カントはこう考えた
人はなぜ「なぜ」と問うのか


石川文康 著 / 筑摩書房



自由は第一原因である。原因は理由であり根拠であり、「なぜ」「なぜならば」であったから、第一原因としての自由は、意外に思われるかもしれないが、「なぜ」および「なぜならば」の極限である。日常のことばの使用法からすれば、「なぜ」は単なる疑問詞であり、「なぜなら」も単なる接続詞にすぎず、これらが自由とじかに結びつくことはない。それを思えばよくよく意外な地点に到達したものである。しかし、「なぜ」「なぜならば」「理由」「根拠」「原因」、そして「第一原因」と、一連の鎖を極限までたどってくると、おのずと「自由」に逢着せざるをえなかったのである。これらの鎖の項は、いずれも理性のメタモルフォーゼ(変容、化体)である。自由は理性の最終的メタモルフォーゼである。

p.203
この本の主人公は、「理性」と呼ばれる能力。この、ときに毀誉褒貶にさらされる「理性」について、著者はカントを通して、懇切丁寧に、徹底的に──「日本人」読者に対して──プレゼンテーションしてくれる。実に面白かった。著者が繰り返し発する「理性の『理』は理由の『理』」というスローガンが、「理性の破綻」=アンチノミーの考察を経て、本書の最後/クライマックスで、「自由の『由』は理由の『由』」と結実するところなんか、思わず膝を打ちたくなった。

話題もカントだけとどまらず、メンデルスゾーン、レッシング、フランシス・ベーコンらの思想にも触れ、魅力的なエピソードが続く。とくに、異文化理解を示し当時としては相当ラディカルなヴォルフらの啓蒙思想やアントン・ヴィルヘルム・アモーというヨーロッパ初の黒人哲学者の存在には、俄然興味を惹いた。
本書によると、アモーはガーナからアムステルダムに渡り、ハレ大学で学び、「ヨーロッパにおける黒人の法的地位」という公開討論を行った。その後ヴィッテンベルク大学で哲学博士のタイトルを取得、1733年のザクセン王の大学訪問にあたっては、アモーがその代表をつとめた。そしてアフリカに帰国するまで、ハレ、ヴィッテンベルク、イエナ大学で講師としても活躍したということだ。
普遍的理性という概念は、国家や民族や人種を超えて理性が、あらゆる民族、あらゆる個人に共通に支配しているということを意味する。とすると、人種差は問題にならないはずである。理性の世紀の精神風土はそれを可能にし、黒人哲学者アモーはそのことを実証した。現在、ハレ大学にはこの歴史的事実を記念して、アモーの碑が立っている。

p.82
啓蒙思想やアモーの話は美しく、崇高で、道徳心を呼び覚ますものであるが、しかし、この「理性の世紀」というのは、その一方で苛烈な「非理性」の弾圧を行ったということを忘れてはならない。そして理性主義者であるはずのカントが同性愛差別発言をしたことも、絶対に看過してはならない(中山元『フーコー入門』ちくま新書参照)。

このカントの同性愛差別発言について、それは時代的なものを考慮していないから公平な判断だとは言えない、と考える人がいるかもしれない。僕も以前は仕方のないことだと思っていた。が、今は違う。それはマーサ・ヌスバウムとブライアン・マギーの対談を読んだからだ(ブライアン・マギー編『西洋哲学の系譜』、晃洋書房)。
この対談でヌスバウムはアリストテレスの偏狭な態度──身分制度や女性差別──を問題にする。それに対しマギーが、そういった方向からの非難は時代を考慮していないのでは、と指摘。ヌスバウムは応える──なぜかといえば、アリストテレスが諸問題を認識する能力がありながら、また自説と異なる見解があることを知りながら却下している、さらにプラトンは女性の役割について建設的な知見を残している、と。

カントだって同様だろう。あれほど「理性」を謳っていながら、それを完全に発揮していない。古代では「青年愛」という歴とした事実もあった。エドマンド・バークやジェレミー・ベンサムは同性愛擁護の見解を示していた……それなのになぜ?

この同性愛差別発言のため、僕はカントが嫌いだった。もっとも中島義道がどこかで書いていたが、カントは潜在的同性愛だったという。しかしその「理由」というのが、カントが「女嫌いだった」という推測からのもので、どうも「根拠」薄弱だ。だって、これっておかしいだろう。「女嫌い」イコール「同性愛」ならば、「女好き」イコール「異性愛」ということになる。じゃあ、レズビアンは「異性愛者」なのか?──というように、冷静に考えてみたら、カントのアンチノミーって、レズビアンが「異性愛者」になってしまうような、つまり最初の前提がおかしいからじゃないのか。
だいたい、なぜ、日本では「○○嫌い」(ネガティヴ)が「同性愛」を指し示し、「○○好き」(ポジティヴ)が「異性愛」を指し示すのか? これこそ同性愛を「ネガティヴ」に位置付ける一つの「原因」ではないのか? 

それに、「ヨーロッパにおける同性愛者の法的地位」は、現在、ほとんど西欧諸国で確立されてきているが、先進国を「詐称」する日本ではどうなのか──なぜ日本では「議論の対象」にならないんだ? 日本人は「理性的ではない」のか(ラカンに「日本人にはエディプス・コンプレックスがない」と嘯かれながらも、それでも、涙ぐましくも何でもかんでも「精神分析」の「対象」にしてしまう邦人精神分析屋は、なるほど、商社マンさながらの商売人だ)。

もちろん、こういったことに関して「理性」それ自体には責任はないだろう。非があるのは、自分が「理性的」だと詐称する人たち。それは、カント研究家も、そしてカント自身も──なぜ彼は同性愛差別発言をしたのか?──例外ではない。
アジア的な蛮行は、たんに野蛮であるにすぎないが、ヨーロッパ的な蛮行は、野蛮や無知を克服したと称する至高の理性の名において、逆説的にも、アジア的な野蛮でさえ鼻白むような徹底した野蛮を実現するんだから。
(中略)
近代的な理性の権力や、その内面化システムについては、すでにフーコーが『狂気の歴史』や『監獄の誕生』で克明に批判していた。近代という理性の時代は、前近代的な非理性や反理性を社会秩序の外部に排除する「大いなる幽閉の時代」だった。つまり、徹底的に理性的たらんとした近代社会こそが、労働監獄や精神病院や、つまるところナチス・ドイツやソ連で典型的に実現される強制収容所の原理を生み出していた。

笠井潔『ユートピアの冒険』p.127-128




ヘーゲル・大人のなりかた


西研 著 / 日本放送出版協会



『精神の現象学』とは、人類の精神と社会制度とがどういう歴史をたどってきたのか、を描いた書物である。<人間どうしは闘争し合い、不平等な支配・被支配の社会をつくってきた。絶対的な権威をもつ宗教に人々がひれふすような社会もつくってきた。しかし、人類の歴史はまったく不合理な混沌ではない。人類は経験を通じて、少しずつ自分の価値観と制度とをつくりかえてきたからだ。いま人類は、自分の自由と他人の自由を認め合ったうえで、社会のルールをより合理的なものによってつくりあげる、という方向に進みつつある>

p.17
中心となるのは『精神現象学』の概説で、この部分だけを見れば、一般的なヘーゲルのイントロダクションと相違はない。しかし、この本では、「体系期」前の『キリスト教の精神とその運命』といった初期ヘーゲル思想が詳しく論じられ、またそこに著者の熱意が感じられること。そして、『法の哲学』をかなり「批判的に評価」──これもある種の弁証法か──していることが注目される。

例えば、「<愛の宗教>が人間を解放する」とみなしていた若きヘーゲル。そこでは、ほとんどニーチェにも匹敵するアンチ・クリストぶりが発揮される。
キリスト教は、超越的・外在的な権威、つまり絶対的な力をもつ神によって人間を支配する。それもたんに外から命令するだけではなく、内面から支配する(従わなければ、地獄に落とされる)。さらにキリスト教の司祭や牧師は、現実の権力者たる王や貴族と結託して民衆を支配している。<超越的な権威に脅かされ、そこから発する「掟」に隷従しなければならない>という構造において、キリスト教と専制権力は共通しており、互いに結び合ってもいる。

p.46
ひどく乱暴にまとめれば、この本では、「愛」の可能性を信じ理想主義的で「反抗期」の若きヘーゲル、複雑怪奇・多種多様な「社会現象」を体験するヘーゲル、そして老成してすっかり「保守反動」になったヘーゲルの「成長ぶり=大人への歩み」が描かれる。そこから、『精神現象学』に見られるような、社会に揉まれ、そのことによってさらにパワーアップしていく「意識」と同じような<タフ>でダイナミックなヘーゲル思想の「流儀」を、今現在、もっと評価してもいいんじゃないか、というアプローチが窺える。

(もちろんヘーゲル思想には、「しっかりしていなければ生きてゆけない」だけではなく「優しくなければ生きる資格がない」というレイモンド・チャンドラーを思わせる<人権>──当時のドイツではフランス流の「危険思想」でもあった──が重視されていることは、この本でも確認済みだ。そして現在の視点から見れば、いろいろと突込み所のある『法哲学』も、難点は難点として了解したうえで、しかし根底に流れているその「流儀」を大事にしようという「大人の姿勢」で望もうと。著者はここから、日本における在日外国人の問題などを提起する)

それと蛇足ながら。「大人のなりかた」という副題は、この本の出版(1995年1月)の約10年前にブームを起した浅田彰『構造と力』『逃走論』を意識したものだろう。何しろ「スキゾ・キッズ」のポストモダンは、ヘーゲルを諸悪の根源として敵視していた。この『ヘーゲル・大人のなりかた』でも、その浅田らポストモダニストによるヘーゲル批判が何度も言及されている。この本は、その意味でも、80年代の軽やかなポストモダンに対する90年代のアンチテーゼ(反省?)としての「歴史的」ポジションにあるんじゃないかと、僕は思う。

しかし『ヘーゲル・大人のなりかた』から約10年後の現在。「Gayになろう」というスキゾ・キッズのスローガンは、なんだかんだいっても定着したんじゃないだろうか。何しろイマドキの男子中高生は、ピアスに短髪(坊主刈り)という典型的なゲイの記号=ファッションでキめている。異性愛の男女関係は、同性愛の関係とみまごうほど「平等・対等」だ──年齢(容姿)と収入の「差異」が、ときたま、「ルプレザンタシオンの力関係」を示しているように見えるだけか。だいたい異性愛者が熱中している「出会い系サイト」なんて、かつてゲイが「相手を見つけるため/コミュニケート」にやっていた雑誌の「通信欄」のようだ。
また、現在「異性愛文化」として突出しているのが、ロリコン・マンガ/アニメ/ゲームであることを多くの人が「認識」しているだろう。男女とも、大人が子供になって(分裂して、スキゾフレイニーになって)、イマジナリーの領域で、美少女もしくは美少年と「戯れ」ている。「ポストモダン思想」は、ほとんど「オタク概念」と「同一性」を保っている。

一方、同性愛者はどうか。欧米のニュースを見ればわかるように、ゲイの目下の関心事は、プレモダンな価値の遂行──すなわち「結婚」「宗教」「軍隊」だ。そういえば、最近でも、ドイツの中道右派政党自由民主党党首がゲイであることをカミングアウトした。それは「共同体」からの「逃走」ではなく、「国家の人」(ステーツマン)に「成ろう」とする「権力への意志」の現われなのだろうか。
僕もジュディス・バトラー経由で、ヘーゲルって面白いな、と思っている次第。

これからは、今までのゲイにもヘテロにも微分(デファイランス)不能な──両者を弁証法的に統合(インテグレイト)した「メトロ・セクシュアル」が「時代精神」を代表するものになるかもね。



デカルト=哲学のすすめ


小泉義之 著 / 講談社現代新書



『方法叙説』「第一部」においてデカルトは、制度化されている専門職は、真実と善の探求をおろそかにしている「虚偽の資格」であると批判し、さらに、世間で行われている論争は「ほとんど虚偽の思想」であると批判していた。そしてデカルトは「虚偽の資格」と「ほとんど虚偽の思想」を「根こそぎ」にするのでなければ、真実と善の探求を始めることはできないとしていた。デカルトにならって私たちも、まず現代の虚偽を根こそぎにしておきたいのである。

p.9-10
素晴らしい! 
『生殖の哲学』も凄かったが、本書も物凄い。とにかく痺れた。価値観をグラグラと揺さぶられた。本を読みながら、これほど胸が高鳴るという経験は久しぶりだ。この本を手に取ってから、もうオリンピックどころではないし、マイケル・ムーアごとき小者で喧喧諤諤の論争なんて見てられない。
断言したい。思想界の唯一の金メダリストはデカルトだ。そして一国の「政治的虚偽」を暴いたぐらいのことで騒ぐことはない──政治なんてのを、国なんてのを「根こそぎ」にチャラしてしまうデカルトの哲学の前では小さい、小さい。とにかくこの本を読んでください!

もちろん「哲学」と言っても、取りたてて難しいことが書いてあるわけではない。ぎこちない漢語や気取ったカタカナ・フランス語が散りばめられているわけではない。文章は平易であるし読みやすい。しかし超弩級の「問題」が投げかけられている。難しいのは「問い」そのものだ、「問い」を感知できるかどうかだ──つまり「哲学」すること、だ。
「ザ・イエロー・モンキー」というバンドに「ジャム」という曲がある。ヴァーカルの吉井和哉による作詞・作曲である。「この世界に真っ赤なジャムを塗って食べようとする奴」の手が及ばない場所で、「二人の愛」と「好きな歌」を守りたいと願うメッセージ・ソングであるが、その最後のフレーズは次のように書かれている。
外国で飛行機が墜ちました
ニュースキャスターは嬉しそうに
「乗客に日本人はいませんでした」
「いませんでした」「いませんでした」
僕は何を思えばいいんだろう
僕は何て言えばいいんだろう
こんな夜は逢いたくて、逢いたくて、逢いたくて
君に逢いたくて、君に逢いたくて
また明日を待っている
遠くの死者について、私たちは何を思えばよいのか、そして、何を言えばよいのか。

p.10-11
デカルトの前では、ロックもカントもヘーゲルも「愚の骨頂」でしかない。パスカルもサルトルもメルロ・ポンティもヌルい。ウィトゲンシュタインもアーレントもダメだ。精神医学/精神分析なんて、それこそ「他人の精神的な不幸によって稼ぐ」「虚偽の資格」の代名詞であり、「精神の小役人」であり、卑劣、破廉恥、そして犯罪的だ。
たとえば、論争に参加するには<資格>が必要である。論争の作法を守る徳性、一定の教養、一定の言語能力などである。逆に、居眠りばかりする人間、徹底して不真面目な人間、訳の分からぬことばかり述べる人間は、その資格を欠いている。論争の参加者は、自分はまともであるという自己確信を相互に承認しあいながら、そして、まともとは見なされない人間を排除しながら、思想を紡ぎ出している。デカルトはこの資格を攻撃する。

p.60
もう一度書く。とにかくこの本を読んでください! なぜならば、この本で提示される問題は多岐に渡り、著者の指摘は極めて鋭意であり──ズドンと堪える、引用したい紹介したい部分が無数にあって、とてもここでは書き切れないからだ。しかしそれらを全て紹介したいという衝動/欲望を押さえ切れない! ドゥルーズの「自死」(自殺ではない)について書かれているところなんて目頭が熱くなった。
だから大切なことは、世界の中での果てしない労苦を讃えることではなく、宇宙から全く新たに始め直すことである。かくて宇宙を思惟することは、すなわち哲学者の神を観想することは、私たちの最高の喜びであり幸福である。
「ここで神自身の観想に沈潜し、神の属性を私なりに考量し……見つめ、讃え、崇拝するのがよかろう。神的な荘厳の観想の内にのみ……この世で我々が享受しうる最大の快楽を享受できることを、我々は経験するからである」
哲学者の神の観想とは、死にゆく者や生まれてくる者に開かれている光を見つめることではない。後者は制度宗教における無常観法や瞑想体験に似ているが、それは世界の観想にすぎないからである。哲学者の神の観想とは、死にゆく者と生まれくる者を支えているもの、無常観法や瞑想体験において開かれる世界を存在せしめるものを、見つめることである。そんな風にして哲学は、一切の制度宗教を乗り越えている。

p.129-130




ヘッジファンド
世紀末の妖怪

浜田和幸 著 / 文春新書



世紀末90年代に日、米、欧、アジアで起こった経済危機。ここには、資本主義/自由主義の生んだ「妖怪」が暗躍していた。その名は、ヘッジファンド……という、いささか陰謀史観めいた視点もなくもないが、豊富な資料と的確なフォローで、抜群のプレゼンを見せる。
ヘッジファンドとは何か、という基本事項から、ヘッジファンドの代表格である「クォンタム・ファンド」のジョージ・ソロス氏の経歴、そして日本やアジアで起こった様々な経済事象を──ヘッジファンド絡みで──読み解いていく。スリングな筆致でなかなか読ませる。

特に印象的だったのは、ジョージ・ソロス氏の素顔。1930年にハンガリーで生まれたユダヤ人ソロス氏は、言うまでもなく、ナチスドイツの迫害を受けた人物である。苦難の末、幸運にも九死に一生を得たソロス氏は、ロンドンで経済学を学ぶが、そこで知遇を得たのが哲学者カール・ポッパーであった。彼はポッパーの思想に心酔する。後に「オープン・ソサエティ」という慈善団体をソロス氏は創設するが、これは、ポッパーの「開かれた社会」にモロに影響を受けたことが窺える。
ソロス氏がカール・ポッパー氏を二十世紀最大の哲学者のひとりと持ち上げていることはすでに記した。経済学者フレデリック・ハイエク氏、あるいはロシアの反体制物理学者アンドレ・サハロフ氏にもたびたび言及している。ソロス氏によれば、彼らはいずれも、「自由で開かれた社会」と「不自由で閉じられた社会」を比較しつつ、ファシズムや共産主義の限界を説き、「自由」の尊さと資本主義の自由競争原理を生き抜く哲学を明らかにしている。特にポッパー氏の科学的発想に大いに啓発されたと述べているのは、人間の経済、政治行動の裏にある真理を科学的に分析する手法にひかれたためであろう。ソロス氏が後に『金融の錬金術』を出したのも、このポッパー氏に認められたいとの希望が強かったためといわれる。

p.157
なにかと毀誉褒貶のソロス氏であるが、こういった「オープン・ソサエティ」財団を通じて慈善活動や人権活動を行っている「事実」は留意しておくべきだろう──もちろんこういった慈善活動も、何かしらのカモフラージュであるような含みが、多少なりともこの本からは感じられるが。

(それにしても、アンドレ・サハロフ氏とは懐かしい。かつてソ連邦が健在だったころ「反体制物理学者」という「言葉」が良くニュースで流れていた──「反体制物理学」なんていう「物理学の一種」があるのかと思ったくらいだ。そういえば、ピアニストのスタニスラフ・ブーニンがソ連から亡命したときの読売新聞夕刊一面も忘れ難いなあ。一方、現在では、アメリカの「反体制映画監督」がニュースの人気者だ)

また、この本には、マレーシアで起こったアンワル副首相の逮捕についても──ヘッジファンド絡みで──詳説されている。これは、マハティールがアンワル副首相を「同性愛の罪」で逮捕した「政治事件」である。著者は、だいたいにおいて、反米、反ユダヤ、反ヘッジファンドの姿勢を取るマハティールを評価しているようであるが、しかし、ここに書かれた経緯を読めば、いかにマハティールが独裁者であり、政敵を平然と「消して」しまう専制者であるかは疑うべくもない。
こういう政治体制を取っているマレーシアは民主体制とは程遠く、北朝鮮とまったく変わりない。違うのは、キム・ジョンウィルが日本に挑戦的であるのに対し、マハティールは日本に「おべっか」を使っているだけだ。しかし両者とも最悪の独裁者である(あった)ことに変りはない。



古典への案内
ギリシア天才の創造を通して

田中美知太郎 著 / 岩波新書



ヘロドトスはギリシア人の「自由」というものを、ペルシアへ捕虜のようにして送られて行く二人のスパルタ人の言行を通して、ペルシア人の前に示す。かれらを迎えたペルシアの将軍は、むしろペルシア王に仕官することをすすめ、それによってギリシア人の支配者になれと言うのであるが、かれらは
「あなたのわれわれに対するその御忠告は、一方的な見地でなされている。あなたは奴隷の身の上はよく承知されているが、自由というものの御経験はないからだ。もしあなたに自由の経験がおありなら、これを守って戦うのには槍だけでは足りない、斧をもってせよと忠告されるだろう」

p.92-93
ギリシア学の大家によるギリシア文化案内。あえて専門の哲学を省いて「叙事詩(ホメロス)」、「歴史(ヘロドトス)」、「悲劇」の三つの分野を簡明に紹介していくが、しかしそこには、アリストテレスがこれらを「創作論(詩学)」で比較評論していたように、哲学的な視点が紛れもなく照射している。とくに「悲劇」に関しては、アリストテレスの『詩学』を手がかりに、著者は様々な問題を読者に投げかける。
アリストテレスは、いわゆる「善人栄えて悪人亡ぶ」の正理も、「善人亡びて悪人栄える」の逆理も、そのままでは悲劇にならないことを主張している。悲劇の成立には、むしろ人間の幸不幸が、単純には人間の正不正に対応しない場合のあることが考えられなければならないということである。このような対応のゆがみは、プラトンの『国家』において言われているように、原則的には否定されなければならないものであろう。しかしそれは同時に悲劇作品を否定することになったのである。これを逆に言えば、悲劇は人間の「不幸」を取扱うことによって、そのような正理に挑戦するかたちで、正しい人の不幸という問題にも取組まなければならなくなるということである。しかしこれはプラトンの『国家』や『法律』以来の、哲学や神学の最も困難な問題にまきこまれるということなのである。

p.168-169
この悲劇を論じる部分は、アリストテレスの『詩学』がそうであるように、まさに「評論」とは何であるのかを教えてくれる。そして痛快なのは、著者が「悲劇=文芸」を「評論」するのに持ち出される心理学的──つまり精神分析的解釈がいかに下らないものであるかを述べるところだ。
……『ヒッポリュトス』と同じく、どちらかと言えばピューリタンな、いわゆる「まじめ人間」の悲劇がここに取扱われているのを見て、これは性的なよろこびやその他の楽しみを抑圧することから生じる悲劇を取扱ったものであるとか、あるいは女性の夜あそびをいかがわしく思う人たちが、かえって「のぞき魔」的な欲望をかくしているのだというような、心理分析的事実をここに見ようとする人たちもある。しかしながら、これらの説明で何がわかったと言えるだろうか。心理学的説明ですべてがわかったように思う心理こそ、近来の安易な流行心理として、それ自体がかえって心理学的説明を必要とする現象なのではないか
「さかしらは智慧にあらず」
とコーラスも歌っているが、われわれがこの劇から学ばなければならないものは、そのような心理学的説明の安易さではないだろう。

p.190
ほんとにそうだ。エディプス・コンプレックスというデタラメな理論と性的メタファーの濫用によって、いったい、文芸作品の「何がわかった」と言えるのだろうか。わかるのは精神分析を使用する輩の傲慢さ、そして「教養のなさ」に他ならない。だいたい「精神分析」が「差別知」であることを「わからない」鈍感さこそ、分析されてしかるべきだ。

フロイトはヒトラーと同郷のもう一人のファシストである。
「<良い>ナチズムと<悪い>ナチズム」、
「<良い>従軍慰安婦制度と<悪い>従軍慰安婦制度」という議論が「無効」であるためには、「<良い>精神分析と<悪い>精神分析」という「弁護」もすべきではない。



ドゥルーズ

船木亨 著 / 清水書院



僕の持っている『アンチ・オイディプス』は1994年9月20日発行の13版。ということは、もう10年もほったらかし──積読──にしている。このままじゃいけない(時効になってしまう)、と思って、いざ読もうとしても、そう容易く読めるものではない……ことは「周知の事実」だよね。 
欲望する機械? 器官なき身体? 超コード化・脱コード化? スキゾ分析?

しかし『アンチ・オイディプス』は、その名の通り、下劣な「精神分析=エディプス」に対する「アンチ」の書であることも「周知の事実」だ。やはりその理論に触れておきたい。それでこの『ドゥルーズ』だ。
このコンパクトなドゥルーズ概説書では、『アンチ・オイディプス』について一章を費やし、基本的な言葉の解説から、その思想の魅力さ魅惑さ、そしてドゥルーズ=ガタリが挑んでいる差別知=精神分析の理論まで、みっちりと教えてくれる。手ぶらで十分に読める。
ドゥルーズ=ガタリによると、性的欲望の過程がどのようなものであるべきかを規定するのは社会体制であり、性欲(性器的欲望)を社会的に分離したのは、とりわけ資本主義体制である。性的欲望の意味が異性との結合にだけあるのではないということを指摘したのはフロイトであるのに、フロイトは、最終的には、異性愛の家族的道徳的形態を強制するブルジョワ・イデオロギーの中に入りこんでしまったと、ドゥルーズ=ガタリは批判する。結局、フロイトは、欲望について伝統的観念から決定的には離れられなかったのである。

p.73
もう最高だ! 「欲望する機械」の意味とか、「器官なき身体」が姿を現わすところなんて、並みのSF小説以上にセンス・オヴ・ワンダー。ゾクゾクする。これが1972年に書かれたなんて。ドゥルーズとガタリは本当にとんでもないことを考えるものだ。
もう気分はすっかりドゥルージアン。 なんだか無性に『アンチ・オイディプス』が読みたくなってきた。読もうっと。
フーコーが『アンチ・エディプス』を「倫理学の書」と呼ぶわけは、そのなかに「生活の手引」が書かれているからだといいます。それは、おそらく世の中を上手に泳いでいくための手引ではありません。あるいは、ひとり賢者になるための手引でもありません。それはまた、決して、西欧文明が求め続けてきた「よい社会」を形成するのに、市民がなるべき行動の理性的基準ではありません。その文明のなかで、それでも個人であるということを一心に見つめなおそうとする実存的生活の勧めでもありません。
フーコーの著作を読むかぎり、フーコーが求めていた「倫理学」は、それらのいずれでもないが、しかし、われわれに生活の指針を与えてくれるようなもののことです。その指針を、フーコーは、「非ファシスト的生活への指針」といいなおしています。ファシズムは、理性的主体のなかにも宿ります。あなたのなかに、小さなヒトラーが息づいてはいないでしょうか? われわれにとって重要なことは、理性的であるか否かということよりも、少なくともファシストではないかどうかということなのです。

p.4-5




キケロ
ヨーロッパの知的伝統


高田康成 著 / 岩波新書



国政という高次の理念に照らしたとき、修辞学の効用は功罪相半ばする。そして修辞学(雄弁の学)が最も国のために役立つとすれば、それは哲学(英知の学)と手を結んだときに限られる。哲学的英知は尊く必要なものではあるが、国政の実践には、それを活かす雄弁がなければ役に立たない。とはいえ、英知を欠く弁舌だけというのは、役に立たないどころか国政にとって有害である。──「雄弁」と「哲学」に関して、キケロが考えた理想的関係は、哲学が必要条件を、雄弁が十分条件をそれぞれ同時に満たすような場合と言うことができるだろう。

p.51
泰西の学徒は、ラテン語の授業でキケロを読まされて(暗誦させられて)「キケロ嫌い」になるそうである。しかし我が本邦ではそんなことはまず起こり得ない。マークシートの試験で、雄弁家=キケロ、ネロ帝に自殺を命じられた=セネカの区別がつけばOK。楽勝だ。「キケロ嫌い」になるワケがない。好きになる理由も、もちろん、ない。
(代わりに、『平家物語』や『長恨歌』あたりを暗誦させられて、古典嫌いになった人は多いかもしれない──僕がそうだ)

もっとも、嫌いになる理由もなければ、好きになる理由もない、というのも味気ない話だ。学生の頃、強制的に読まされた「古典文学」や、無理やり聴かされた「古典音楽」が、結構印象に残っていて、存外に面白いのではないか、ということが後でわかったりする。洋琴を習った経験のある人ならば、バッハ翁の『インベンション』や『平均律』あたりで「ピアノ嫌い」になっても、後でバッハ大好き人間になったりすることもある──僕がそうだ。

話がずれたが、この本では、日本ではあまり「関心」を惹かない「ラテン的教養」とは何であるかについて──延いては、そもそもヨーロッパの知的伝統とは何であるかについて──その「ラテン的教養」の主役とも言えるキケロを通して、いろいろと考えさせてくれる。キケロその人についても興味が尽きなく、雄弁家としてのキケロ以外にも、政治家としてのキケロ、哲学者としてのキケロと、そのカメレオン・マンぶりにはとても魅力を感じる。

もちろん、この本の題名は『キケロ』なんだから、キケロの紹介がメインである。しかし個人的に読み応えがあったのは、「ラテン的教養」がおざなりになっている日本の西欧理解への著者の強烈な批判だ。
西洋諸国において、なぜキケロがこれほど問題にされつづけているかと言えば、答えは簡単明瞭である。西洋の文化は過去の積み重ねからなっており、その言語、歴史、思想にわたって、キケロは今なおその伝統的基盤としての地位を失っていないからである。今かりに、われわれの生きている時代が「ポスト・モダン」つまり「脱近代」だとしても、「ポスト・モダン」と見栄をきって呼ぶからには、それがまさに脱皮したところの「近代」を正しく認識することが前提となる。

p.165
これはけだし異常な文化的風景である。たとえばヴァルター・ベンヤミンは確かに重要な思想家に違いないが、その翻訳と研究が多量に行われる一方で、アリオストという西欧近代の一大ベストセラーの翻訳が行われていない。イギリスやアメリカの現代小説の翻訳と研究がダンテやボッカッチョの何百倍も行われ、デリダやドゥルーズのほうがキケロよりも数段有名であるという「西洋事情」は、およそ健全な姿とは言いがたい。

p.169
ま、ここまでは良くある「ポストモダン批判」である。が、しかし著者のテンションの高さは、これだけでは済まない。
しかしなぜこうなってしまったのか。その第一の答えは「富国強兵」であり、第二には「実用主義」である。

p.169
ここから一挙にギリシャ文化を西欧文化の「本源主義」と見なす状況に対し、著者は異議を唱える。すなわち中世、ルネサンス初期においてはギリシア文化はあまり西欧に知られていなかった。主流はローマ・ラテン文化に他ならない。ルネサンス以後、たしかにギリシア文化が紹介され始めたが、ラテン文芸の優位は揺るがなかった。ギリシア文化への「崇拝」は、ほんの二百年前に始まり、とくにドイツで熱狂的に担がれたにすぎない。「ギリシャへの憧れは、まだ見ぬ恋人を想うそれに似ていた」
このギリシャへの熱狂的な憧憬、美と生命力と文明の源がギリシャにありとする本源主義は、とりわけドイツにおいて水際だっており、この嵐のような文化的現象をある学者は「ギリシャの暴虐」と呼んだ。本源主義からすれば、ローマ文化は当然に「亜流」であり、繰り返しを恐れずに言えば、ウェルギリウスよりホメロス、ホラティウスやプロペルティウスよりサッフォー、キケロよりプラトンとなるのは必定だろう。ニーチェも言う、「世界史の中で唯一の天才的な民族としてギリシャ人たち。彼らは、学ぶ者としても、天才的な民族である、彼らは、このことを最もよく理解しており、ローマ人たちがそうしたように、徒に借り物でもって飾りたて磨きたてたりする術などは知らないのである」

p.180-181
そして、言うでもなく、西欧列強──とくにドイツを手本として近代化を図った日本は、こういった当時の状況をそのまま、何の疑問もなく受け入れた。ローマ・ラテン文化はスルーされた。戦後は、アメリカ文化へとスライドした。
漱石は「上滑り」と言い、鴎外は「普請中」と称して、われわれの近代化が皮相であることを批判した。杢太郎もそのことを十分認識し、西洋古典の必要性を説いた。林達夫はキケロの『弁論家について』のもつ特殊な重要性まで指摘した。
(中略)
……米英文化の輸入超過は、映画からポップ・ソングまで、あまりにも明らかであり、その根底には英語を媒介としたアメリカン・カルチャーの偏在ということがあるだろう。そして、「キャピトル・ヒル」を首都にもつ国の文化を、その根源にまでたどって、カピトリヌスの丘をもつ文化との関連で見る人は、少なくともわが国では、少数派に属する。

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