THE BALANESCU QUARTET [East meets East]
バラネスク・カルテット:East meets East Y.M.O
The Balanescu Quartet

  • TECHNOPOLIS
  • RYDEEN
  • INSOMNIA
  • BEHIND THE MASK
  • SOLID STATE SURVIVOR
  • CUE

アレクサンダー・バラネスク(第1ヴァイオリン、ビオラ)
クレア・コナーズ(第2ヴァイオリン)
ニック・ホランド(チェロ)


CONSIPIO RECORDS

『ポゼスト/POSSESSED』ではクラフト・ワーク、トーキング・ヘッズを取り上げたバラネスク・カルテットだが、この『East meets East』ではYMOをカヴァーしている。
YMOといえばなんといっても「電気系」(テクノ)のバンドだろう。それが弦楽四重奏という西欧音楽の中核とも言える、まったくコンサーバティブなスタイルで演奏されるとは。

しかしさすがはバラネスク・カルテット。弦楽四重奏の機能美を存分に証明する演奏だ。そこには弦楽四重奏ならではのアレンジが施され、取って付けたような違和感はまったくない。高橋幸宏が監修をしていることにより、オリジナルとの齟齬も解消されているはずだ。
なによりこのバラネスクの演奏を聴くと、すごく気分が昂揚する。聞こえてくる音楽は素晴らしくスタイリッシュで抜群にノリが良い。

ああ、「TECHNOPOLIS」ってこんなにかっこいい曲だったんだ、「BEHIND THE MASK」はハーモニーが絶品。「RYDEEN」は、断片的な素材が次第に型を形成していき、やがてあの有名なメロディーになっていくところなんてゾクゾクくる。

ただし、その時点でYMOという存在を忘れている。そのエレクトロニック・サウンドは、かつてどこかで聴いた思い出の中のエコーになる。代わって、今、思い浮かべるのはベートーヴェンであり、シューマンでありバルトークである。
そしてバルトークから<東>を感じさせるように、この音楽も、時折、<東>を感じさせる。
それでもこのアルバムのタイトルは『East Meets East』である。『West Meets East』にはならない。

バラネスク・カルテットは、ルーマニア出身のアレクサンダー・バラネスクにより1987年ロンドンで結成された。まだ<東>が存在していた。しかしそれだけで<東/East>を強調したわけでもないだろう。<西/West>には、時に「優越」という意味があるにしても。
彼らは、音楽を含む様々な自分たちの「角度」と「方向」に誠実なだけだと思う。

(一方で、先日読んだ高城響の<心無い>「やおい」論のように、自分の「角度」からみて、必死に「優越」したいという「願望」からくる「強情さ」しかないものも、この世界には流通している)

ジャンルの壁を容易くぶち破り、風穴を開け、越境するバラネスク。彼らはサウンドを豹変させ、既存のコードを覆す。そこから新鮮な音楽が発ち現われる。

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Boulez [Répons]
ピエール・ブーレーズ:レポン、二重の影の対話
Pierre Boulez (b.1925)

  • Répons (1981 - 1984)
  • Dialogue de l'ombre double (1985)

Dimitri Vassilakis, Florent Boffard (piano)
Fédérique Cambreling (harp)
Vincent Bauer (vibraphone)
Daniel Ciampolini (xylophone & glockenspiel)
Michel Cerutti (cimbalom)

Ensenble InterContemporain
Pierre Boulez


recording 1996 / DG

ある記者会見で「オペラを書く予定は?」と訊かれたとき、作曲家ブーレーズは、『レポン』をオペラだと思ってください、とその質問に応えた。
もちろん『レポン』はオペラではない。「基本的に」器楽曲であるし、視覚効果は必要としない。しかしこのブーレーズの特異な傑作は、オペラが映像なしのCDではどうしてももどかしい場面があるように、『レポン』もまた2チャンネルスピーカーから流れるCDでは、その音楽の本質全てを聴き得ることは難しい。

それはこの『レポン』という楽曲が、その重要な構成要素として「空間」を必要としているからだ。つまり『レポン』が形成する音響世界では、各音素は、音高や持続、リズムだけでなく「ベクトル」を有している。そのパラメーターに音の「位置」「方向」が加わっているのだ。

空間は次のようにアレンジされる。まずステージの中央に室内アンサンブルと指揮者が、それを取り囲んで「聴衆」が、さらにホールの四方にソリストたち──二台のピアノ、ツィンバロン、ハープ、ヴィブラフォン、グロッケンシュピールが配置される。ソリストたちの奏でる音はコンピューターで変換、処理され、リアルタイムで(これが重要、従来の「テープ」音楽と一線を画く)、6つのスピーカーから放出される。
この「アレンジ」により「音」は立体的な位置と方向性(ベクトル)を獲得する──空間-化する。

「レポン」は、グレゴリオ聖歌の「応唱聖歌」、つまりソロと合唱の応答/返答/反響から取られている。ソロ(唯一)と合奏(多)との応答、複数の空間構造=レイヤー/次元を超えた、音たちの交感、反響──それがこの『レポン』の究極の狙いである。その表現のためブーレーズは「テクノロジー」を導入した。それがフランスが世界に誇るIRCAM(ポンピドーセンター)のテクノロジーである。

このように書いてきたが、ではこの曲をCDで聴くことは、オペラを映像なしのCDで聴くような物足りなさをどうあっても拭えないのだろうか。それは実はある程度クリアーされている。テクノロジーを駆使した楽曲は、テクノロジーで解決される。この曲をヘッドホンで聴くことにより、擬似的な臨場感を味わえるようになっている。

『レポン』は美しいと同時に驚異的でもある。有無を言わせぬ眩い色彩感に圧倒される。とくに室内アンサンブル(多)による「イントロダクション」の後、だしぬけに、ソロ(個)の音響が介入してくるその瞬間は、筆舌に尽くせない美麗さと驚きがある。世界中の鏡が割れたような、現世界に亀裂が走ったかのような信じ難い衝撃、動揺……それは<個>が<多>に仕掛けたテロル。恐るべき知性による破壊的なまでの美。究極である。
この作品は20世紀音楽のひとつの頂点であり、ジャンルを超えて、テクノロジーと音楽との「共犯」に関心がある人は、必聴であろう。

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SCHIFRIN・SCHULLER・SHAPRIO [Piano Trios]
シフリン/シュラー/シャピロ:ピアノ三重奏曲

Lalo Schifrin (b.1932)
  • Hommage à Ravel (1995)
Gunther Schuller (b.1925)
  • Piano Trio (1984)
Gerald M. Shapiro (b.1942)
  • Piano Trio (1992)

Eaken Piano Trio

recording 1996 / NAXOS

NAXOS は本当によい音楽を見つけてきてくれる。このアメリカの「知られざる」ピアノ三重奏曲に出会うことができ、 NAXOS には感謝の気持ちでいっぱいだ。

とくにジェラルド・M・シャピロのピアノ三重奏曲。シャピロの名は、このCDで初めて知った。素晴らしい音楽だった。こんなにもカッコよく、こんなにもエキサイティングで、そしてこんなにもエモーショナルな音楽にはなかなか出会えないだろう。ジャズの影響が感じられるのは、まあアメリカの音楽ならザラであろうが、それプラス、シャピロの曲にはフランス音楽の洒脱さとロマン派を思わせる陰影豊かな抒情味が奇跡的に融合されている。

解説によるとシャピロはアメリカで学んだ後、パリの国立音楽院に留学。そこでダリウス・ミヨーやシュトックハウゼン、ナディア・ブーランジェらに師事したそうだ。なんとなく彼の作風の一端がつかめるだろうか。

幾分重々しく始まる──対位法を駆使した──アンダンテ、プロコフィエフを思わせる騒々しいスケルツァンド(弾けるリズム、諧謔的、しかし快感だ)、都会的なアンニュイさを孕みつつ甘美なメロディーで酔わせるアダージョ──まさにエスプレシーヴォで。
そしてフィナーレ。ジャズ風の複雑なリズムが交錯し掻き鳴らされる只中に、夢見るようなどこか懐かしいメロディーが繰り返され、最初はひっそりと静かに、そして次第にくっきりとその印象的なメロディーがクローズアップしてくる。ミニマル的な手法であるが、この「繰り返し」が情動を揺さぶり、身体の感覚に訴え、聴くたびに新鮮な気分にさせてくれる──心身ともに。

シャピロに比べると、ラロ・シフリンもガンサー・シュラーもかなりの有名人だろう。ラロ・シフリンは言うまでもなく『ミッション・インポッシブル』や『ダーティー・ハリー』等、映画やTV音楽で成功を治めた商業音楽家であるし、シュラーは「第3の流れ」(Third stream)を提唱しピュリツァー賞も得たアメリカを代表するアカデミックな作曲家である。
ただ彼らのピアノ三重奏曲、とりわけラロ・シフリンの曲はやはり「知られざる傑作」であろう。

シフリンの『ラヴェルをたたえて』はその題名の通り、作曲家モーリス・ラヴェルへの溢れんばかり敬愛を綴った作品である。たしかにラヴェル風の音楽である──印象派風のハーモニー、エキゾチックなメロディーなど。しかしそこはシフリン、単なる「模倣」とは違う彼ならではの個性溢れる作品になっている。リズムにしろ音色にしろ展開にしろ、シフリンならではのファンタスティックな音楽が響き渡る。
アルゼンチン生まれのシフリンは地元でエンリケ・バレンボイム(ダニエル・バレンボイムの父)らに学び、さらにパリのコンセルヴァトワールで学んだ。そこではなんとオリヴィエ・メシアンのクラスに出席している。とすると、シフリンのあの華麗な映画音楽には、出身地南米の大胆なリズムとともに、メシアンの影響をも感じ取れるかもしれない。

ガンサー・シュラーは多少晦渋なところもあるが、万全の理論武装を施した「現代音楽でありジャズである」サウンドがとても興味深い。一筋縄ではいかない独特の響きを感じ取れる。

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KOSTABI [I Did It Steinway]
マーク・コスタビ:I Did It Steinway
Mark Kostabi (1960)
  • Glisten
  • Distorted Mirror
  • Wishful Thinking
  • 1,000 Kites
  • Eternal City
  • Hidden Canyon
  • 2,000 Kites
  • Red Leaves
  • Dark Dance

Mark Kostabi, Piano

recording 1998 / Artists Only! Records

マーク・コスタビの絵画作品はご存知の方も多いだろう。 あの独特の質感を持ったのっぺらぼうの人物たち。シュールレアリスムっぽいけど決して暴力的ではないし、無闇に性的でもない。むしろ端正でエレガントでさえある。古典絵画の引用もお手のもの。

このCDはそんな現代絵画の「異端児」マーク・コスタビが、いつものペンをピアノに持ち替えてリリースしたミュージック・ディスク。題して『I Did It Steinway 』。そう、実際コスタビ自身が作曲し、スタインウェイ・ピアノを弾いているのだ。

曲は歯軋りするような前衛タイプではなく、調性感のある穏当なもの。感覚としてはプーランクあたりに近いかもしれない。深刻ぶらず、音の響きそれ自体をそのままエンジョイする、という感じ。こういうのも悪くない。

まあ演奏に関し、ピアニスト・コスタビを、ポリーニやアルゲリッチあたりのクラシカルピアニストと比較するなんていう野暮なことは抜きにしよう。そりゃあメカニカルな弱さは感じるし、音色も単調であることは否めない。しかし「詩的さ」ではコスタビのピアノはポリーニに引けを取らないし、スピーカーからはなかなかに魅力的な音楽が流れ出てくる。

こういってはなんだが、やぱりポリーニは暴力的なまでに完璧であるし、アルゲリッチは不埒なまでに挑発的で、たしかに唖然とさせられるが、ときどきそういった演奏が、やたら暑苦しかったり窮屈な感じがしてしまうこともある。
でもコスタビのピアノは、彼の絵画がそう感じさせるように端正でエレガント、そしてクールだ。

いま、1992年に新宿三越美術館で開催されたマーク・コスタビ展のパンフレットを見ている。そのときのキャッチフレーズは「ブラウン管のアダム」だった。なんだかプレ・インターネット時代の懐かしさを感じさせる。彼の音楽もどこかノスタルジックに聴こえる。


[Kostabi.com]
http://markkostabi.com/

[Artist Only! Records]
http://www.artistsonly.com/

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