある言葉をメモしておきたい。
「他者のゲームすなわち他人によって設定された空間のなかで戯れ/その裏をかく無数の手法が、細く長くねばりづよい抵抗をつづける集団の活動の特徴をなしている」

ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』(国文社、1987年)






いけない読書マニュアル

風間賢二著/ 自由国民社



何か新しいジャンルを開拓するとき、闇雲に手を出すよりは、やっぱりガイドブック等を利用するのが手っ取り早い。これだけ本やCDが溢れかえっていると、何から手を付けてよいかわからないし、たまたま入った本屋の棚にある本が、その人に向いているかもわからない。
こういうときには、まず、そのジャンルの「目利き」に頼るのが一番だろう。その方が自分の求めている「これだ!」と思う本やCDに早くめぐり合うかもしれない。

それでたまたま読んだシオドア・スタージョンの
『たとえ世界を失っても』がとても素晴らしかったので、SFに関心をもち、もっと多くのSF小説を読んでみようと、SF関係のガイドブックや入門書、あるいはWebサイト等に目を通して、いわゆるSF通の人の意見を参考にしようとした。

しかしこれが正直言って苛立つことが多かった。SF通の人たちの言動ってこんなものだったの?と首を傾げてしまった。

例えばサミュエル・ディレイニーについて。彼なんてずっと以前からゲイ問題のスポースクマンとして精力的に活躍しているし、国際ゲイ・レズビアン研究で基調講演も行っている。著作には「Black Gay Man: Essays」なんて本もある。国内でも巽孝之編集の『サイボーグ・フェミニスト』にも論文が翻訳掲載されているし、そこには彼の夫人がレズビアン詩人として活躍している旨も書いてある。それなのに長年日本でSFに携わってきた人がディレイニーが黒人でゲイだと知って驚いたと(あるいは、「正確には」バイ・セクシャルだとか)書いてある。そんなことで驚くその感性にこそ、こちらが驚き脱力してしまう。
それともそのことを知っていて、わざとそう書いてあるのだろうか。「正確には」どうなんだろう。

そういえば、某「有名」クラシック音楽批評家は、ある音楽雑誌で「指揮者はホモとユダヤ人ばかりになってしまう」とまるで「一部の欧米人(エスタブリシュメント? いやプア・ホワイトでしょう)」がするような危惧をされていた。
この人はもちろん日本人なのだが、多分彼は、ショパン・コンクール等の音楽コンクールで、多くの「アジア人」が上位入賞することに、欧米の一部の人たちと同じように本当に危惧をしているのかもしれない。こういった「一部の欧米人感覚のような彼の感覚」を同じように身につけたい人は、彼のチョイスを選択をすれば良いのだろうし、そうでない人は別な人のチョイスを参考にすればよい。それだけだと思う。

まあ、どこでもそうだけど、長い間、その「狭い」ジャンルで活躍してきた(パラサイトしてきた)人は、自分を神か天皇のように思ってしまうのだろうな。

前置きが長くなったけど、僕がSFのガイドブックとして参考になったのが、風間賢二、笠井潔、巽孝之氏らの一連の著作である。
ここでは風間賢二著『いけない読書マニュアル』の中から今後読みたいと思った本をメモしておきたい。 風間賢二氏は『快楽読書倶楽部』でも書いたように、その情報量は素晴らしく、彼のチョイスには信頼を置いている。文章にも差別的な言動や不愉快な物言いはない。ここのところ惰性で買っているミステリマガジンの中でも風間氏の「文芸とミステリのはざまで」は気になるブックレビューの一つである。
この本では、SFをはじめ、ポストモダン小説からポルノまで幅広く面白そうな本を紹介している。読まずには死ねない。

まずSF関係

それとSF以外。これがまた読書欲をそそる。

ラヴ・ロマンス小説

ポルノ小説
モダン・ファンタジー&ホラー小説
モダン・ホラー短篇小説

あと、 自由国民社読書の冒険シリーズで、以前ミステリマガジン「殺しの時間」を担当されていた若島正氏の 『乱視読者の冒険 奇妙キテレツ現代文学講座』、ゲイリー・インディアナやジョン・フォックスを訳している越川芳明氏の 『アメリカの彼方へ ピンチョン以降の現代アメリカ文学』も読みたくなった。






会いたかった人

中野翠著/ 徳間書店



中野翠の文章、好きだなあ。平易でリズミカルでそれがとても小気味良くって。そうだな……潔い。そう、彼女の文章は、潔い、簡潔。この本の冒頭、ジョージ・オーウェルについての書き出しはこうだ(ちょっと長い引用です)
 私は文筆業だが、確固とした思想を持っているわけではない。たいした主義主張があるわけではない。
 いや、むしろ思想(のようなもの)を持っているときは何も書けなかった。大学を卒業して十年以上たって、自分の頭にあった左翼的イデオロギーの建造物がガタガタに崩れて、「私はやっぱり頭のいいほうじゃない。頭より体のほうがまだしも信頼できそうだ」と悟ったとき、初めて何か書けるような気がしてきたほどだもの。
 今でも、自分の頭よりは自分の体のほうを頼りにしている。手がかりにしている。私の体をこわばらせたり、むすがゆくさせたりするものは、どんなに世間がほめちぎっているものでも「ダメなもの」だと思ってしまう。「嫌いだ」と思ってしまう。ただ、こういう仕事をしている限り、「ダメ」だの「嫌い」だの並べ立てているだけでは面白くも何ともないので、しようがないから少しは頭を使って、どこがどうダメなのか、どこがどう嫌いなのかを自問してひとリクツこねて、文章にしているだけなのだ。
この本は、中野翠が「できれば会って話したかったな」と思う人について綴った人物エッセーである。よく知っている人から、誰それ? と思う人、あーそういえばそんな人がいたなあ、と思わせる人物について、「この人流」の愛情をめいいっぱい注いだものである。ときに軽妙に、ときにシリアスに、彼女の筆致は冴え渡る。

いちおう対象となる一癖も二癖もありそうな愛すべき人たちの名前を挙げると……ジョージ・オーウェル(作家・評論家)、チェルヌィセェフスキイ(ロシアの思想家)、ココ・シャネル、樋口一葉、左ト全(俳優)、高校生A君(祖母殺し高校生自殺事件)、田中清玄(思想家・実業家)、古今亭志ん生、”美人ママ”A(商社員射殺事件)、ロバート・L・フィシュ(ミステリ作家)、プレストン・スタージェス(映画監督)、エルザ・スキャパレッリ(ファション・デザイナー)、ピーター・ローレ(俳優)、淡島寒月(趣味人・作家)、熊谷守一(画家)、ダイアン・アーバス(写真家)、今 和二郎(考現学者)、佐分利信(俳優)、P・G・ウッドハウス(ユーモア作家)、福地桜痴(新聞人・劇作家)、三田平凡寺(コレクター)、福田恆在(評論家・劇作家)、松廼家露八(幇間)、内田魯庵(評論家・古書研究者)、依田学海(漢学者・劇作家)、徳川夢聲(芸能人・随筆家)、ジェームズ・サーバー(作家・イラストレーター)、中里介山(作家)、中野みわ(中野翠の祖母)……以上。ふう、疲れた。

いくつか(何人か)紹介したいけど……なんて書いているといつのまにかほとんど全部紹介したくなってドツボにはまりそうなので、ほんとうに何人か、ちょっとだけ……。
ココ・シャネルとか樋口一葉なんていまさらだし、あまり個人的に興味のない人なので──シャネルよりもスキャッパレリのほうが会ってみたいな。

高校生A君の事件はこの本のなかで特に印象に残ったものの一つ。有名私立高校生Aが祖母を殺して飛び降り自殺した、だけでなく、彼は膨大な遺書(彼独特の「エリート論」)をマスコミ宛に残していた。そしてミステリやSF小説、映画をかなり好んでいて、テレビをほとんど見ず、ピンクレディーも知らなかったという。筆者も書いているけど、そういうところ(ミステリ好き、テレビ見ない)、僕も他人事とは思えない感じがした。

田中清玄は、その生き方がなんか凄いと思った。東大中退→日本共産党入党→投獄→母の割腹自殺→転向→右翼の大物にもかかわらず全学連に資金提供(反-岸のため)。

ロバート・L・フィッシュのミステリーは読みたい。復刻希望。プレストン・スタージェスの映画も面白そう。ユーモアやコメディはとても好きだ(正反対のロス・マクみたいなべらぼうに暗いのも大好きだけど)。三田平凡寺のキャラは最高。元祖オタクか。

一方、深く考えさせられたのは福田恆在。彼のこんな文句にしびれた。
「善き政治はおのれの限界を意識して、失せたる一匹の救いを文学に期待する。が、悪しき政治は文学を動員しておのれにつかわしめ、文学者もまた一匹の無視を強要する」
「一流の文学はつねにそれを九十九匹のそとに見てきた。が、二流の文学はこの一匹をたづねて九十九匹のあひだをうろついてゐる」
シェイクスピアの翻訳で福田恆在のことは知っていたけど、この人の著作はじっくり読んで咀嚼したい(その時間が欲しい)。

ダイアン・アーバスはスーザン・ソンタグのエッセイでも触れられたいたけど、あの写真はちょっとイタイタしくて……でも彼女の人生は壮絶だったんだなあ。徳川夢聲はほんとうに凄い人。ジェームズ・サーバーは好き。以前読んだ『マクベス殺人事件』は爆笑ものだった。ジョージ・オーウェルはもともとファンです……。

やっぱり図抜けた人たちのお話はいい。もちろん中野翠のチョイスと鋭い切り口、そして「読ませる」文章力あってのものだけど。